第65話 十歳、パンは生きている
十歳になった春、俺はパン生地に敗北していた。
学院の調理実習室。その中央で、俺の前にある生地だけが見事なまでに膨らんでいない。
隣を見る。
レオルの生地は、ちゃんと丸く膨れている。
反対側を見る。
フィアの生地も膨れている。
俺のだけ平たい。
「……おかしい」
「何が?」
フィアが聞く。
「俺、料理得意なんだけど」
「知ってる」
「十歳になったんだけど」
「それはパンに関係ないね」
正論で殴るのはやめてほしい。
アウルム学院へ入って二年。
九歳の一年間で、温度を数字にする研究はかなり進んだ。乳の加熱方法も改善され、厨房では試作温度計が普通に使われ始めている。
だから今年最初の調理実習で「パン」と聞いた時、俺は少し調子に乗った。
温度が測れる。
火加減も分かる。
前世でもパンくらい焼いたことがある。
勝ったな。
そう思っていた。
結果がこれだ。
「レン」
講師として来ていたパン職人のバルネが、俺の生地を指で押した。
五十歳くらいの大柄な男で、街では有名なパン工房を営んでいるらしい。
「お前、湯を入れただろ」
「入れました」
「熱すぎた」
「温度は測ったよ?」
「パン種を入れる前に測ったか?」
「あ」
測っていない。
湯を器へ入れた時だけ測って、その後は小麦粉を量ったり塩を探したりしていた。
バルネが鼻を鳴らす。
「数字を覚えたからって、勝手にパンが焼けるわけじゃねえ」
刺さる。
とても刺さる。
レオルが横で、
「聞いたか、天才料理人」
と言った。
「うるさい」
俺は平たい生地を見つめた。
**逃げるな俺。逃げるな俺。逃げるな俺。相手は小麦粉だ。**
……いや、本当に何と戦ってるんだ。
実習の目的はパン作りそのものではなかった。
今日の課題は、パン種がどんな条件で働くかを調べること。
この世界にも発酵パンは当然存在する。職人たちは種を継ぎ、気温や湿り具合を見ながら長年パンを焼いてきた。良い職人なら、生地へ触れただけで発酵具合が分かるらしい。
だから俺が、
「パンって発酵するんですよ!」
なんて言ったところで、
「知ってるが?」
で終わる。
問題は、その先だった。
バルネが発酵中の生地を見せる。
「寒けりゃ遅い。暖かけりゃ速い。だが暑すぎりゃ駄目になる」
「どうして?」
レオルが聞く。
職人は腕を組んだ。
「パン種が弱る」
「パン種って、何なんですか?」
「パン種だ」
強い。
職人の説明としては満点だけど、研究者が聞いたら頭を抱えそうだ。
俺は膨らんだ生地を見る。
前世の記憶を探る。
酵母。
イースト。
目に見えないくらい小さな生き物。
糖を食べて、何かを出す。
それでパンが膨らむ。
……何か。
たしか二酸化炭素。
そこまでは覚えている。
「もしかして」
俺は手を上げた。
最近、俺が授業中に手を上げると周囲が少し警戒するようになった。
バルネだけは事情を知らない。
「なんだ」
「パン種の中に、すごく小さい生き物がいるんじゃないかな」
バルネが眉を寄せた。
「虫か?」
「虫よりずっと小さい。目で見えないくらい」
レオルがこちらを見る。
「前に乳の時にも言ってたな」
「うん」
第58話で考えた、見えない小さな生き物。
俺たちはまだ、それを見る方法を持っていない。
でも存在するなら、条件を変えた時の働き方を見ることはできる。
「生き物なら」
俺はパン生地を指した。
「寒い時と暖かい時で元気さが違っても変じゃない。熱すぎたら死ぬかもしれない」
バルネの顔から、少しずつ「子供の戯言を聞く顔」が消えていった。
「……死ぬ?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
「見えないから」
そこでフィアが温度計を持ち上げた。
「じゃあ比べよう」
もう慣れたものだ。
