第56話 魔法には、文法がある
入学して最初の一週間、俺は思っていた以上に苦戦していた。
実技では困らない。火を出せと言われれば出せるし、水を動かせと言われれば動かせる。問題は、その前後に先生が説明する言葉だった。
「魔力流路の形成後、属性変換点を安定させ、出力節へ接続する。この時、術式内で余剰魔力が循環しないよう注意すること」
分からない。
言っていることの半分くらいは、たぶん俺が普段やっていることだと思う。でも、名前がついた瞬間に急に知らないものになる。
俺は机の上の紙へ、必死に文字を書き写した。
隣ではレオルが迷いなく筆を走らせている。
「属性変換点って、どこ?」
小声で聞く。
レオルが一瞬だけ俺を見る。
「昨日も説明された」
「昨日分からなかったから今日聞いてる」
「威張るな」
呆れながらも、レオルは自分の紙へ簡単な図を書いてくれた。
魔力を流す。
性質を変える。
形を整える。
維持する。
図にされると少し分かりやすい。
「つまり、俺が火を出す時もこれやってる?」
「やってる。お前は全部無意識でやってるだけだ」
「便利じゃん」
「だから腹立つんだよ」
まだ言っている。
でも最近は、怒っているというより半分呆れている感じになってきた。
前の席に座るフィアが振り返った。
「レン、分からないならちゃんと覚えた方がいいよ」
「覚えてる途中」
「昨日、魔術式の記号と市場の香辛料の名前を同じ紙に書いてたけど」
「紙がもったいなかったから」
「見づらいでしょ」
その通りなので何も言えない。
やがて教壇に立っていた教師が杖で黒板を叩いた。
名前はアルノー先生。三十代くらいの男で、細身の体に灰色の長衣を着ている。話し方は淡々としているが、質問すると必ず答えてくれるので、俺は結構好きだった。
「では、今日は火属性について扱う」
黒板に大きな円が描かれる。
その中へ、いくつもの線と記号が追加されていく。
「火属性魔法とは、魔力を火性へ変換し、熱と光を発生させる術式の総称だ。初等科では火そのものの制御を中心に学ぶ」
俺はそこで少し引っかかった。
火と熱。
同じように扱っている。
先生は説明を続ける。
「火性魔力を強めれば温度は上がり、弱めれば下がる。これが基本だ」
手が上がった。
自分の手だった。
アルノー先生がこちらを見る。
「レン」
「火がなくても、熱くなることありますよね?」
教室が少し静かになった。
先生の眉がわずかに上がる。
「具体的には?」
「例えば鍋です。火に当たってるのは底だけなのに、中のスープは全部温まります」
何人かがこちらを見る。
俺は続けた。
「あと、鉄の棒の片方を火に入れると、火に触れてない方まで熱くなる。あれって、火が移動してるわけじゃないですよね?」
先生はすぐには答えなかった。
代わりに黒板へ向き直り、円の横へ一本の棒を描く。
片方に炎。
もう片方に手。
「確かに、火性魔力が棒の中を流れているわけではない」
「ですよね」
「だが熱は伝わる」
「うん」
自分でも、何をそんな当たり前のことを言っているんだろうと思う。
前世なら、小学校か中学校で習った話だ。
たしか熱伝導。
対流。
放射。
そのくらいの言葉は覚えている。
でも、細かい式なんて無理だ。
アルノー先生は黒板の棒をしばらく見た後、俺へ聞いた。
「君は、火と熱を別のものとして考えているのか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「前の……故郷では、そういうふうに習った気がします」
日本と言いかけて止めた。
まだここで軽々しく口にする必要はない。
「火は熱を作る一つの方法で、熱そのものは別というか。熱いものから冷たいものへ移る、みたいな」
今度こそ、教室が静まった。
レオルが俺を見ている。
フィアも。
アルノー先生は、ゆっくり黒板へ文字を書いた。
**熱の移動。**
「熱いものから、冷たいものへ?」
「基本は」
「逆には?」
「勝手には行かない……はずです」
そこから先は自信がない。
冷蔵庫は熱を冷たい場所から暖かい場所へ運んでいたはずだが、それには仕事だとか電気だとか、何かが必要だった。
俺は正直に言った。
「でも、無理やり移す方法はあります。前の世界には冷蔵庫っていう道具があって」
「冷蔵庫?」
フィアが食いついた。
「食材を冷やして保存する箱」
「冷却箱じゃなくて?」
「似てる。でも魔石を直接冷たくする感じじゃなくて……中の熱を外へ運んでた、と思う」
アルノー先生の目が変わった。
「思う、というのは?」
「仕組みを作れるほど詳しくは知らないです。料理する側だったから、使ってただけで」
先生は少し考え込んだ。
ここで「じゃあ再現しろ」と言われたら困る。
俺は冷蔵庫の中に何が入っているかなんて知らない。圧縮機とか冷媒とか、名前を聞いたことがある程度だ。
でも先生は、意外なことを言った。
「それで十分だ」
「え?」
「完成品の作り方を知らなくても、問いは残る」
先生は黒板の「熱の移動」という文字を杖で叩いた。
「我々はこれまで、火属性魔法を『火を生み出す術』として整理してきた。だが君の見方では、火は熱を扱う手段の一つにすぎない」
教室の空気が少し変わった。
さっきまでただ授業を聞いていた生徒たちが、黒板を見始める。
レオルが手を上げた。
「先生。もし熱そのものを移せるなら、火を出さずに物を温められるんですか?」
「可能性はある」
「逆に、冷やすことも?」
今度はフィア。
「理屈の上ではな」
俺は思わず口を挟んだ。
「それ、厨房でめちゃくちゃ便利です」
アルノー先生が俺を見る。
「君は本当に何でも料理へ持っていくな」
「だって便利ですよ。鍋の底だけ焦がさず中身を温められたら、煮込みとかソースとか――」
「授業を戻すぞ」
止められた。
でも先生の口元は、少し笑っていた。
授業の最後、アルノー先生は黒板を消さずに残した。
いつもなら授業が終われば全部消すのに、今日は「熱の移動」という四文字だけが残っている。
「次回までの課題を一つ追加する」
教室から悲鳴が上がった。
俺も嫌な顔をした。
「火を使わず、物体間で熱が移動していると分かる例を一つ探してこい」
今度は俺が原因だった。
周囲の視線が刺さる。
「レン」
レオルが低い声で呼ぶ。
「何?」
「宿題増やすな」
「俺だって増えると思ってなかった!」
フィアはもう何か考えているらしい。
「日向の石と日陰の石とか?」
「それ、太陽じゃない?」
「火ではないでしょ」
三人で話しながら教室を出る。
俺は最後に、黒板を振り返った。
魔法には文法がある。
今日の授業で、その意味が少し分かった気がする。
俺は今まで、言葉を知らないまま会話していたようなものだった。
火を弱くしたい。
水を動かしたい。
冷やしたい。
そう思って、感覚だけで魔力を使っていた。
でも文法を覚えれば、もっと複雑なことができるかもしれない。
そして逆に。
俺が前世で当たり前だと思っていたことも、この世界の魔法という文法で書き直せば、今まで誰も作らなかったものになるかもしれない。
そう考えると、難しい授業が少しだけ楽しみになった。
ただし。
宿題が増えるのは、やっぱり嬉しくなかった。




