第58話 手を洗っただけなのに
生活魔術と薬学の合同授業で、「腐敗」について扱うと聞いた時、俺は少しだけ嫌な予感がした。
料理をしていると、腐敗は避けて通れない。
肉も魚も、見た目が平気でも駄目な時がある。前世では冷蔵庫があって、消費期限が書いてあって、学校でも手洗いを散々言われた。それでも食中毒の話は普通にあった。
この世界では、もっと危ない。
冷蔵設備はほとんどないし、肉を切った包丁でそのまま野菜を切ることも珍しくない。
教室の前には、三つの皿が並んでいた。
一つは新しい肉。
一つは少し臭い始めた肉。
最後は、明らかに腐った肉。
担当教師のマレーナ先生は、薬学科の女性教師だった。年齢は四十くらい。白い長衣の袖を肘まで捲り、話す時はいつも相手の目を見る。
「腐敗した食物を口にすれば、人は病む。これは全員知っているな」
生徒たちが頷く。
「では、なぜ病む?」
何人かの手が上がった。
「腐気が身体に入るからです」
「食物の魔力が淀むから」
「悪性の精霊が寄る、と祖母から聞きました」
先生はどれも否定しなかった。
「いずれも古くからある説だ。腐敗した食物の周辺で魔力の乱れが観測されることはある。ただし、それが原因なのか結果なのかは分かっていない」
ちゃんとしてる。
俺は少し安心した。
この世界の人が全員「腐ったものには悪霊がいる」で思考停止しているわけじゃない。
ただ、俺には一つ引っかかることがあった。
手を上げる。
マレーナ先生が俺を見る。
「レン。今日は卵を焼く授業ではないぞ」
教室で笑いが起きた。
もう知られてる。
「今日は焼かないです」
「では何だ」
「腐る原因って、目に見えないくらい小さい生き物の場合もあると思います」
笑いが止まった。
マレーナ先生の表情は変わらない。
「小さい生き物?」
「はい。細菌……って呼んでました」
言ってから、自分でも困った。
細菌が何か説明しろと言われても、俺は専門家じゃない。
小さい。
増える。
食べ物につく。
種類によっては病気の原因になる。
その程度しか知らない。
「見えるのか?」
「俺には見えません」
「捕まえられる?」
「無理です」
「形は?」
「……たぶん色々」
後ろからレオルのため息が聞こえた。
「お前、それでよく手を挙げたな」
「知ってるところまで言っただけだよ」
マレーナ先生は怒らなかった。
むしろ少しだけ興味を持ったようだった。
「では、その見えない生物が原因だとして、どう確かめる?」
そこだ。
俺は少し考えた。
前世の知識を言うだけなら簡単だ。
でも、この世界には顕微鏡がない。
だったら、見えないものそのものではなく、結果を見るしかない。
前回卵を使った時と同じだ。
「条件を変えて比べます」
「どう変える?」
「手を洗うか、洗わないか」
教室がざわついた。
誰かが「それだけ?」と呟いた。
俺も前世なら同じ反応をしたと思う。
手洗いなんて、あまりにも当たり前だから。
でも俺は続けた。
「同じ材料を同じ大きさに切る。置く場所も同じ。片方はよく洗った手と、熱湯をかけた道具で触る。もう片方は、普通に触る」
フィアが手を上げた。
「普通って?」
「そこ大事だね」
俺は頷く。
「例えば、土を触った後とか」
今度ははっきり嫌そうな声が上がった。
マレーナ先生が少し笑った。
「なるほど。それで腐り方を比べるわけか」
「はい」
「だが、手を洗い、道具も熱湯処理したら、二つ条件を変えている」
一瞬止まった。
その通りだ。
俺はすぐ頷いた。
「じゃあ分けます」
黒板へ向かう。
四つ書く。
一、手も道具もそのまま。
二、手だけ洗う。
三、道具だけ熱湯をかける。
四、両方やる。
「一個ずつ変えれば、何が効いたか分かりやすいです」
今度こそ教室が静かになった。
マレーナ先生が黒板を見る。
それから俺を見る。
「それも、君の故郷では子供が学ぶのか?」
「理科の実験で……似たことは」
