第79話 食べるな、名を呼ぶな
十五歳の冬が終わりかけた頃、雪に埋もれていた街道がようやく開いた。
食料馬車がアウルムへ入り、市場にも少しずつ活気が戻る。学院食堂の倉庫には新しい麦袋が積まれ、料理長は心底嬉しそうに「古い方から使えよ」と倉庫番へ念を押していた。
先入れ先出しは、無事に定着したらしい。
俺としては、少し休みたかった。
残念ながら、大図書館は俺を休ませてくれなかった。
「見つかりました」
メリナさんが机へ置いたのは、一冊の薄い台帳だった。
紙そのものは古い。
でも、俺たちが追っていた東方資料とは関係なさそうな表題がついている。
**『旧災害指定史料・整理番号対応簿』**
「災害?」
俺の隣でレオルが眉をひそめる。
メリナさんが頷いた。
「王都へ移送された資料の複写記録を整理していて気づきました。根のない樹が押された資料には、通常の図書番号とは別に番号が付けられています」
それは俺たちも見ていた。
銀の樹。
その横に小さな数字と文字。
意味が分からなかったから、とりあえず全部記録していた。
あの時は、それだけだ。
フィアが自分たちの記録帳を開いた。
「これ?」
「そうです」
例えば東方第七航路記録。
通常の図書番号とは別に、
**旧災・東・四六二。**
農業資料には、
**旧災・東・四六七。**
古い祭祀資料は、
**旧災・東・四七一。**
数字が近い。
俺は対応簿を見る。
「この番号から、別の資料を探せる?」
「それが本来の用途です」
背筋が伸びた。
王都へ持っていかれた原本そのものは読めない。
でも。
番号は残した。
俺たちが複数の場所へ写しておいた。
それが今、別の資料への入口になった。
フィアが俺を見る。
「やっぱり残しておいてよかったね」
「……うん」
少しだけ笑った。
一冊を持っていけば終わると思ったなら、残念だったな。
数字まで持っていくべきだった。
対応簿を辿る。
四六二。
東方航海記録。
処理区分――第二種。
四六七。
東方穀物調査。
処理区分――第二種。
四七一。
旧祭祀形式調査。
処理区分――第一種。
そして、それら三つの番号の横に、同じ参照先が書いてあった。
**『神話災害事例集・東方第五号』**
メリナさんがその題名を見て、黙った。
「ありますか?」
「……あります」
「読める?」
返事まで少し間があった。
「危険指定ではありません。ただし、長い間ほとんど参照されていない資料です」
理由は簡単だった。
事例集自体には、神名も祭祀の詳しい手順も書かれていない。
何が起きたか。
何を禁止したか。
誰が処理したか。
結果だけを残す、行政記録だった。
だから消されずに残った。
それが皮肉だった。
神の名前を消した人間たちは。
**神の名前を消した記録まで消してはいなかった。**
書庫から運ばれてきた事例集を、俺たちは立会人の前で開いた。
古い文字。
難しい。
でも五年近く学院で歴史資料を読んできた。
八歳の俺なら一行目で寝ていたと思う。
今なら読める。
少しずつ。
レオルが文章構造を解き、フィアが行政用語を確認し、メリナさんが古語を補う。
そして。
一行目から、空気が変わった。
**『東方旧文化圏において、消失指定後も祭祀反応を確認。』**
俺の指が止まる。
消失指定。
何だ、それ。
続ける。
旧文化圏の地名は伏せられている。
神名も黒く塗られている。
でも事例そのものは残っていた。
ある集落で、古い石板が発見された。
そこに書かれていた神の名を、住民が声に出して読んだ。
その夜。
神殿の世界樹像が発光。
周囲の魔力が乱れた。
別の記録。
失われた形式の供物を偶然再現した。
翌朝。
季節外れの発芽。
さらに別の記録。
古い穀物を育て、収穫し、集落で分けて食べた。
直後。
祭祀跡から未知の魔力反応。
俺は読めなくなった。
いや。
読める。
分かりすぎる。
石板。
神名。
供物。
発芽。
穀物。
食事。
全部。
全部、俺が見てきた。
レオルが俺を見る。
「レン?」
「大丈夫」
大丈夫じゃない。
でも読む。
ここで止まれない。
次の頁には、旧神話災害対策局が出した処理指針があった。
短い命令文が並んでいる。
**『旧東方文化に属する地名を広めることを禁ず。』**
**『指定された神名を口伝、記録ともに残すことを禁ず。』**
**『指定穀物の増殖を禁ず。』**
そこまでは、まだ理解できた。
そして。
次。
**『旧形式による供物の再現を禁ず。』**
俺は息を止めた。
フィアが小さく言う。
「食べ物まで……?」
さらに、その理由。
何度も読み直した。
古語が多い。
間違えたくない。
メリナさんにも確認してもらう。
それでも意味は変わらなかった。
**『人が神名を想起し、旧き食を供し、その意味を複数人が共有した場合、消失した神格に類する再反応を確認する。』**
静かだった。
誰も喋らない。
俺の耳には、自分の心臓の音だけが聞こえていた。
人が覚える。
名を呼ぶ。
食べる。
供える。
意味を共有する。
それで。
神が戻る?
