第74話 蒸気は、見えないところで押している
十三歳の冬、俺たちは魔物肉に苦戦していた。
学院の調理実習室に並べられたのは、北方から運ばれてきた赤角獣の肩肉だった。安い。栄養もある。だが、とにかく硬い。
普通に焼けば顎が疲れる。煮込めば柔らかくなるが、何刻も火へかける必要がある。
料理長は肉の塊を持ち上げた。
「今日の課題は、こいつをできるだけ短い時間で食える硬さにすること。ただし高級な調味料は禁止。魔石の使用量にも上限をつける」
フィアが肉を指で押す。
「……石?」
「肉だ」
レオルが答えた。
「石の方が柔らかいかもしれない」
ひどい。
でも俺も否定できなかった。
各班が方法を考え始める。
細かく切る。
叩く。
低温で長く煮る。
魔法で肉そのものを柔らかくできないか試す班もいる。
俺は肉ではなく、鍋を見ていた。
長時間煮込む。
火を強くしても、水は沸騰したらそれ以上あまり熱くならない。
だったら。
前世の台所で見た、少し怖い鍋を思い出す。
銀色。
重い蓋。
蒸気。
母さんが使っている時には、子供の俺が近づかないよう言われていた。
「圧力鍋……」
「何?」
トーマが聞く。
「いや、蒸気を閉じ込める鍋があったんだ」
レオルが顔をしかめた。
「閉じ込める?」
「完全にじゃない。たぶん」
「たぶん?」
「俺、作ったことないから」
三人の視線が冷たい。
「でも、普通より短時間で肉を柔らかくできたはずなんだ」
俺が覚えている理屈は断片的だった。
水が沸く。
蒸気が出る。
密閉に近い鍋だと内部の圧力が上がる。
圧力が上がると、水は普通より高い温度まで液体のままでいられる。
だから高い温度で煮込める。
……たしか。
「先生」
アルノー先生を呼ぶ。
「密閉した容器の中で水を加熱すると、どうなります?」
「危険になる」
即答だった。
「理論は?」
「内部に蒸気が蓄積し、圧力が上がる。容器が耐えられなければ破裂する」
やっぱり。
「その圧力を安全に逃がしながら、少しだけ高く保つことってできます?」
先生の目が変わった。
また研究者の顔だ。
「可能ではある」
「作れます?」
「私に聞くな。工作ならトーマと工房へ行け」
正しい。
午後には、なぜか実習が魔導具工房へ移動していた。
最初に作った試作品は、ひどかった。
厚い鉄鍋。
重い蓋。
周囲を金具で固定。
蒸気を逃がすための小さな穴。
ここまではよかった。
問題は、その穴が小さすぎた。
加熱を始めてしばらくすると、蓋が細かく震え始めた。
カタ。
カタカタ。
カタカタカタ。
俺は固まった。
レオルも固まった。
トーマが言う。
「なんか音、増えてない?」
「火を止めよう」
俺が言う。
「まだ目標圧力まで――」
「止めよう」
「でも」
「止めろ!」
三人で一斉に魔力を切った。
その直後。
ぷしゅううううっ!
蒸気穴から白い蒸気が勢いよく噴き出した。
全員が数歩下がる。
俺の口から勝手に出た。
**「暴走寸前じゃねえか!」**
レオルが蒸気を見ながら叫ぶ。
「だから何を基準に暴走なんだ!」
「俺の恐怖心!」
アルノー先生は怒った。
かなり怒った。
「安全装置のない加圧容器を実習で動かすな!」
「穴はありました!」
「詰まったらどうする!」
何も言えない。
そこだった。
穴が一つあるだけでは足りない。
詰まる。
壊れる。
人が間違える。
安全とは「正しく使えば大丈夫」だけではない。
失敗しても大事故になりにくい構造が必要だ。
俺は反省した。
前世の圧力鍋には、ちゃんと理由があっていろいろな部品がついていたのだ。
知らないものを、見た目だけ真似してはいけない。
そこで工房の職人も加わった。
蒸気を一定以上で逃がす重り。
圧力が上がりすぎた時に開く第二の逃がし口。
蓋そのものも、内圧が残っている間は簡単に外せない構造にする。
俺には作れない。
トーマにもまだ無理な部分がある。
でも職人なら形にできる。
二号機。
今度は、最初から肉を入れなかった。
水だけ。
安全確認。
圧力を上げる。
蒸気を逃がす。
冷ます。
蓋を開ける。
何度も繰り返した。
三号機で、ようやく肉を入れた。
赤角獣の肩肉。
水。
塩。
香味野菜。
蓋を閉じる。
火を入れる。
重りが小さく揺れ始める。
シュッ。
シュッ。
一定の間隔で蒸気が抜ける。
「なんか生き物みたい」
フィアが言う。
「かわいい?」
「ちょっと」
俺は全然かわいくない。
さっきの記憶がある。
それでも温度と圧力を記録しながら加熱する。
通常の煮込みより、ずっと短い時間で火を止めた。
すぐには開けない。
圧力が下がるまで待つ。
ここも重要だ。
そして蓋を外す。
匂いが広がった。
料理長が肉へナイフを入れる。
すっと入った。
「……おい」
肉を持ち上げる。
繊維が簡単にほぐれる。
俺も一口食べた。
柔らかい。
ちゃんと肉だ。
石ではない。
「勝った」
思わず呟く。
「誰に?」
フィアが聞く。
「赤角獣に」
「もう死んでるけど」
そういう話じゃない。
料理長は何も言わず、二口目を食べた。
それから普通の鍋で煮込んだものと比べる。
「時間は?」
レオルが記録を見る。
「半分以下」
「魔石は?」
フィアが確認する。
「こっちもかなり少ない」
料理長が圧力鍋を見る。
「これが安く作れるなら、宿屋でも使えるな」
その言葉を聞いた瞬間、マレーナ先生が鍋へ近づいた。
嫌な予感。
「これだけ高温の蒸気を、一定時間維持できるのですね」
「できますけど」
「刃物や治療器具を入れたら?」
俺は止まった。
あ。
前世の病院。
消毒。
滅菌。
詳しい条件は知らない。
でも、高温の蒸気を使う装置があった。
「……使えるかもしれない」
マレーナ先生の目が輝いた。
「試します」
また始まった。
俺は料理を作った。
それだけだった。
硬い肉を短時間で柔らかくしたかった。
なのに数日後、薬学研究室では治療器具を高温蒸気で処理する実験が始まっていた。
さらに生活魔術研究室では、加圧容器の安全規格を作る話まで出ている。
俺は研究掲示板を見上げた。
「一個の鍋から増えすぎじゃない?」
レオルが隣で笑う。
「今さらだろ」
確かに。
でも今回は、少し違う。
俺が持ち込んだのは完成品じゃなかった。
知っていたのは、「そういう鍋がある」ことだけ。
一号機は危なかった。
そこから先生が理論を足し、トーマと職人が構造を作り、フィアが費用を見て、料理長が使い方を考えた。
そしてマレーナ先生が、まったく別の用途を見つけた。
現代知識を持っているから、俺が全部正しいわけじゃない。
でも。
入口を知っているだけでも、意味はある。
この世界には、その先を歩ける人がたくさんいる。
その日の夕食。
赤角獣の煮込みが出た。
以前より柔らかく、燃料も少なく済んだらしい。
食堂の生徒たちは、何も知らずに普通に食べている。
俺も一口。
うまい。
そして少し離れた薬学棟では、同じ蒸気が人を救う方法へ変わろうとしている。
料理で鍋を一つ変えただけなのに。
世界というのは、意外なところでつながっていた。




