第53話 学都アウルムは、鍋まで多い
村を出て三日目の昼過ぎ、街道の向こうに壁が見えた。
最初は山の影かと思った。
でも近づくにつれて、それが人工物だと分かる。
灰色の石を何段にも積み上げた巨大な外壁。その向こうには、さらに高い塔が何本も突き出している。塔の先端には細い金属棒が伸び、その周囲を淡い光がゆっくり回っていた。
「あれがアウルムです」
御者台からハーゲンが言った。
俺は荷車の端へ身を乗り出した。
「……でか」
ベルクを初めて見た時も大きいと思った。
でも、比べものにならない。
街道そのものからして違う。
村を出た頃は馬車一台が通れば十分だった道が、アウルムへ近づくにつれて二台、三台と並べるほど広くなっていた。左右から別の道も合流し、荷馬車、騎馬、徒歩の旅人がどんどん増えていく。
積み荷も様々だった。
木材。
鉄。
樽。
布。
生きた家畜。
見たことのない果物。
大きな籠に詰められた、青い羽根の鳥までいる。
「大学みたいな町っていうより……町そのものが学校にくっついてる感じだな」
「何です?」
「独り言」
前世でも、こんな場所には行ったことがない。
修学旅行で大きな都市へ行ったことはある。でも、今目の前にあるのは、それとも違う。
電車もない。
自動車もない。
それなのに、人の流れだけで町が動いているのが分かる。
門へ近づくと、さらに驚いた。
並んでいる人の服が、ベルクより明らかに多彩だった。
毛皮を肩へ掛けた大柄な男。
薄い布を何枚も重ねた女。
黒い外套を着た魔術師らしい一団。
胸元に学院の紋章を付けた子供たち。
俺と同じくらいの年齢もいれば、十代後半くらいの学生もいる。
「学院って、子供だけじゃないの?」
「初等科から高等科まであります。それに研究員や各地から来る聴講生もいますからね」
なるほど。
俺は八歳で入るけれど、ここには何年も通うことになる。
その事実が、急に現実味を持った。
門をくぐった瞬間、音が変わった。
外では馬車の車輪と人の声が中心だった。
中では、それに金属音、鐘の音、水の流れる音、店の呼び込み、遠くで何かが破裂するような音まで混ざる。
「今の何!?」
「たぶん魔術工房です」
「たぶんで済ませていい音だった?」
ハーゲンは平然としている。
町の中心へ進むにつれて、建物は高くなった。
二階建て。
三階建て。
中には四階ありそうな石造りの建物まである。
窓には透明な硝子が多く使われ、軒先には魔石を仕込んだ灯りが吊られている。昼間だからまだ光っていないが、夜になれば通り全体が明るくなるらしい。
さらに交差点の中央には、水が高いところから絶えず流れ続ける石柱があった。
「噴水?」
近づいて見ると、ただの飾りではない。
人々が桶へ水を汲んでいる。
上の貯水槽へ魔法で水を持ち上げ、そこから重力で各所へ流しているらしい。
「水道みたいなものか……」
完全な水道ではない。
でも発想は近い。
ベルクより明らかに生活設備が進んでいる。
この町なら、冷却箱の研究だってもっと先へ進められるかもしれない。
そんなことを考えていた時だった。
鼻に、強烈な匂いが入ってきた。
焼いた脂。
香辛料。
魚。
甘いもの。
酸っぱいもの。
一度に全部来る。
俺は反射的に顔を向けた。
「ハーゲン」
「学院は反対方向です」
「まだ何も言ってないよ」
「市場へ行きたいのでしょう」
ばれている。
でも、視線はもう市場から離れなかった。
通り一本を丸ごと使って、店が延々と続いている。
屋根付きの店。
露店。
荷車そのものを店にしている商人。
ベルクの市場でもかなり興奮したけれど、ここは規模が違う。
俺は許可をもらう前に走り出しそうになったが、途中で止まった。
最近の俺は少し学んでいる。
「……見てもいい?」