同じ小麦粉。
同じ量の水。
同じパン種。
同じ塩。
変えるのは温度だけ。
低い温度。
少し暖かい温度。
かなり暖かい温度。
そして、俺が最初にやらかしたような高い温度。
レオルが記録表を作り、フィアが材料を量る。
俺とバルネが生地を捏ねる。
並べてみると壮観だった。
「まるでパン種の強さ比べだな」
俺が言う。
レオルが嫌そうな顔をする。
「また変なこと言い始めた」
「いや、もし数値で元気さが測れたらさ」
俺は膨らみ始めた生地を見る。
**「こいつの発酵力は……まだ上がる。まだ上がるぞ、って感じしない?」**
「しない」
即答された。
数時間後。
差ははっきり出た。
冷たい場所に置いた生地は、ほとんど膨らまない。
ほどよく暖かい場所のものは、大きく膨らんだ。
さらに高い温度では最初こそ速かったが、途中から伸びが鈍る。
そして一番熱い条件。
俺が失敗した生地と同じ。
ほぼ動かない。
バルネが、四つの生地を順番に押していく。
何度も。
何度も。
「俺たちは知ってた」
ぽつりと言った。
「夏は早い。冬は遅い。窯のそばへ置きすぎると種が駄目になる」
俺は頷く。
「うん」
「だが、こう並べたことはねえ」
温度計を見る。
「何度ならどうなるか、数字で残したこともねえ」
アルノー先生も途中から見に来ていた。
最近こういう匂いを嗅ぎつけるのが早い。
「つまり職人が経験で把握していた現象を、条件ごとに記録できる」
「それだけじゃないかも」
俺は生地を見る。
「もし本当に小さな生き物がいるなら、パンが膨らむのは魔法じゃない」
教室が静かになる。
「生き物が何かしてる」
アルノー先生が目を細めた。
「何を?」
「それは知らない」
胸を張って言うことではない。
でも知らないものは知らない。
「ただ、何か出してるんじゃないかな。生地の中に泡ができるから」
バルネがパン生地を裂いた。
中には無数の小さな穴。
「この穴か」
「たぶん」
先生が一つを覗き込む。
「見えない生物が、食物を変化させる……」
その言葉で、俺の中でも別の線がつながった。
パン。
酒。
チーズ。
酢。
そして。
味噌。
醤油。
前世の日本。
胸が少し高鳴る。
発酵。
そうだ。
日本の料理は、これがものすごく多い。
米だけじゃない。
大豆。
麹。
味噌。
醤油。
酒。
もしヒムカに日本の食文化が少しでも残っているなら。
そこにも、何かあるかもしれない。
「レン?」
フィアの声で我に返る。
「なんでもない」
まだ言う段階じゃない。
俺自身、麹菌をどう作るかなんて知らないのだから。
その日の最後。
実験に使った生地を焼くことになった。
ほどよい温度で発酵したパンは、ふっくらしている。
低温のものは詰まった食感。
高温で駄目になったものは、かなり硬い。
俺は失敗作を一口食べた。
硬い。
非常に硬い。
「どう?」
フィアが聞く。
俺は真顔で答えた。
**「こいつ……まだ一回も変身できてない」**
フィアは意味が分からず首を傾げ、レオルはもう相手をするのを諦めた顔をした。
バルネだけは硬いパンを噛みながら、
「変身ってのはよく分からんが、こいつは失敗だ」
と言った。
笑いが起きた。
でも、その後。
バルネは実験記録を一枚、持って帰った。
翌週には彼の工房でも、仕込み場所に温度計が一本置かれたらしい。
職人の経験が消えたわけじゃない。
むしろ逆だ。
長年積み重ねた経験に、数字という新しい言葉が加わった。
そして俺は、その日から少しだけ「腐る」という言葉の見方が変わった。
目に見えない何かが食べ物を変える。
それは人を苦しめることもある。
でも、パンを膨らませ、美味しくすることもある。
見えないものが全部敵とは限らない。
料理とはたぶん、ずっと昔から。
人間と、目に見えない何かとの共同作業だったのだ。




