第64話 牛乳は、腐る前に殺せる?
温度を数字で測れるようになってから、一か月ほど経った。
試作温度計はまだ高価で、学院の外へ普及させられるようなものではない。それでも生活魔術研究室と厨房には数本が置かれ、「だいたい熱い」「いい感じに温める」という言葉の横へ、少しずつ数字が書き込まれるようになっていた。
そんなある朝、学院食堂から乳が消えた。
「今日は乳粥じゃないんだ」
フィアが朝食の皿を見ながら言う。
いつもなら麦粥に少量の乳が入っているのに、今日は水と出汁だけだ。飲み物にも乳はなく、パンにつける柔らかい乳脂も出ていない。
「仕入れが止まった?」
俺が厨房の方を見ると、いつもの料理長ではなく、薬学教師のマレーナ先生が立っていた。
嫌な予感がする。
第58話で手洗い実験をした時、この人が厨房へ来る時は大体食べ物関係の問題だと学んだ。
授業が始まって、その予感は当たった。
「昨夜までに、学院寮で十二名が腹痛を訴えた」
教室がざわつく。
「幸い重症者はいない。ただし全員が昨日の朝、同じ牧場から納入された乳を飲んでいる」
レオルが手を上げる。
「乳が腐っていたんですか?」
「それが分からない」
マレーナ先生は首を振った。
「匂いに異常はなく、酸味も確認されなかった。同じ容器の乳を飲んで平気だった者もいる」
俺は腕を組んだ。
見た目も匂いも普通。
でも腹を壊す。
前世の感覚なら、かなり嫌な話だ。
頭に浮かぶ言葉がある。
食中毒。
そして、殺菌。
「先生」
俺が手を上げると、マレーナ先生がこちらを見る。
「何だ」
「その乳って、生のまま飲んでます?」
今度は先生の方が首を傾げた。
「牧場で搾られた後、布で濾して運ばれてくる。厨房でそのまま提供する場合もあるし、粥に使えば加熱される」
やっぱり。
俺は前世の牛乳パックを思い出した。
毎朝冷蔵庫から出していた白い紙パック。
そこには確か、殺菌方法が書いてあった。
何度で何秒。
……ただ。
数字が出てこない。
高温だったことは覚えている。
短時間だった気もする。
もっと低い温度で長く加熱する方法もあったような。
駄目だ。
肝心なところが曖昧だ。
「レン?」
「……ちょっと待って」
頭を掘る。
出ない。
高校生だった俺は料理好きではあったけど、乳業会社の技術者じゃない。
知ったかぶりして数字を言う方が危ない。
「加熱したら、安全になる可能性があると思います」
マレーナ先生は即座に答えた。
「それ自体は知られている。煮立てた乳は、生乳より腹を壊しにくいという経験則はある」
さすがだ。
この世界の人たちだって何百年も食べ物を扱ってきた。全部を俺が初めて発見するわけじゃない。
「じゃあ、毎回沸騰させれば?」
生徒の一人が言う。
先生が首を振る。
「味が変わる。膜が張り、焦げやすくなる。大量に扱えば燃料も必要だ。そのため、生で飲む習慣が残っている」
なるほど。
そこで、俺は前の授業を思い出した。
温度。
数字。
測れるようになったからこそできることがある。
「だったら」
黒板を見る。
「沸騰させるか、生で飲むかの二択にしなくてよくないですか?」
マレーナ先生の目が細くなる。
「続けろ」
「温度を変えて比べます。どこまで温めれば傷みにくくなるのか。それと、どこから味が悪くなるのか」
フィアがすぐ乗ってきた。
「燃料の量も測った方がいい。安全でも薪代が二倍なら、普通の店じゃ続かないよ」
「それも」
レオルが言う。
「同じ牧場、同じ日の乳を使わないと比較にならない」
三人とも、もう実験の考え方が染みついている。
なんだか嬉しい。
第58話では、俺が「条件を一つずつ変える」と説明していた。
今は俺が言わなくても、レオルが先に条件を揃えようとしている。
マレーナ先生が俺たちを見回した。
「よし。やるぞ」
「授業は?」
誰かが聞く。
「これが授業だ」
強い。
その日の午後、厨房の一角が実験場になった。
同じ乳を複数の小鍋へ分ける。
一つは加熱しない。
一つはかなり低い温度。
もう一つはそれより高く。
さらに高く。
最後は、しっかり煮立たせる。
問題は時間だった。
「何分温める?」
レオルに聞かれ、俺は固まった。
「……分からない」
「またか」
「知らないものは知らない!」
前世の知識があると言っても、万能じゃない。
むしろ「そういう方法があった」だけ覚えていて、細部が出てこないことの方が多い。