頭の中に、祖父の声が蘇った。
神社の境内。
まだ日本があった頃。
俺は神饌について聞いたことがある。
どうして神様に食べ物を供えるのか。
詳しい答えは覚えていない。
でも祖父は、神様というのは、誰かが覚えて、祀って、物語を受け継ぐからそこにいる――そんなことを言っていた。
昔話だと思っていた。
宗教の話だと。
でも。
もし、この世界ではそれが本当に力になるのなら。
「レン」
今度はフィアだった。
「何か分かった?」
答えられない。
全部言えば。
日本のことを話さなければならない。
俺がどうしてその国の料理を知っているのか。
なぜ文字を読めるのか。
なぜ神名に反応するのか。
まだ。
言えない。
「……今までのことと、似てると思っただけ」
嘘ではない。
レオルが資料を指す。
「村で育ててる東方穀物のことか?」
「うん」
それなら三人も知っている。
サヨ。
稲。
古い祭祀。
少なくともそこまでは。
レオルは文章を読み直した。
「なら、セヴァン監査官が言っていた『危険』も嘘ではなかったことになる」
誰も反論しなかった。
神格が戻る。
それだけなら良いことかもしれない。
でも、過去には魔力災害も起きたと書いてある。
死人まで出た。
だったら、封じた側にも理由はある。
それでも。
「だから全部消していい、にはならない」
俺は言った。
自分でも驚くほど低い声だった。
「何が起きるか分からないなら調べるべきだった。全部忘れさせたら、安全になったのかどうかすら分からない」
メリナさんが静かに頷いた。
その時、トーマが頁の端を指した。
「これ、続きある」
事例集の最後。
処理結果一覧。
ほとんどの地域には、
**『封鎖完了』**
あるいは、
**『反応消失』**
と書かれている。
一つずつ追う。
そして。
一か所だけ違った。
**『東方辺境ヒムカ地域――処理未完。』**
身体が固まった。
その下には補足。
**『指定穀物および旧祭祀形式の断片的残存を確認。山間部への完全介入は困難。監視継続。』**
ヒムカ。
米が流れてきた場所。
八咫烏が導けと言った場所。
サヨが受け継いだ伝承の先。
最後の巫女がいると言われた東。
全部そこへ集まる。
「ヒムカ……」
フィアが地図を思い浮かべるように呟く。
「前から行きたがってたよね」
俺は頷いた。
昔は、米があるから行きたかった。
次に、サヨの伝承があるから。
その次は、日本の痕跡があるかもしれないから。
今は違う。
あそこには。
**消そうとしても消えなかったものがある。**
俺は記録の最後を読む。
そこには九十年前の担当者が残した短い備考があった。
**『ヒムカにおいては、食と祭祀の分離に失敗。土地の生活習慣そのものに旧文化が混入している可能性あり。』**
意味が分かって、震えた。
生活そのもの。
そうか。
神社だけを壊しても駄目だった。
本を燃やしても駄目。
神名を消しても。
毎日食べる飯。
挨拶。
祭り。
作物の育て方。
そういうところに文化が溶け込んでいたら。
全部消すには。
人間の暮らしそのものを消さなければならない。
俺は前世の夕食を思い出した。
妹が待っていた食卓。
味噌汁。
白い飯。
「いただきます」。
誰も、それを宗教儀式だなんて思っていなかった。
でも。
それこそが一番強いのかもしれない。
神様を復活させようと祈らなくても。
普通に食べる。
普通に言葉を使う。
普通に誰かへ教える。
それだけで文化は生き続ける。
「……強いな」
思わず笑った。
レオルが聞く。
「何が?」
「生活って」
三人にはまだ伝わらない。
でも俺には、少しだけ分かった。
日本を消した者たちは。
名前を消した。
土地を消した。
神話を消した。
それでも食卓まで完全には消せなかった。
だから。
残った。
俺はヒムカの文字へ指を置いた。
「卒業したら、ここへ行く」
今度は迷わなかった。
フィアが俺を見る。
レオルも。
トーマも。
「調べたいから?」
レオルが聞く。
「うん」
それだけじゃない。
確かめたい。
日本が本当に死んだのか。
それとも。
誰かの暮らしの中で、まだ生きているのか。
外では雪解けの水が屋根から落ちていた。
長かった冬が終わる。
そして俺の中でも。
ずっと別々だったものが、一つにつながり始めていた。
米。
神饌。
いただきます。
神の名。
日本。
食べることは、腹を満たすだけじゃない。
時には。
**忘れられた神様さえ、呼び戻す。**




