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神々のいない食卓~日本の消えた異世界で、料理好きの俺は和食を作る~  作者: ちゃむたろう
第六章 学都アウルム――八歳、学校へ行く

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第58話 手を洗っただけなのに

生活魔術と薬学の合同授業で、「腐敗」について扱うと聞いた時、俺は少しだけ嫌な予感がした。


料理をしていると、腐敗は避けて通れない。


肉も魚も、見た目が平気でも駄目な時がある。前世では冷蔵庫があって、消費期限が書いてあって、学校でも手洗いを散々言われた。それでも食中毒の話は普通にあった。


この世界では、もっと危ない。


冷蔵設備はほとんどないし、肉を切った包丁でそのまま野菜を切ることも珍しくない。


教室の前には、三つの皿が並んでいた。


一つは新しい肉。


一つは少し臭い始めた肉。


最後は、明らかに腐った肉。


担当教師のマレーナ先生は、薬学科の女性教師だった。年齢は四十くらい。白い長衣の袖を肘まで捲り、話す時はいつも相手の目を見る。


「腐敗した食物を口にすれば、人は病む。これは全員知っているな」


生徒たちが頷く。


「では、なぜ病む?」


何人かの手が上がった。


「腐気が身体に入るからです」


「食物の魔力が淀むから」


「悪性の精霊が寄る、と祖母から聞きました」


先生はどれも否定しなかった。


「いずれも古くからある説だ。腐敗した食物の周辺で魔力の乱れが観測されることはある。ただし、それが原因なのか結果なのかは分かっていない」


ちゃんとしてる。


俺は少し安心した。


この世界の人が全員「腐ったものには悪霊がいる」で思考停止しているわけじゃない。


ただ、俺には一つ引っかかることがあった。


手を上げる。


マレーナ先生が俺を見る。


「レン。今日は卵を焼く授業ではないぞ」


教室で笑いが起きた。


もう知られてる。


「今日は焼かないです」


「では何だ」


「腐る原因って、目に見えないくらい小さい生き物の場合もあると思います」


笑いが止まった。


マレーナ先生の表情は変わらない。


「小さい生き物?」


「はい。細菌……って呼んでました」


言ってから、自分でも困った。


細菌が何か説明しろと言われても、俺は専門家じゃない。


小さい。


増える。


食べ物につく。


種類によっては病気の原因になる。


その程度しか知らない。


「見えるのか?」


「俺には見えません」


「捕まえられる?」


「無理です」


「形は?」


「……たぶん色々」


後ろからレオルのため息が聞こえた。


「お前、それでよく手を挙げたな」


「知ってるところまで言っただけだよ」


マレーナ先生は怒らなかった。


むしろ少しだけ興味を持ったようだった。


「では、その見えない生物が原因だとして、どう確かめる?」


そこだ。


俺は少し考えた。


前世の知識を言うだけなら簡単だ。


でも、この世界には顕微鏡がない。


だったら、見えないものそのものではなく、結果を見るしかない。


前回卵を使った時と同じだ。


「条件を変えて比べます」


「どう変える?」


「手を洗うか、洗わないか」


教室がざわついた。


誰かが「それだけ?」と呟いた。


俺も前世なら同じ反応をしたと思う。


手洗いなんて、あまりにも当たり前だから。


でも俺は続けた。


「同じ材料を同じ大きさに切る。置く場所も同じ。片方はよく洗った手と、熱湯をかけた道具で触る。もう片方は、普通に触る」


フィアが手を上げた。


「普通って?」


「そこ大事だね」


俺は頷く。


「例えば、土を触った後とか」


今度ははっきり嫌そうな声が上がった。


マレーナ先生が少し笑った。


「なるほど。それで腐り方を比べるわけか」


「はい」


「だが、手を洗い、道具も熱湯処理したら、二つ条件を変えている」


一瞬止まった。


その通りだ。


俺はすぐ頷いた。


「じゃあ分けます」


黒板へ向かう。


四つ書く。


一、手も道具もそのまま。


二、手だけ洗う。


三、道具だけ熱湯をかける。


四、両方やる。


「一個ずつ変えれば、何が効いたか分かりやすいです」


今度こそ教室が静かになった。


マレーナ先生が黒板を見る。


それから俺を見る。


