第60話 大図書館で、日本を探す
アウルム学院へ来てから、俺は何度も大図書館の前を通っていた。
そのたびに入りたいと思っていた。
でも授業が始まれば覚えることはいくらでもあるし、実技の後にはアルノー先生から追加課題が飛んでくる。食堂へ顔を出せば料理長に捕まり、フィアからは「火の魔力消費を測る約束、忘れてないよね」と言われる。
気づけば、入学から数か月が過ぎていた。
そして今日。
俺はついに、サヨから預かった紙を鞄へ入れ、大図書館の正面に立っていた。
「……でかいな」
何度見ても、やっぱり大きい。
学院本館より少し低い程度の建物が、丸ごと本のために使われている。正面には太い石柱が並び、その上には開いた本と羽根を組み合わせた紋章が刻まれていた。
扉をくぐった瞬間、空気が変わる。
紙。
革。
木。
古い埃。
それに、わずかに薬品のような匂い。
嫌いじゃない。
むしろ胸が高鳴った。
入口からすぐ先には、天井まで続く吹き抜けがあった。
一階。
二階。
三階。
さらに上。
何階あるのか、一目では分からない。
壁という壁が本棚だ。
中央には螺旋状の階段が伸び、上の階では学生や研究者が静かに行き交っている。本棚の間には移動用の梯子が取り付けられ、天井近くでは小さな箱型の魔法具が、何冊もの本を載せてゆっくり飛んでいた。
一台が俺の頭上を通る。
「本が飛んでる……」
思わず見上げる。
「本ではありません。運搬台です」
受付から声がした。
長い銀髪を後ろでまとめた女性が、こちらを見ている。
年齢はよく分からない。三十代にも五十代にも見える。胸には学院のものとは少し違う、鍵と本を組み合わせた徽章がついていた。
「初等科の生徒ですね」
「はい」
「初めて?」
「はい」
「上を見ながら歩くと柱にぶつかります」
危ないところだった。
俺は前を見る。
「司書のメリナです。利用証を」
学院から渡された小さな金属札を差し出す。
メリナさんが魔法具へ触れさせると、札が淡く光った。
「初等科生が閲覧できるのは一般書庫と初等研究区画まで。希少書、魔術原典、古文書区画への立ち入りは禁止されています」
目的地を先に塞がれた気がする。
「古文書、見たいんですけど」
「駄目です」
「まだ何を見るか言ってない」
「八歳で古文書を見たいと言う生徒は、だいたい同じことを言います」
経験豊富らしい。
でも、今日は諦めるつもりはない。
俺は鞄からサヨの紙を取り出した。
「こういうのを探してるんです」
メリナさんの目が紙へ落ちる。
最初は事務的だった視線が、少しだけ変わった。
紙には、サヨの村に残されていたものが写されている。
三本足の鳥。
勾玉。
意味の分からない幾何学模様。
それから、サヨたちが音だけで伝えてきた言葉を、俺がこの世界の文字で書き添えたもの。
ニホン。
ヒムカ。
ミコ。
メリナさんは紙を持ち上げた。
「これは、どこで?」
質問の仕方が変わった。
「東の方から来た人が持ってたものです」
嘘ではない。
サヨのことをどこまで話すべきかは、まだ決めていない。
「調べたいんです。似た記録がないか」
「何を知りたいのです?」
その質問に、答えが詰まった。
日本がどこにあるか。
なぜ消えたのか。
この世界が本当に未来の地球なのか。
八咫烏はなぜ俺を導くのか。
聞きたいことは山ほどある。
でも今、確実に言えるのは一つだけだった。
「この言葉が、本当に昔からあったのか知りたい」
俺は紙の一番上を指差した。
**ニホン。**
メリナさんがその音を小さく読む。
「ニホン」
何も起きない。
神殿の像も割れない。
空も光らない。
ただ、知らない人が、日本という言葉を口にした。
それだけなのに。
胸の奥が少しだけ熱くなった。
「国名ですか?」
「……たぶん」
本当は「そうです」と言いたい。
でも今の世界に、日本という国は存在しない。
メリナさんは受付の奥へ行き、分厚い索引簿を何冊か持ってきた。
「まず一般索引から探しましょう」
そこから、俺の予想以上に地味な作業が始まった。
ニホン。
なし。
似た発音の地名。
なし。
ヒムカ。
これはあった。
ただし現在の東方地域の古い呼び方として数件。
三本足の鳥。
該当なし。
三脚鳥。
怪鳥伝承が二件。
でも内容を確認すると、どちらも全く違った。
稲。
これも難しい。
この世界では東穀や別の穀物が同じ分類に入れられていて、俺の知っている稲と区別されていない。
「ない……」
二時間近く探したところで、俺は机に額をつけた。
期待していた。
大図書館なら何かあると。
日本という文字が突然本から出てくるような、そんな都合のいいことを。
でも、何もない。
本当に。
不自然なくらい。
「これだけ本があるのに」
目の前には、地理書だけでも何百冊と並んでいる。
古代王国。
滅びた都市。
昔の街道。
何百年前の小国まで記録されている。
それなのに、日本だけがない。
島国一つが消えたというだけなら、どこかに記録くらい残るはずだ。
戦争で滅びても。
海に沈んでも。
