第73話 消すなら、全部消してみろ
十三歳の夏。
俺は、大図書館の受付で一枚の紙を見つめていた。
正確には、見つめる以外のことができなかった。
**『東方古代資料群について、王都史料庁から照会あり。確認終了まで一部資料の閲覧を停止する』**
その下には、対象となる資料番号が並んでいる。
百二十六年前の東方第七航路記録。
根のない銀の樹が押された古文書。
そして、ヴァル・ヘイムの在任期間に移動された資料の一部。
ほとんど、俺たちが調べていたものだった。
「……早すぎない?」
昨日まで読めた。
それが今日、読めない。
もちろん偶然かもしれない。俺たちが資料を調べ始めたからではなく、王都史料庁が別件で照会しただけかもしれない。
でも。
タイミングが良すぎる。
「メリナさん」
「私も理由は聞いていません」
受付の向こうで、メリナさんも表情が硬い。
「正式な照会です。図書館としては従う必要があります」
「持っていかれる?」
「現時点では閲覧停止だけです」
現時点では。
その言葉が嫌だった。
俺は紙を握りかけ、慌てて力を抜く。
図書館の書類をぐしゃぐしゃにしたら、敵より先にメリナさんに消される。
その日の午後。
いつもの四人で集まった。
レオルは通知書の写しを読んで顔をしかめる。
「ヴァル・ヘイムが王都史料庁へ移ったことを調べた直後だぞ」
「だからって、向こうが俺たちを知ってるとは限らない」
「でも疑ってるんでしょ?」
フィアに言われ、俺は頷いた。
「かなり」
トーマが不安そうに聞く。
「もし資料を持っていかれたら?」
誰も答えなかった。
持っていかれる。
それだけならまだいい。
もし九十年前と同じことが起きたら。
削られる。
頁が抜かれる。
なくなる。
そして俺たちは、また「そこに何かあったはずだ」と空白だけを見ることになる。
頭の中に、前世の言葉が浮かんだ。
**逃げちゃ駄目だ。**
いや。
今回は違う。
逃げるな、じゃない。
守り方を変えろ。
俺は机の上にあったノートを引き寄せた。
「一冊しかないから駄目なんだ」
三人が俺を見る。
「何が?」
「記録」
俺は丸を一つ描いた。
「大事な情報がここにしかない。だから、ここを消されたら終わる」
その丸を三つに増やす。
「だったら、同じ内容を別々の場所に残す」
レオルがすぐ理解した。
「写本を作る?」
「全文じゃなくてもいい。まず、何があったかを残す」
資料番号。
題名。
年代。
保存場所。
どの頁に削り跡があるか。
根のない銀の樹の位置。
誰が確認したか。
いつ確認したか。
俺たちが読めた範囲の内容。
「それを同じ紙にして、大図書館だけじゃなく、地理研究室とか他の場所にも置く」
フィアが身を乗り出した。
「商会の帳簿と同じだ」
「同じ?」
「うち、大きな取引は店と倉庫で別々に記録するよ。一冊なくしたら全部分からなくなるから」
さすがだ。
俺が前世のパソコンやデータの複製から考えたことを、この世界の商人は別の形ですでにやっている。
「じゃあ、それ借りよう」
「それだけじゃ足りない」
フィアが紙を取った。
「誰かが後から書き換えたら?」
止まった。
なるほど。
俺は「複製すれば安心」と考えていた。
でも、三枚全部に違うことが書かれたら、どれが本物か分からない。
レオルがペンを取る。
「変更する時は、日付と変更者の名前を残す」
「前の記録は消さない?」
「線を引いて残す。何を直したか分かるようにする」
今度はトーマが言った。
「最後に封印したら?」
「封印?」
「紙を閉じるんじゃなくて、余白に簡単な魔力印を入れる。後から文字を書き足したら、線が乱れるようにできるかもしれない」
俺は三人を見る。
「……俺、一個しか思いついてないんだけど」
フィアが笑う。
「いつもレンが全部考える必要ないでしょ」
その通りだった。
翌日から作業を始めた。
まず、閲覧できる資料だけを確認する。
内容を要約。
図の位置。
欠損。
削り跡。
管理印。
そして、必ず確認者を二人以上つける。
一人の記憶ではなく、複数の目で残す。
完成した記録は三部。
一部は大図書館。
一部は地理研究室。
もう一部は、アルノー先生の許可を得て生活魔術研究室の保管庫へ。
「料理の研究室に古文書記録を置くの?」
メリナさんが聞いた。
「そこがいいんです」
「なぜ?」
「関係なさそうだから」
メリナさんが数秒黙った後、笑った。
「なるほど」
隠すなら、同じ棚へ全部置かない。
これも前世なら当たり前だった。
大事なデータを同じ機械に二個保存しても、その機械が壊れたら両方終わる。
もちろん、この世界で「クラウド」なんて言っても通じない。
俺自身、仕組みを説明できるほど詳しくもない。
でも考え方なら使える。
**一つが駄目になっても、全部は失わない。**
三日後。
王都史料庁から二度目の通知が来た。
今度は閲覧停止ではない。
**『対象資料の一部を、照合のため王都へ一時移送する』**
空気が変わった。
メリナさんの手元にある紙を見て、胸の中が冷える。
来た。
本当に。
レオルが小さく呟く。
「止められるか?」
「正式な命令なら難しい」
メリナさんが答える。
俺も腹は立った。
ものすごく。
「なんで持っていくんだよ」と叫びたかった。
でも。
三日前までなら、それしかできなかった。
今は違う。
俺は保管棚を見る。
同じ資料についての記録が、すでに三か所へある。
誰が読んだか。
何が書いてあったか。
どこが削られていたか。
根のない銀の樹の印まで。
全部。
俺は通知書を見ながら、少しだけ笑った。
「レン?」
フィアが見る。
「いや」
原本は大事だ。
当然、失いたくない。
でももし。
本当に誰かが九十年前と同じことをしようとしているなら。
今回は、もう遅い。
「持っていけばいい」
レオルが驚く。
「いいのか?」
「よくない」
俺は答える。
「でも、持っていっただけじゃ消せない」
その瞬間、胸の奥で何かがすっと晴れた。
昔、日本を消した誰かも。
きっと同じことを考えた。
土地を消せばいい。
名前を消せばいい。
本を消せばいい。
覚えている人間がいなくなれば終わる。
でも。
終わらなかった。
稲が残った。
言葉が残った。
三本足の鳥が残った。
サヨが残った。
そして俺が覚えている。
知識は、一つの場所にあるうちは弱い。
でも誰かに渡せば。
別の場所へ残せば。
また誰かが覚えれば。
消すのは、どんどん難しくなる。
俺は机の上にある三部目の記録を閉じた。
「消せるなら」
小さく呟く。
「全部消してみろ」
今度は。
一冊なくなったくらいじゃ、終わらせてやらない。