俺たちはまず同じ時間だけ加熱し、それぞれを清潔な容器へ移して保存することにした。
ところが。
「九十四!」
「火、強すぎ!」
「下げた!」
「九十六!」
「上がってるぞ!」
「鍋が熱持ってるんだよ!」
火を消しても温度はすぐ下がらない。
分かっていたはずなのに、大量調理とはまた違う難しさがある。
一つの鍋はそのまま沸騰寸前まで行った。
表面に膜が張る。
俺はそれを見て頭を抱えた。
**「止まれ……止まれ……! これ以上いったら完全に暴走だろ!」**
横でレオルが俺を見る。
「牛乳に何と戦ってるんだ?」
「俺にも分からない」
最初の実験は、綺麗には揃わなかった。
温度を上げすぎたもの。
予定より長く加熱したもの。
火を落とした後も温度が上昇したもの。
マレーナ先生は記録表を見て言った。
「失敗だな」
俺の肩が落ちる。
「はい」
「だから明日、もう一度やる」
先生は平然としている。
「一回で成功すると思ったのか?」
ぐうの音も出ない。
翌日、条件を整理した。
鍋の大きさを揃える。
乳の量を揃える。
目標温度へ近づいたら、早めに火を弱める。
到達後の時間も測る。
冷ます条件も同じにする。
今度はかなり揃った。
そして数日間、毎日状態を見る。
匂い。
酸味。
分離。
表面の変化。
もちろん、これだけで病原体そのものが消えたと証明できるわけではない。
見えないのだから。
でも差は出た。
加熱していない乳は早い段階で酸味が強くなった。
低温のものも変化する。
ある程度しっかり温めたものは、明らかに変化が遅かった。
一方で、煮立たせた乳は保存性こそ良かったが、香りと舌触りへの影響が大きい。
中間がある。
安全性を上げつつ、味も極端には壊さない範囲。
マレーナ先生が何枚もの記録を机へ広げた。
「これだけでは病を防げると断定できない」
俺は頷く。
そこは大事だ。
腐りにくいイコール絶対安全、ではない。
「ただし、加熱条件によって乳の変化が明確に変わることは確認できた。今後は腹痛の発生記録も含め、継続的に調べる価値がある」
そして学院厨房では、暫定的な規則が決まった。
生の乳は原則としてそのまま出さない。
一定以上まで加熱し、規定時間保つ。
使用する器具は洗浄。
加熱後の乳を、生乳が入っていた容器へ戻さない。
これも重要だ。
せっかく加熱したのに、汚れた容器へ戻したら意味がない。
料理長が新しい手順書を読みながら唸った。
「面倒が増えたな」
「ごめん」
「謝るな。腹壊すよりましだ」
それから俺を見る。
「で、これを誰でも同じようにやるために、数字を使うんだな」
「うん」
料理長は試作温度計を持ち上げた。
「先月まで、こんな棒が厨房に必要になるとは思わなかった」
俺も思ってなかった。
前世なら温度計なんて珍しくもない。
でも今は一本作るだけで研究室が動く。
その一本が、今度は何百人分の乳の扱い方を変えようとしている。
数日後、乳粥が朝食へ戻った。
フィアが一口食べる。
「前と味、ほとんど変わらない」
レオルも食べる。
「でも、加熱条件は記録されてる」
俺も口へ運んだ。
普通に美味い。
それだけなのに、妙に達成感があった。
「なんか地味だな」
俺が言うと、フィアが呆れる。
「何が?」
「いや、もっとこう……新しい魔法が完成して光がバーンとか、そういうのじゃないじゃん」
「乳を安全に飲めるようにしたんでしょ?」
「そうだけど」
レオルが俺の皿を見る。
「お前、学院に来てから卵と牛乳ばっかり革命してないか?」
「言うな。俺も気づいてた」
三人で笑う。
その向こうでは、何百人もの生徒が何も知らずに朝食を食べている。
誰も歓声を上げない。
誰も俺を見ない。
でも、それでいい。
安全な食事って、本来そういうものだ。
何も起きない。
腹を壊さない。
普通に食べて、普通に授業へ行く。
それが成功だ。
俺は乳粥をもう一口食べた。
そしてふと、前世の冷蔵庫に入っていた牛乳パックを思い出す。
そこに書かれていた小さな数字を、俺は一度だってありがたいと思ったことがなかった。
**「当たり前だと思っていた日常が、実は誰かの積み重ねでできていた――なんて、今さら気づくの遅すぎるだろ、俺」**
九歳になって。
異世界の学院で牛乳を飲みながら。
俺はようやく、そんなことを知った。




