第57話 卵を焼いたら、先生が黙った
次の火属性実習で、アルノー先生は一人一枚ずつ薄い金属板を配った。
大きさは両手を広げたくらい。厚さは指先より少し薄く、四隅には固定用の穴が空いている。机の上に載せると、鈍い銀色の表面が魔術灯をぼんやり反射した。
「今日の課題は、この板を可能な限り均一に温めることだ」
先生が告げると、教室のあちこちから安堵の声が漏れた。前回の授業で俺が余計な質問をしたせいで、「熱の移動」について何か難しい試験をされると思っていたらしい。
俺としても少し安心した。
板を温めるだけなら簡単だ。
「ただし」
アルノー先生が続ける。
「板の一部だけを過剰に加熱した場合は減点する。火属性魔法は、出力を上げるだけなら容易だ。今日見るのは、面へ均等に力を広げられるかどうかだ」
なるほど。
鍋と同じだ。
俺は一気にやる気になった。
周囲の生徒たちが術式を組み始める。金属板の中央へ魔力を流し、そこから外へ広げるのが学院で教えられている基本らしい。レオルはさすがに手際がよく、板の下へ小さな火性術式を作り、四方向へ均等に魔力を分けていた。
「レン、今日は勝つからな」
「何の勝負?」
「前回の実技、実質お前が一番だっただろ」
まだ気にしていたのか。
俺も板へ魔力を流す。
中心が温まる。
そこから周囲へ。
けれど、すぐに気になることが出てきた。
「……これ、本当に均一?」
触ればある程度分かる。でも熱い板を何度も手で触るわけにはいかない。魔力感知で術式の偏りを見ることはできても、それは魔力の偏りであって、金属そのものの温度とは少し違う。
アルノー先生は細い棒状の魔道具を板へ当てて確認している。
でも、それも一点ずつだ。
右上。
左下。
中央。
数か所測れば大体は分かるだろう。でも、その間に細かな熱い場所があっても見落とすかもしれない。
前世なら。
そう考えた瞬間、頭の中に台所が浮かんだ。
フライパン。
弱火のつもりなのに、一部分だけ先に焦げる。
ホットプレートでも場所によって肉の焼け方が違った。
そして、焼きムラを見るのに一番分かりやすいもの。
俺は手を上げた。
「先生」
アルノー先生が嫌そうな顔をした。
「今度は何だ」
完全に警戒されている。
「卵ってありますか?」
教室が静かになった。
「……何?」
「卵です」
「聞こえなかったわけではない。なぜ魔術実習で卵が必要なんだ」
「板が均一に温まってるか見たいから」
アルノー先生は数秒、俺を見つめた。
レオルが額を押さえる。
フィアは逆に面白そうな顔をしている。
「レン。また料理する気?」
「料理じゃない。実験」
自分で言って、ちょっと格好いいと思った。
先生は当然すぐには許可しなかった。しかし俺が理由を説明すると、教室の隅にいた実習助手へ何か耳打ちした。
十分ほどして、本当に卵が二つ届いた。
「やってみろ」
許可が出た。
俺は一つを器へ割り入れ、軽く混ぜた。
黄身と白身を完全に混ぜすぎない程度。
それを、自分が均一に温めたつもりの金属板へ薄く流す。
じゅっ。
いい音がした。
同時に教室中から声が上がる。
「うわ」
「固まった!」
「いい匂い……」
そこじゃない。
俺は卵の表面を見る。
中央付近はすぐ白くなった。
右側も早い。
でも左奥だけ、まだ液体のままだ。
「ほら」
俺が指差す。
「ここ、温度低い」
ざわめきが止まった。
アルノー先生が近づいてくる。
卵へ触れず、じっと観察する。
確かに一目で分かる。
熱い場所では卵が先に固まり、温度の低い場所では遅れる。
魔力を見る必要もない。
特殊な魔道具もいらない。
ただ卵を流しただけだ。
「……もう一度やれ」
先生が言った。
今度は俺ではなく、レオルの板で試す。
レオルは少しむっとした顔をしながらも許した。
卵を流す。
中央から綺麗に固まり始めた。
ただし、四隅だけ遅い。
レオルが目を見開いた。
「四方へ同じだけ魔力を流してるのに」
「板の端から熱が逃げてるんじゃない?」