前世の教室が浮かぶ。
ビーカー。
アルコールランプ。
先生に「条件を揃えろ」と何度も言われたこと。
あの時は面倒だと思っていた。
まさか異世界で役に立つとは思わなかった。
実験はその日のうちに始まった。
肉片を同じ大きさに切り、それぞれ別の容器へ入れる。
手洗いには石鹸に近い洗浄剤を使った。
道具は熱湯。
保存場所も同じ棚。
魔術による冷却は使わない。
「何日かかるかな」
俺が言うと、レオルが容器を見ながら答えた。
「本当に差が出るのか?」
「たぶん」
「たぶんばっかりだな」
「だから実験するんだろ」
フィアが頷いた。
「それはレンが正しい」
珍しく援護された。
そして三日後。
結果は、俺が思っていた以上にはっきり出た。
最初の容器。
手も道具もそのまま。
臭いが強い。
表面も明らかに変色している。
手だけ洗ったものは、それよりまし。
道具だけ熱湯処理したものも、少しまし。
そして両方やったもの。
完全に無傷ではない。
でも、明らかに腐敗が遅い。
「……こんなに違うのか」
レオルが容器を見比べる。
フィアはすでに紙へ日数と状態を書き始めていた。
マレーナ先生は、何も言わず四つを順番に確認した。
臭い。
色。
表面。
最後に、両方処理した容器を長く見つめる。
「もう一度やる」
先生が言った。
「え?」
「肉だけでは足りない。魚、乳、煮た豆でも試す。手洗いの時間も変える。水だけの場合と洗浄剤を使う場合も分ける」
急に本気になった。
「先生、授業ですよね?」
「研究になった」
周囲からどよめきが起きる。
その日の午後には、薬学科の上級研究員まで教室へ来た。
俺は同じ説明をもう一度させられた。
見えないほど小さい生物。
手や道具につく。
加熱や洗浄で減らせる可能性。
ただし俺は顕微鏡も作れないし、病原菌の種類も知らない。
そこははっきり言った。
「俺が知ってるのは、本当に入口だけです」
それでも研究員は興奮していた。
「入口があることを知らなかったのだ」
その言葉に、少しだけ鳥肌が立った。
俺にとっては常識だった。
料理する前に手を洗う。
生肉を触った手で他のものを触らない。
包丁やまな板を洗う。
しっかり加熱する。
前世では、注意書きにすら書いてあったことだ。
それがここでは、学院の研究員を集める話になっている。
数日後。
食堂の入口に、水桶と洗浄剤が増えた。
その横には大きな紙が貼られている。
**『食事前、調理前には手を洗うこと』**
俺はそれを見上げていた。
レオルが隣へ来る。
「お前、学院の決まり一個増やしたな」
「俺のせいみたいに言うなよ」
「お前のせいだろ」
そこへフィアも来た。
「厨房にも貼ってあったよ。市場の食品組合にも伝えるらしい」
思ったより話が大きくなっている。
「手を洗っただけなのに……」
俺が呟くと、フィアが首を横に振った。
「違うでしょ」
「何が?」
「手を洗っただけじゃない。比べて、結果を見せたから信じてもらえたんでしょ」
それを聞いて、俺は少し黙った。
確かにそうだ。
俺が「前世ではこうだった」と言っただけなら、変な話で終わっていたかもしれない。
でも実際に試した。
結果が出た。
だから先生たちは動いた。
現代知識がすごいんじゃない。
知っていることを、この世界でも確かめられる形にしたから使える知識になった。
そう考えると、少し嬉しかった。
その日の昼。
食堂に入る前、レオルがちゃんと手を洗っていた。
俺はニヤニヤしながら隣に立つ。
「なんだよ」
「別に」
「笑うな」
「三日前、『手洗いでそんな変わるのか』って言ってた人がいるなと思って」
レオルが少し顔を赤くした。
「結果が出たならやる。当たり前だろ」
「素直で偉いね」
「殴るぞ」
逃げる。
後ろでフィアが笑っている。
そして食堂の入口には、今日も新しい紙が貼られていた。
たった一つ。
手を洗う。
それだけの習慣が、学都で広がり始めていた。




