第63話 「弱火」を数字で教えてみた
九歳になって三週間ほど経った頃、生活魔術研究室から教室へ妙な棒が運び込まれた。
細長い透明な管の中に、赤みがかった液体が封じられている。下の方には細かな線が刻まれ、横にはゼロから百まで数字が並んでいた。どう見ても、俺の知っているものに近い。
「……温度計だ」
思わず呟く。
隣にいたレオルが振り向いた。
「知ってるのか?」
「いや、その……こういう形になるんだなって」
危ない。
最近、気を抜くと前世基準で喋りそうになる。
教壇に立ったアルノー先生が、棒を慎重に持ち上げた。
「先日の提案を基に、生活魔術研究室が試作した測定器だ。内部の感温液が熱によって膨張し、その位置を目盛りで読む」
水が凍り始める状態をゼロ。
学院の実験室で水が安定して沸騰する状態を百。
その間を百等分する。
ただし、あくまで仮の尺度だという。場所や気圧による違い、感温液の変化が本当に均等なのか、ガラス管ごとの誤差など、検証することはいくらでも残っているらしい。
そこはさすが学院だった。
俺が「百に分ければいいんじゃない?」と言ったからといって、翌日から世界共通規格になるほど甘くない。
それでも。
一本の棒を温水へ入れる。
赤い液体が、ゆっくり上がる。
「六十三」
研究員が読む。
別の生徒が測っても六十三。
レオルが測っても六十三。
フィアが少し角度を変えて見て、
「六十二と六十三の間くらい」
と言った。
俺はちょっと感動した。
全員の「熱い」が、同じ数字になった。
「では今日は」
アルノー先生が言う。
「これを料理へ使う」
俺は即座に顔を上げた。
先生が笑った。
「嬉しそうだな、レン」
「そりゃもう」
魔法理論の授業で料理が出てくる。
一年かけて、ようやく学院の方が俺へ寄ってきた気がする。
向かったのは学院の厨房だった。
料理長が腕を組んで待っている。その横には卵、乳、塩、香草、それから小さな陶器の器が大量に並べられていた。
嫌な予感がする。
「今日作るのは、乳と卵の蒸し物だ」
やっぱり卵だった。
最近、学院における俺の研究成果、卵への依存度が高くない?
料理長が見本を作る。
卵と乳を混ぜ、塩を加え、器へ入れる。それを湯を張った鍋に並べ、蓋をする。
「火は弱く。湯を荒立てるな。強すぎれば中に穴ができる。弱すぎれば固まらん」
生徒が手を上げた。
「弱いって、どのくらいですか?」
「これくらいだ」
料理長が火を調整する。
うん。
職人あるあるが来た。
「これくらい」が分からないから聞いているのだ。
俺は料理長の横で鍋を見る。確かに火加減は絶妙だ。湯は静かに揺れているが、ぼこぼこと沸いてはいない。
「これ、温度測っていい?」
「好きにしろ」
試作器を湯へ入れる。
数値が上がる。
五十。
六十。
七十。
まだ上がる。
数字がぐんぐん伸びていくのを見ていると、前世で見た「相手の強さを数字で測る機械」を思い出した。ああいう物は、大体とんでもない数字が出たところで壊れる。
頼むから壊れるなよ。
学院の備品だからな。
液体は八十二付近で止まった。
「八十二」
俺が言う。
料理長は首を傾げる。
「それが何だ」
「料理長の『これくらい』が、今八十二ってこと」
料理長の眉が動いた。
そこで実験が始まった。
生徒を二組に分ける。
最初の組には、今まで通りの説明だけ。
**弱火にして、湯を沸騰させない。**
もう一組には、
**湯の熱度を七十八から八十四程度に保つ。**
と数字を渡す。
もちろん、数字だけで完璧になるわけではない。
鍋によって厚さが違う。入れた器の数でも温度は変わる。蓋を開ければ下がるし、火を強くしすぎれば一気に上がる。
