第77話 根のない樹は、まだ生きている
十四歳の冬、大図書館に王都から客が来た。
その知らせを聞いた瞬間、俺は嫌な予感がした。
相手は王都史料庁の監査官。名をセヴァン・ロートという。四十歳前後の痩せた男で、濃紺の外套に銀縁の眼鏡。声を荒らげることもなく、物腰も丁寧だった。
そして、その胸元。
銀色の徽章。
一本の樹。
枝はある。
幹もある。
でも――根がない。
俺は立ち止まった。
見間違えるはずがない。
サヨたちを襲った男たち。
九十年前の古文書へ押されていた管理印。
同じ形だ。
「レン?」
フィアに呼ばれて、ようやく息を吐いた。
「……あれ」
レオルも徽章を見て、表情を変えた。
トーマは何も言わない。ただ、いつもの癖で指先を軽く握っている。緊張している時の仕草だ。
セヴァンは俺たちの視線に気づいていたらしい。
「この徽章をご存じですか?」
いきなり聞かれた。
下手に誤魔化す方が怪しい。
「古い資料で見ました」
「なるほど」
それだけ。
笑いもしない。
驚きもしない。
この人、怖い。
怒鳴る人間より、何を考えているか分からない人間の方がずっと厄介だ。
会談は大図書館の奥にある小会議室で行われた。
メリナさん。
オルグ先生。
学院側の法務担当。
そして俺たち四人。
普通なら生徒が同席する話ではない。でも今回の資料整理と記録作成に俺たちが関わっていたため、発見経緯の説明役として許可された。
セヴァンは書類を机へ置いた。
「王都史料庁として、東方古代資料十八点の一時移管を要請します」
来た。
しかも「照会」ではない。
移管。
つまり持っていく。
オルグ先生が書類を読んだ。
「理由は」
「危険指定史料との照合です」
「危険?」
俺は思わず聞いた。
セヴァンがこちらを見る。
「古い祭祀、失われた神名、特定地域の宗教資料。それらの一部には、魔力異常を誘発した記録があります」
「本を読むだけで?」
「読むだけではありません」
少し間を置く。
「名を口にする。儀式を再現する。特定の供物を用意する。集団で信仰対象を想起する。そうした行為と異常現象の関連が、過去に複数回確認されています」
胸の奥が冷たくなった。
思い当たることが多すぎる。
天照大御神。
神饌。
いただきます。
米。
俺は表情に出さないよう努めた。
セヴァンは続ける。
「百年以上前、北東地方で忘れられていた神名が発見されました。数十人が祭儀を復元し、その直後に地域一帯の魔力流が乱れた。死者も出ています」
「だから記録を消した?」
レオルの声は硬い。
「封印した、と我々は表現します」
「言葉を変えただけでは?」
レオル、強いな。
セヴァンは怒らなかった。
「そう見えることは理解しています」
意外だった。
もっと「国家命令だ」で押し切ると思っていた。
「だが、知識は常に無害ではない。毒薬の作り方も知識です。都市を焼く魔術式も知識だ。知る自由と、広める責任は同じものではありません」
簡単に否定できない。
それが腹立たしい。
こいつらは悪だから記録を消した。
それだけなら楽だった。
でも本当に過去に被害があったのなら。
「その判断」
俺が聞く。
「誰がするんですか?」
セヴァンの眉がわずかに動いた。
「何を?」
「危ないから消すって判断。王都史料庁が?」
「最終的には史料保全評議会です」
「じゃあ、その評議会が間違ってたら?」
室内が静かになった。
学院の法務担当がちょっと嫌そうな顔をした。
十四歳の学生が国家機関へ喧嘩を売り始めたからだと思う。
でも止められなかった。
「危険な知識があるのは分かります。でも全部消したら、後から本当に危険だったのか確かめられない」
俺は机の書類を見る。
「間違って消したものも、戻せない」
日本。
その言葉は飲み込む。
セヴァンはしばらく俺を見ていた。
「君が、記録の複製方法を提案した生徒ですね」
背筋が固くなる。
知ってる。
向こうは俺のことを知っている。
「……そうです」
「複数の保管場所。閲覧者記録。変更履歴。魔術封印による改竄確認」
フィアとレオルも警戒した。
セヴァンは静かに息を吐く。
