第9話 妹のための一杯と、禁じられた国の名
リナが熱を出した。
朝から元気がないと思っていた。
昼過ぎには立つこともできなくなった。
「おにーちゃん……」
真っ赤な顔。
荒い息。
小さな手が俺の指を握る。
嫌な記憶が蘇った。
前世。
妹が風邪を引いた夜。
両親は仕事。
病院へ行く金も惜しかった。
俺は何もできなくて、濡れたタオルを妹の額に置き続けた。
あの無力感。
二度と味わいたくなかった。
「神官様を呼んでくる!」
父さんが家を飛び出した。
母さんはリナの身体を拭く。
俺は考える。
落ち着け。
熱がある。
水分。
栄養。
消化のいいもの。
「母さん、水飲ませた?」
「飲んでも吐いちゃうの」
なら少しずつ。
俺は鍋を出した。
黒麦。
いつもなら粥にする。
でも粒が粗く、弱ったリナには重い。
もっと細かく。
包丁で刻む。
水を多めに。
塩をほんの少し。
野菜を細かくして煮る。
だが。
「違うな……」
欲しいのは出汁だ。
この世界には「出汁を取る」という文化がない。
肉を煮れば結果的に汁に味は出る。
でも、旨味だけを取り出すという発想がない。
棚を見る。
昨日干しておいた火蜥蜴の肉。
試しに作ったものだ。
脂の少ない部分を薄く切り、風魔法で乾燥させた。
……使えるか?
鍋へ一枚。
弱火。
沸騰させない。
じっくり。
しばらくすると、湯に薄い色がついた。
味見。
「……出てる」
旨味だ。
強くはない。
でも確かにある。
刻んだ黒麦を入れる。
柔らかくなるまで煮る。
最後にほんの少し塩。
リナを起こした。
「一口だけ食べよう」
「いらない……」
「俺が作ったぞ」
薄く目を開ける。
「……おにーちゃんの?」
「そう」
「じゃあ……たべる」
小さな匙。
ふうふう冷ます。
口へ。
飲み込んだ。
しばらく待つ。
吐かない。
もう一口。
「……おいしい」
力のない声。
それでも。
俺は泣きそうになった。
「いっぱい食わなくていい。少しずつな」
その夜。
神官の治癒魔法も効いたのだろう。
翌朝には熱が下がった。
「おにーちゃん」
「ん?」
「おなかすいた」
俺は思いっきり息を吐いた。
「心配させやがって」
「きのうの、たべたい」
「粥?」
「うん!」
俺は笑った。
「じゃあ作るか」
鍋へ水を張る。
昨日と同じ干し肉を入れる。
その時だった。
母さんが言った。
「レン」
「ん?」
「昨日の料理なんだけど」
「粥?」
「そうじゃなくて……あの汁」
母さんは不思議そうな顔をしていた。
「お肉を食べていないのに、お肉の味がしたでしょう?」
「出汁だよ」
「ダシ?」
また一つ。
この世界に存在しない言葉。
俺は何気なく答えた。
「日本じゃ普通なんだけどな」
――しまった。
母さんが首を傾げる。
「ニホン?」
俺は動きを止めた。
リナもこちらを見る。
「おにーちゃん、ニホンってなに?」
言ってしまった。
でも。
なぜだろう。
誤魔化したくなかった。
「俺が知ってる……遠い国の名前だよ」
「どこにあるの?」
「今は、ないみたい」
リナには意味が分からなかったらしい。
「ふーん」
それだけ言って粥を待っている。
でも。
その瞬間だった。
ゴォン――。
遠くで鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
村の神殿の鐘。
エルナが血相を変えて家へ飛び込んできた。
「レン!」
「どうした?」
「今、何をしました!?」
「粥作ってる」
「違います!」
エルナの手には、あの聖樹の紋章。
真っ黒だった。
「神殿の聖印が……」
彼女の声が震える。
「すべて、割れました」