俺が言うと、アルノー先生がすぐ反応した。
「なぜそう思う」
「鍋も端の方が冷えやすいことがあるから。周りの空気に熱を取られてるんだと思う」
正確な説明ができるかと言われると怪しい。
でも、前世でフライパンを使っていれば経験として知っている。
先生はすぐ黒板へ向かった。
板の図を描く。
中央からの熱。
外へ逃げる熱。
魔力を均等に配ることと、温度を均等にすることは同じではない。
そこまで書いてから、アルノー先生の手が止まった。
教室中が先生を見ている。
しばらくして、先生はこちらへ振り返った。
「レン」
「はい」
「君は最初から、これを知っていたのか?」
「卵を焼けば熱いところが先に固まること?」
「そうだ」
「それは普通に」
言いかけて止まった。
普通。
俺にとっては。
でも、この世界では違う。
アルノー先生は俺の返事を待たず、今度は自分の金属板を持ってきた。
「もう一つ卵を寄越せ」
助手が慌てて渡す。
先生自身が術式を組む。
さっきまで生徒へ見せていた見本より、ずっと精密な魔法だった。
卵を流す。
ほぼ同時に固まった。
俺も思わず身を乗り出す。
「すごい」
でも、よく見ると一か所だけ遅い。
「そこ」
先生も気づいた。
術式を書き換える。
もう卵がないので、今度は板へ少量の水を撒いた。
水滴が消えていく速さを見る。
「……なるほど」
アルノー先生が呟いた。
その声は、授業中に俺たちへ説明する時とは違った。
完全に研究者の声だった。
フィアが隣で小さく笑った。
「先生、楽しそう」
「だね」
アルノー先生が急に顔を上げた。
「全員、一度術式を止めろ」
教室中が従う。
「今日の課題を変更する」
悲鳴が上がった。
先生は無視した。
「均一に魔力を流すのではない。卵、水、蝋、その他使えるものを用いて、板の温度差を確認しながら均一化せよ」
レオルが俺を睨んだ。
「またお前のせいで課題増えたぞ」
「でも面白いだろ?」
「……それは否定しない」
その後の実習は、完全に様子が変わった。
誰かが蝋を薄く塗った。
別の生徒は水滴を等間隔に置いた。
フィアは「卵は高い」と言って、小麦粉を水で溶いた薄い生地を使い始めた。
「それ、焼けたら食べられるね」
俺が言う。
「材料費の無駄がないでしょ」
さすがである。
そして授業の終わり。
アルノー先生が俺のところへ来た。
「今日の方法、生活魔術研究室へ報告する」
「卵を?」
「卵ではない」
少し怒られた。
「見えない差を、別の現象へ置き換えて観察するという考え方だ」
俺は一瞬、何を言われたのか分からなかった。
先生は続ける。
「高度な測定用魔道具がなければ測れないと思っていた。だが、変化そのものを見ればいい。単純だが、有用だ」
周囲にいた上級助手まで頷いている。
俺は少しむずむずした。
前世では理科の実験で似たようなことを散々やった。
酸性かどうかを色で見る。
温度で物質の状態が変わる。
直接見えないものを、別の変化から推測する。
俺は研究者でもない。
特別頭が良かったわけでもない。
ただ、日本では子供の頃から、そういう考え方に触れる機会があった。
それがこの世界では、学院の先生を黙らせるほど珍しい。
「……俺、結構すごいこと言った?」
思わず聞いた。
レオルが呆れた顔をした。
「今さら気づいたのか?」
フィアも頷く。
「悔しいけど、今日はすごかった」
「今日は?」
「今日は」
そこは強調しなくていい。
俺が少し得意になっていると、アルノー先生が焼けた卵を見た。
「ところで、これは食えるのか」
「塩あれば」
塩が来た。
先生が一口食べる。
しばらく無言。
それから、もう一口。
「……美味いな」
今度は俺が胸を張った。
「でしょう?」
魔術実習で卵を焼いただけなのに、なぜか新しい実験方法が一つ生まれた。
どうやら学都という場所では、俺が前世で当たり前だと思っていたものまで、ちゃんと使えば立派な知識になるらしい。
だったら。
まだまだ、持ち込めるものはありそうだった。