名前くらいは。
でもない。
「……やっぱり、消されたんだ」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
破壊されたのではない。
記録から。
記憶から。
存在したという事実そのものから。
第10話でヴァルドが言った言葉が、今になって重くなる。
メリナさんが向かいに座った。
「探し物が見つからない時に、一つ覚えておくといいことがあります」
「何?」
「索引にないことと、記録が存在しないことは同じではありません」
顔を上げる。
「どういうこと?」
「名前が変わっている可能性があります。分類が間違っている可能性もある。後世の者が意味を理解できず、全く別の項目へ入れた可能性もあります」
なるほど。
「じゃあ、『日本』じゃない名前で残ってるかもしれない?」
「可能性はあります」
俺は紙を見る。
サヨの村でも、意味が分からないまま形だけ守っていた。
「稲種」という文字を、サヨは読めなかった。
つまり。
誰かが日本のことを書き残していても、後の人がそれを日本の記録だと分からなければ。
全然違う場所に保存されているかもしれない。
「これ」
メリナさんが三本足の鳥の図を指した。
「文字ではなく、意匠から探してみましょう」
その発想はなかった。
メリナさんは別の索引を取り出した。
今度は文章ではなく、古代の紋章や祭具、建築意匠を分類したものらしい。
ページをめくる。
鳥。
太陽。
樹木。
蛇。
船。
何十種類もある。
三本足の鳥そのものはなかなか出ない。
それでも。
メリナさんの指が止まった。
「……これですね」
小さな模写だった。
円。
その中に鳥。
絵が粗いため、脚の本数までははっきりしない。
でも、尾の形が似ている。
俺は身を乗り出した。
「どこにあったの?」
メリナさんが索引番号を確認する。
「東方古代資料、第七保管区」
来た。
「見たい」
「駄目です」
即答。
「なんで!」
「先ほど説明しました。古文書区画は初等科生立入禁止です」
「でもこれ、俺が探してるやつかもしれない!」
「だからこそ、正式な手続きを踏みなさい」
机へ突っ伏したくなった。
目の前にあるのに。
でもメリナさんは意地悪をしているわけではなかった。
古文書は壊れやすい。
読むだけでも専門知識がいる。
勝手に触れば、何百年残ったものを俺が壊す可能性だってある。
米と同じだ。
大事だからこそ、急いではいけない。
「どうしたら見られる?」
俺が聞くと、メリナさんは指を三本立てた。
「高等区分の研究資格を取得する。古文書担当教師の研究補助員になる。あるいは担当教師から個別閲覧許可を得る」
どれも今すぐは無理そうだ。
でも道はある。
「勉強すれば見られる?」
「それが学院です」
痛いところを突かれた。
俺は魔法を覚えたいと思って入学した。
料理にも使える。
冷却箱も良くできる。
それだけでも十分だった。
でも今、初めて別の意味で勉強したいと思った。
文字を読みたい。
歴史を知りたい。
昔の地理を理解したい。
日本へつながるものが目の前にあった時、自分でそれを読めるようになりたい。
「……やるか」
筆記試験で北部三領盟約すら知らなかった俺には、かなり遠い道だ。
それでも、火加減だって最初からできたわけじゃない。
一つずつ覚えればいい。
俺が紙をしまおうとした時だった。
メリナさんがもう一度、索引へ目を落とした。
「待ってください」
「何?」
「この意匠の出典……古文書ではありませんね」
「え?」
メリナさんが細かな文字を読む。
「古い航海記録です」
心臓が一度、大きく鳴った。
「航海?」
「百二十六年前、東方海域を調査した船団の記録。その付属図に、この鳥に似た印があるようです」
「場所は?」
「そこまでは索引には」
俺は立ち上がりかける。
でも、また止まった。
急ぐな。
ちゃんと聞く。
「その航海記録も、俺は見られない?」
「原本は無理です」
やっぱり。
「ただし」
メリナさんが続ける。
「地図部分の複写なら、地理研究室に保存されている可能性があります」
今度は完全に顔を上げた。
原本ではない。
でも地図なら。
そこに何かあるかもしれない。
日本があった海。
今は何もない場所。
そこを、百年以上前の人間がどう描いたのか。
俺はサヨの紙を握った。
今日、大図書館へ来れば答えが見つかると思っていた。
実際には、答えなんて一つも見つからなかった。
代わりに。
次に開ける扉が見つかった。
それだけで、さっきまで静かに見えていた図書館が急に違って見える。
この無数の本のどこかに、誰かが消しきれなかったものが眠っているかもしれない。
日本という名前がなくても。
意味が失われていても。
違う名前をつけられていても。
残ったものは、探せる。
俺は帰り際、もう一度巨大な書庫を振り返った。
いつか、あの奥まで自分で入る。
そして自分の目で読む。
そのためなら。
歴史の勉強も、少しくらい本気でやってやろうと思った。




