第62話 九歳、温度に数字をつける
九歳の誕生日の朝、俺は見覚えのある天井を見上げていた。
学院寮の自室。入学してから一年近く使っている部屋だから、梁の傷まで覚えている。それでも寝起きに天井を見上げると、前世で見た何かの場面を連想してしまう。見知らぬ天井ならともかく、一年も住んでいる部屋でその感想は無理があるだろう。
「……九歳最初の思考がこれか」
誰もいない部屋で呟き、身体を起こした。
一年前より少し背が伸びた。学院の制服も袖を直してもらっている。八歳でアウルムへ来た時には大きく感じた机も、今では完全に俺の場所になった。
その机の上には、一通の手紙が置いてある。
昨日、村から届いたものだ。
最初は母さんの字。体調を崩していないか、食事はちゃんと取っているか、夜更かししていないか。次は父さん。文章は短く、「包丁の手入れを忘れるな」と書いてある。その下にサヨから稲の様子が少し。
そして最後に、大きく歪んだ文字が並んでいた。
**『にいちゃん きゅうさい おめでとう』**
リナだ。
何度も書き直したらしく、紙の一部が擦れている。「きゅう」の途中など、違う文字へ転生しかけていた。
思わず笑った。
「九歳か」
この世界に生まれて九年。
アウルムへ来て、もうすぐ一年になる。
時間はちゃんと進んでいる。
前世の十七年間を覚えているからといって、この九年間が付け足しになるわけではない。今では村の家も、学院の寮も、どちらも自分が実際に暮らしてきた場所だった。
その日の一時間目は、熱属性研究の補助授業だった。
教室へ入ると、机の上に同じ形の金属棒が十本ほど並べられている。教壇にはアルノー先生のほか、生活魔術研究室から来た研究員が二人いた。
最近、この授業だけ妙に大人が増えている。
原因については考えないことにしている。
「レン」
席へ座ると、隣のレオルが声をかけてきた。
「九歳になったそうだな」
「ありがとう」
「別に祝ってない」
「じゃあ何?」
「フィアが言えって」
前を見る。
フィアは澄ました顔で教科書を開いている。
「聞こえてるよ」
「聞かせてるから」
最近、この二人とのやり取りにも慣れてきた。
やがて授業が始まり、研究員が一本の金属棒を湯へ入れた。別の一本は机の上へ置いたままにする。
「今日は、物体の温度を比較する」
アルノー先生が二本を示す。
「こちらは温水へ入れたもの。こちらは室内へ置いていたものだ。触れば、どちらが高温かは分かるな」
順番に触ってみる。
片方は温かく、片方は冷たい。
「では、どれほど違う?」
先生の問いに、生徒たちが答える。
「かなり違います」
「こっちは少し熱いです」
「二倍くらい?」
最後のは絶対に適当だ。
俺も触ってみる。
温かい方は、風呂より少し熱いくらいだろうか。
そう思ったところで、アルノー先生と目が合った。
「レンならどう表現する?」
「俺?」
「君は料理で熱を扱っているだろう」
なるほど。
少し考える。
「……かなり熱いけど、火傷するほどじゃない?」
「では『かなり』とは?」
困った。
「俺が熱いと感じる程度?」
「君より熱さに強い人間なら?」
さらに困った。
フィアが小さく笑った。
確かにそうだ。
俺が料理を教える時にも、同じ問題がある。
弱火。
中火。
沸騰直前。
人肌くらい。
どれも便利な言葉だが、結局は人によって少し違う。
そこで頭の中に、前世の台所が浮かんだ。
オーブンには数字があった。
給湯器にも数字があった。
冷蔵庫にも温度設定があり、風邪を引けば体温計を使った。
前世では当たり前すぎて、その便利さを考えたことすらなかった。
「先生」
手を上げる。
アルノー先生の表情に、一瞬だけ警戒が走った。
失礼だな。
「何だ」
「これ、数字にできないんですか?」