「実に厄介な方法です」
俺は黙った。
そして彼は続けた。
「史料庁にとっては」
やっぱり。
「ですが、記録管理の方法としては優秀でしょう」
今度は俺が困った。
どっちなんだ。
セヴァンは十八点の資料一覧を指す。
「移管は行います。これは私の権限では止められません」
悔しい。
でも。
俺はフィアを見る。
フィアも俺を見る。
レオルが小さく頷く。
すでに準備してある。
俺は自分の鞄から、一冊の記録簿を出した。
「分かりました」
セヴァンが少し驚いた。
「抵抗しないのですか?」
「したいです」
正直に答える。
「でも原本を奪い合って壊したら一番駄目だから」
記録簿を開く。
資料番号。
頁。
欠損位置。
削り跡。
管理印。
文字の模写。
確認者。
日付。
全部ある。
「持っていってもいいです」
俺は言った。
「でも、何があったかはもう残ってます」
メリナさんが別の冊子を出す。
地理研究室にも。
生活魔術研究室にも。
そしてノルン商会の貸金庫にも一部の封印記録を預けてある。フィアの提案だった。
セヴァンが記録を見る。
長い沈黙。
「なるほど」
その口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。
「九十年前なら、君は非常に嫌われたでしょうね」
「今は?」
「十分嫌われるでしょう」
「そこ変わってないじゃん」
フィアが吹き出した。
張り詰めていた空気が、一瞬だけ緩む。
でもセヴァンはすぐ真顔へ戻った。
「一つ、忠告します」
俺たちを見る。
「根のない樹は、秘密結社の印ではありません」
「じゃあ何なんです?」
「史料庁の前身となった、旧神話災害対策局の徽章です」
やっぱり組織だった。
「なぜ根がない?」
トーマが初めて口を開く。
セヴァンは自分の徽章へ触れた。
「根を断つためです」
ぞくりとした。
「神話は、人の記憶に根を張る。我々の前身はそう考えた」
名。
物語。
儀式。
食べ物。
土地。
それらを根として、神は人間社会へ戻ってくる。
だから。
根を断つ。
「……食べ物も?」
思わず聞いた。
セヴァンの目が俺を捉えた。
「なぜ、そう思うのです?」
失敗した。
一瞬だけ答えに詰まる。
「祭りとか供物って、食べ物が使われること多いから」
半分は本当。
セヴァンは何か考えたようだったが、それ以上追及しなかった。
代わりに言う。
「興味があるなら、調べるといい」
「止めないんですか?」
「私は危険指定された原本を管理するのが仕事です。学生が歴史を勉強することまで禁止する権限はない」
そして立ち上がる。
「ただし」
扉の前で振り返った。
「調べた結果、君が『封じる側が正しかった』と知る可能性も忘れないことです」
反論できなかった。
十八点の資料は、その日の夕方、封印箱へ収められた。
王都へ運ばれる。
悔しい。
本当に悔しい。
でも前とは違う。
箱が閉じられても。
何が入っていたか、俺たちは知っている。
文字が削られても。
削られる前に確認した記録が残る。
一か所を消されても、別の場所にある。
学院を出る馬車を見ながら、レオルが言った。
「勝ったのか、負けたのか分からないな」
「どっちでもないと思う」
俺は答えた。
相手は生きていた。
九十年前の話ではなかった。
しかも、自分たちなりの理由を持っている。
これは思っていたより面倒だ。
でも。
怖くはなかった。
一冊の本を守る戦いなら、奪われれば負ける。
今は違う。
知っている人間が増えた。
記録も増えた。
方法も共有した。
俺一人の頭の中だけにあったものが、少しずつ外へ出ている。
だから。
全部を消したければ。
本だけじゃ足りない。
紙だけでも足りない。
俺たち一人一人が覚えている。
「根を断つ、か」
小さく呟く。
俺は昔、神社で祖父から聞いた話を思い出した。
神様は、祀る人がいるから神様でいられる。
あの時は、昔話だと思っていた。
でももし。
本当にそうなら。
根を断とうとする人間と。
根をもう一度伸ばそうとしている俺。
いつの間にか俺は、とんでもない場所に立っているのかもしれなかった。




