第66話 油と水が、喧嘩をやめた
十歳の夏、学院厨房に新しい敵が現れた。
敵の名は、油。
正確には、油と酢だった。
「また分かれた」
俺は器の中身を見下ろした。
油の層と、酸味のある果実酢の層。さっきまで必死に混ぜていたのに、少し目を離しただけでもう上下に分離している。
フィアが匙でつつく。
「仲悪いね、この二つ」
「水と油っていうくらいだからな」
「何それ」
「あ……いや、仲が悪いものの喩え」
危ない。
こういう何気ない言葉ほど、前世由来だと説明しづらい。
今日の調理実習は、夏野菜へ合わせる冷たいソース作りだった。香草、塩、酢、それから少量の油。材料そのものは悪くないのだが、作ってから時間が経つと油だけ浮いてしまう。
料理長は平然としている。
「食う前に混ぜりゃいい」
それはそう。
それはそうなんだけど。
俺の頭の中には、別の白っぽいソースが浮かんでいた。
マヨネーズ。
卵黄。
油。
酢。
混ぜる。
……作れるんじゃないか?
「卵、使っていい?」
俺が聞くと、料理長が眉を上げた。
「また卵か」
「俺も最近ちょっと思ってる」
この学院、俺が来てから卵の研究施設みたいになってないか。
それでも卵を一つもらった。
第58話の衛生実験以来、生卵の扱いにはかなり慎重になっている。殻を洗浄し、状態を確認し、器具も清潔なものを使う。完成品も長く置かない。
卵黄だけを器へ落とす。
そこへ酢を少し。
塩も少し。
混ぜる。
「ここから……油を少しずつ」
前世で何度か作ったことがある。
ただ、一気に入れると失敗する。
そんな記憶もある。
レオルが油の器を持った。
「どれくらい?」
「ちょっとずつ」
「数字にしろよ。お前が言い出したんだろ」
痛い。
温度を数字にしようと言った男が、油だけ急に「ちょっとずつ」で済ませようとしていた。
「……細い糸みたいに」
「数字じゃない」
「今日は許して」
少量の油を入れながら、混ぜる。
さらに少し。
混ぜる。
また少し。
最初は黄色い液体だったものが、だんだん重くなっていく。
「あれ?」
フィアが身を乗り出した。
油を追加する。
まだ分かれない。
さらに混ぜる。
匙を持つ手が重くなる。
白っぽい黄色。
滑らか。
そして、ついに見覚えのある形になった。
「できた」
俺自身、思った以上に嬉しかった。
フィアが器を覗く。
「油、どこ行ったの?」
「中」
「見えないけど」
「細かく混ざってる……はず」
レオルが疑わしそうに見る。
「水と油は混ざらないんじゃなかったのか?」
「普通はね」
俺は匙を持ち上げる。
とろりと落ちる。
「卵黄が間に入ると、うまく混ざる」
「なぜ?」
「……詳しくは知らない」
レオルが額を押さえた。
「お前は毎回、肝心なところで知らないな」
「高校生にそこまで求めるなよ」
「こうこうせい?」
「何でもない!」
また危ない。
俺は咳払いで誤魔化した。
前世では「乳化」という言葉を知っていた。
でも卵黄の中の何がどう作用するかまでは怪しい。レシチンだった気がする。たぶん。ここで自信満々に語ったら、そのうち専門家に詰められて死ぬ。
だから知っているところだけにする。
「とにかく、混ぜ方で結果が変わる」
別の器を用意する。
今度は油を一気に入れる。
混ぜる。
分離した。
「ほら」
フィアが目を輝かせる。
「同じ材料なのに?」
「順番と入れ方が違う」
そこへ料理長が来た。
完成品を見る。
「何だこれは」
野菜につけて渡す。
一口。
もう一口。
「……美味いな」
よし。
この瞬間は気持ちいい。
「肉にも合う」
「魚にもたぶん」
「パンにも使えるね」
フィアが商売の顔になる。
「保存期間は?」
「短いと思う。卵使ってるから」
「じゃあ店で出すなら作り置きしすぎない方がいいね」
こういう時、本当に頼りになる。
ところが、騒ぎを聞きつけたアルノー先生まで厨房へ現れた。
最近この人、絶対どこかに料理研究の警報器を置いている。
「今度は何をした?」
第一声がそれだった。
「言い方」
料理長が器を渡す。
先生は説明を聞き、少量を指先で確認した。
油。
酢。
卵黄。
本来なら分離するものが、一定時間安定して混ざっている。
先生の顔が変わった。
嫌な予感がした。
**使徒、襲来。**
そんな言葉が頭をよぎる。
もちろん襲来したのは世界を滅ぼす何かではない。
新しい研究テーマを見つけた魔術教師だ。
たぶんこっちの方が俺には怖い。
「レン」
「はい」
「これは、異なる性質のものを第三の物質によって安定させていると考えていいのか?」
「料理としては、たぶん」
「異なる性質……第三の媒介……安定化……」
先生がぶつぶつ言い始めた。
レオルが俺を見る。
「逃げるか?」
「もう遅いと思う」
案の定だった。
午後の魔術授業。
黒板には、火属性と水属性を表す二つの円が描かれていた。
その間に、第三の小さな円。
アルノー先生がそこを指す。
「異質な二つを直接接続すれば反発する。しかし、双方と結びつける媒介が存在すればどうなる?」
俺は呆然と黒板を見る。
「先生」
「何だ」
「俺、ソース作っただけなんですけど」
教室に笑いが起きた。
先生は真顔だった。
「だから面白い」
試験用の小さな魔術陣が組まれた。
火と水を直接重ねる。
不安定になる。
次に、性質を和らげた無属性の魔力層を間へ挟む。
完全な融合ではない。
それでも、前よりずっと長く維持できた。
レオルが息を呑む。
「……本当に安定した」
アルノー先生も珍しく黙っている。
俺は黒板と、厨房から持ってきたソースを交互に見た。
料理から魔法へ。
自分でも予想していなかった。
「これって結構すごい?」
俺が小声で聞く。
レオルがこちらを見る。
「またそれか」
「いや、今日は本当にマヨ――」
止まる。
危ない。
「……白いソースを作っただけだから」
フィアが笑う。
「その白いソースから、新しい魔術理論が出そうなんでしょ」
「なんで?」
「レンに聞かないでよ」
その日の夕方、生活魔術研究室には新しい研究項目が追加された。
**『異属性間における媒介層の安定効果』**
一方、学院厨房の帳面にはもっと単純な名前で書かれた。
**『卵黄と油のソース』**
俺としては、後者の方が重要だった。
夕食で焼いた鶏肉につける。
うまい。
フィアも気に入ったらしく、パンへ薄く塗っている。
レオルは二回目を取りに行った。
「結局食うんじゃん」
「研究成果の確認だ」
「二皿目で?」
「念入りな確認だ」
便利な言葉だな、研究。
俺は笑いながら、自分の皿へ少しソースを足した。
異なるものは、無理に一つへ押し込めば反発する。
でも、間をつなぐものがあれば、共存できることもある。
料理でも。
魔法でも。
ひょっとしたら、人間同士でも。
そんな難しいことまで考えて――。
もう一口食べる。
「やっぱマヨネーズって偉大だな」
「まよねーず?」
フィアが聞いた。
「……今のなし」
十歳の夏。
俺が作った白いソースは、その日の献立を変えただけでは終わらなかった。
学院の魔術研究にまで、ぬるりと入り込んでしまった。