「何を?」
「熱さです」
教室が少し静かになった。
俺は二本の棒を指した。
「『かなり熱い』じゃなくて、こっちはいくつ、こっちはいくつ、って誰が測っても同じ数字になるようにするんです」
研究員の一人が眉を寄せた。
「何を基準に数字を決める?」
ここだ。
前世なら温度計を持ってくれば終わる。
でも、この世界にはまだそれがない。
なら、先に基準を作らなければならない。
俺は黒板の前へ出て、縦に一本の線を引いた。
「例えば水を使ったらどうです?」
「水?」
「水が凍り始めるところを一つの基準にする。それから、水が沸騰するところをもう一つの基準にする」
上下に印をつける。
「その間を、同じ大きさでいっぱいに分ける」
研究員が黒板へ近づいた。
「人間の感覚ではなく、毎回起こる現象を基準にするのか」
「その方が、誰が測っても同じになりません?」
自分で言いながら、前世の記憶をなぞっている。
たしか摂氏も、元を辿れば水の凍る温度と沸騰する温度を利用していたはずだ。細かい歴史は知らない。百という数字を誰がどう決めたのかも説明できない。
だから、そこまでは言わない。
アルノー先生が黒板を見つめる。
「二つの再現可能な状態を定め、その間へ目盛りを置く……」
フィアが手を上げた。
「それ、店でも使える?」
当然そこへ来た。
「どういうことだ?」
先生が聞く。
「例えば乳を温める時です。今は『煮立つ少し前まで』とか『手で触れない程度』って教えるでしょう? でも数字で決められるなら、別の人がやっても同じ状態にできます」
俺も急に楽しくなってきた。
「パンもいける。肉も。油も。あと冷却箱の中がどのくらい冷えてるかも比較できる」
「魔術実験もだ」
レオルまで乗ってきた。
「同じ術式でも、温度が数字なら結果を比較できる」
三人で話しているうちに、研究員たちの様子がおかしくなった。
一人が黒板へ新しい図を書き始め、もう一人が棚から感温性の魔石を持ってくる。
「熱による膨張を利用できないか」
「液体なら変化を連続的に示せる可能性がある」
「容器の材質が問題だ」
アルノー先生まで加わった。
授業が消えた。
俺はレオルを見る。
レオルも俺を見る。
「またやったな」
「俺?」
「お前以外に誰がいる」
前世では風邪を引けば脇に挟んでいた道具の話なのに、目の前では研究者三人が新しい魔道具を作る勢いで議論している。
さすがに少し面白い。
しばらくして、アルノー先生がこちらへ振り返った。
嫌な予感がする。
「今日の授業内容を変更する」
教室中から悲鳴が上がった。
「またレンだ!」
「課題増えるぞ!」
「俺まだ何も作ってないだろ!」
抗議したが遅かった。
先生は黒板へ大きく書いた。
**『誰が測っても同じになる温度の尺度を考案せよ』**
「発案者には中心になってもらう」
「今日、誕生日なんですけど」
「それはおめでとう」
「誕生日祝いが研究課題なの?」
教室に笑いが起こった。
フィアまで肩を震わせている。
九歳最初の日。
俺は家族からの祝いの手紙を受け取り、学院からは新しい宿題を一つもらった。
でも、黒板に書かれた言葉を見ていると、不思議と嫌ではなかった。
もし温度を数字で残せるようになれば、俺の「これくらい」が、誰かの「これくらい」と同じになる。
料理人の勘を記録できる。
魔法の実験を比べられる。
乳を安全に温める条件も、パンが一番よく膨らむ温度も、いつか数字で残せるかもしれない。
そして俺がいなくなった後でも、同じ条件を誰かが再現できる。
それは単に便利なだけではない。
知識を、人から人へ渡す方法になる。
九歳になったその日。
俺はこの世界の「熱い」と「冷たい」の間に、初めて共通の物差しを置こうとしていた。