「それも、君の故郷では子供が学ぶのか?」


「理科の実験で……似たことは」


前世の教室が浮かぶ。


ビーカー。


アルコールランプ。


先生に「条件を揃えろ」と何度も言われたこと。


あの時は面倒だと思っていた。


まさか異世界で役に立つとは思わなかった。


実験はその日のうちに始まった。


肉片を同じ大きさに切り、それぞれ別の容器へ入れる。


手洗いには石鹸に近い洗浄剤を使った。


道具は熱湯。


保存場所も同じ棚。


魔術による冷却は使わない。


「何日かかるかな」


俺が言うと、レオルが容器を見ながら答えた。


「本当に差が出るのか?」


「たぶん」


「たぶんばっかりだな」


「だから実験するんだろ」


フィアが頷いた。


「それはレンが正しい」


珍しく援護された。


そして三日後。


結果は、俺が思っていた以上にはっきり出た。


最初の容器。


手も道具もそのまま。


臭いが強い。


表面も明らかに変色している。


手だけ洗ったものは、それよりまし。


道具だけ熱湯処理したものも、少しまし。


そして両方やったもの。


完全に無傷ではない。


でも、明らかに腐敗が遅い。


「……こんなに違うのか」


レオルが容器を見比べる。


フィアはすでに紙へ日数と状態を書き始めていた。


マレーナ先生は、何も言わず四つを順番に確認した。


臭い。


色。


表面。


最後に、両方処理した容器を長く見つめる。


「もう一度やる」


先生が言った。


「え?」


「肉だけでは足りない。魚、乳、煮た豆でも試す。手洗いの時間も変える。水だけの場合と洗浄剤を使う場合も分ける」


急に本気になった。


「先生、授業ですよね?」


「研究になった」


周囲からどよめきが起きる。


その日の午後には、薬学科の上級研究員まで教室へ来た。


俺は同じ説明をもう一度させられた。


見えないほど小さい生物。


手や道具につく。


加熱や洗浄で減らせる可能性。


ただし俺は顕微鏡も作れないし、病原菌の種類も知らない。


そこははっきり言った。


「俺が知ってるのは、本当に入口だけです」


それでも研究員は興奮していた。


「入口があることを知らなかったのだ」


その言葉に、少しだけ鳥肌が立った。


俺にとっては常識だった。


料理する前に手を洗う。


生肉を触った手で他のものを触らない。


包丁やまな板を洗う。


しっかり加熱する。


前世では、注意書きにすら書いてあったことだ。


それがここでは、学院の研究員を集める話になっている。


数日後。


食堂の入口に、水桶と洗浄剤が増えた。


その横には大きな紙が貼られている。


**『食事前、調理前には手を洗うこと』**


俺はそれを見上げていた。


レオルが隣へ来る。


「お前、学院の決まり一個増やしたな」


「俺のせいみたいに言うなよ」


「お前のせいだろ」


そこへフィアも来た。


「厨房にも貼ってあったよ。市場の食品組合にも伝えるらしい」


思ったより話が大きくなっている。


「手を洗っただけなのに……」


俺が呟くと、フィアが首を横に振った。


「違うでしょ」


「何が?」


「手を洗っただけじゃない。比べて、結果を見せたから信じてもらえたんでしょ」


それを聞いて、俺は少し黙った。


確かにそうだ。


俺が「前世ではこうだった」と言っただけなら、変な話で終わっていたかもしれない。


でも実際に試した。


結果が出た。


だから先生たちは動いた。


現代知識がすごいんじゃない。


知っていることを、この世界でも確かめられる形にしたから使える知識になった。


そう考えると、少し嬉しかった。


その日の昼。


食堂に入る前、レオルがちゃんと手を洗っていた。


俺はニヤニヤしながら隣に立つ。


「なんだよ」


「別に」


「笑うな」


「三日前、『手洗いでそんな変わるのか』って言ってた人がいるなと思って」


レオルが少し顔を赤くした。


「結果が出たならやる。当たり前だろ」


「素直で偉いね」


「殴るぞ」


逃げる。


後ろでフィアが笑っている。


そして食堂の入口には、今日も新しい紙が貼られていた。


たった一つ。


手を洗う。


それだけの習慣が、学都で広がり始めていた。


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