だから各班で温度計を見ながら火を調整する。
「八十六!」
「上がった、火を落とせ!」
「落としすぎ! 七十六!」
「お前ら数字に振り回されすぎだろ!」
厨房が急に騒がしくなった。
レオルが火を調整し、フィアが温度を読む。俺が蓋の開閉を指示する。
三人同時に手を伸ばした瞬間、妙に息が合った。
……何だこれ。
三人で一つになって巨大な敵でも倒すのか。
相手、卵だぞ。
十五分ほどして、蒸し物が完成した。
まず、感覚だけで作った組。
綺麗に固まったものもある。
でも、いくつかは表面に細かな穴が開いている。逆に中央がまだ柔らかすぎるものもあった。
次に、数字を使った組。
完全に同じではない。
それでも明らかにばらつきが少なかった。
料理長が一つずつ確認する。
黙って食べる。
また食べる。
俺たちはなんとなく緊張した。
「……面白いな」
料理長が言った。
「勝った?」
俺が聞く。
「誰と戦ってるんだ、お前は」
違ったらしい。
料理長は自分が作った蒸し物も机へ置いた。
比べて食べる。
悔しいけど、一番美味いのは料理長のものだった。
舌触りも、塩加減も、香りも違う。
数字を使っただけで職人を超えられるほど料理は簡単じゃない。
「俺の方が美味い」
料理長が言う。
「はい」
素直に認める。
「だが」
料理長は、生徒たちの皿をもう一度見る。
「初めて作った連中の出来としては、こっちの方がずっと揃ってる」
その言葉に、研究員たちが一斉に紙へ書き始めた。
料理長が温度計を手に取る。
「数字が舌の代わりになるとは思わん」
俺も頷く。
「俺も」
火加減は数字だけじゃない。
音。
匂い。
色。
鍋の状態。
食材。
料理人が見るものは山ほどある。
「でも」
俺は完成した皿を見る。
「最初に立つ場所は、同じにできる」
料理長が俺を見る。
「最初に立つ場所?」
「料理長が十年とか二十年かけて覚えた『このくらい』を、全部じゃなくても数字で残せる。初めての人が、そこから練習できる」
料理長はしばらく黙っていた。
そして笑った。
「なるほどな」
フィアがすぐに別の紙を出す。
「それなら店の料理も安定するよね。料理人が休んでも、ある程度同じ味にできる」
レオルも続ける。
「魔術訓練も同じだ。『熱くしすぎるな』ではなく、目標値を指定できる」
研究員の目が輝いた。
まずい。
また始まる。
案の定、アルノー先生が言った。
「次は加熱時間との関係も測ろう」
料理長も乗る。
「肉でも試すか」
フィアは、
「パンも必要」
と言う。
レオルまで、
「魔術板の加熱実験もだな」
と続けた。
増える。
課題が。
どんどん増える。
俺は天井を仰いだ。
今度は本当に見慣れた厨房の天井だった。
「レン」
アルノー先生が呼ぶ。
「何ですか」
「嬉しくないのか?」
少し考える。
机には、ほとんど同じ状態に仕上がった蒸し物が並んでいる。
昨日までなら、「弱火」という言葉を覚えるしかなかった。
今日からは、そこに数字を添えられる。
誰かの勘を、別の誰かへ渡せる。
場所が違っても。
人が違っても。
年月が過ぎても。
「……嬉しいです」
結局、笑ってしまった。
前世ではレシピの隅に当たり前のように書かれていた数字。
俺は今になって、その数字がどれだけ多くの人の失敗を減らしていたのか知った。
料理人の腕を数字が奪うんじゃない。
腕の一部を、次の人へ残せるようになる。
その日から学院厨房のレシピには、少しずつ新しい数字が書き足され始めた。
「弱火」の横に。
「これくらい」の代わりに。
誰が読んでも、同じ場所から料理を始められるように。