ハーゲンは笑った。
「一刻だけですよ」
十分だ。
いや、たぶん足りない。
最初に目へ入ったのは魚だった。
川魚だけではない。
銀色の細長い魚。
平たい魚。
赤い身の干物。
塩漬けにされた大きな魚の切り身。
「これ海の魚?」
店主が頷く。
「北の港から来た塩魚だ」
海魚。
久しぶりに聞く言葉だけで胸が躍る。
生ではない。
でも、塩抜きして煮てもいい。
焼いてもいい。
干物なら出汁にも使えるかもしれない。
次の店には油が並んでいた。
獣脂。
木の実油。
種から搾ったという薄い黄色の油。
「これ、揚げ物できるくらいある……」
村では油は貴重だった。
ここでは瓶単位で売られている。
高いけど。
値札を見て、俺は一度手を引っ込めた。
「たっか!」
「アウルムでは珍しいものほど高いですよ」
後ろからハーゲンの声。
財布を持っているのは俺だ。
正確には、学院生活用に家族と領主から用意された金がある。
でも、入学前に全部食材へ変えるわけにはいかない。
危ないところだった。
さらに進む。
香辛料の店。
乾燥した赤い実。
黒い粒。
黄色い粉。
甘い匂いのする樹皮。
知らないものばかり。
「これ辛い?」
店主が笑う。
「舐めてみるか?」
少量をもらう。
舌へ乗せる。
次の瞬間、鼻まで熱くなった。
「辛っ!」
でも嫌じゃない。
唐辛子とは違う。
胡椒に少し近い。
肉に合いそうだ。
「これ何ていうの?」
名前を聞いて、すぐ頭へ叩き込む。
忘れたら困る。
紙へ書こうとして、文字に少し迷った。
学園へ来てよかったかもしれない。
少なくとも字はもっと勉強しないと、食材名すら記録できない。
その隣には乳製品。
硬いチーズ。
柔らかいチーズ。
酸味のある発酵乳。
白い塊を布で包んだもの。
さらに穀物。
東穀とは別の丸い粒。
細長い粒。
粉にする穀物。
豆。
乾燥させた芋。
どれも料理にできる。
どれも食べてみたい。
俺の頭の中で、勝手に献立が増えていく。
焼く。
煮る。
揚げる。
潰す。
発酵させる。
混ぜる。
「レン君」
返事をしない。
「レン君」
「これ見て! このチーズ、加熱したら溶けるかな?」
「時間です」
現実へ引き戻された。
「まだ半分も見てない!」
「一刻と言いました」
「市場が広すぎるんだよ!」
「市場に文句を言われても困ります」
渋々、学院へ向かう。
市場を離れても、俺は何度も振り返った。
絶対また来る。
今度は紙と金をちゃんと用意して。
学院は町の北側、高台にあった。
近づくにつれて学生が増える。
制服の形は完全に統一されているわけではないらしく、年齢や所属によって飾りが違う。
初等科らしい子供たちは短い外套。
上級生は長い外套。
研究員らしき大人は胸元に金属製の徽章を付けている。
そして坂を上り切ったところで、俺は足を止めた。
大きい。
遠くから見た時より、目の前に立つとさらに大きい。
中央には石造りの本館。
左右に何棟もの校舎。
奥には細い塔。
さらに煙を上げている建物があり、そこが魔術実験棟らしい。
庭を学生が行き交い、空中には紙の束を抱えた小さな魔法具まで浮いている。
「ここで……勉強するのか」
急に少しだけ緊張した。
市場ではあれだけ興奮していたのに、学院を前にすると、自分が本当に学生になるのだと分かる。
知らない人。
知らない授業。
知らない魔法。
俺より頭のいい子もいるだろう。
俺より魔法を知っている子もいる。
料理に興味のない人だって当然いる。
でも。
さっき見た市場を思い出す。
あれだけ知らない食材がある。
町には知らない技術がある。
学院には、さらに知らない知識がある。
怖さより、やっぱり楽しみの方が勝った。
「ハーゲン」
「はい」
「学院って、厨房ある?」
彼はしばらく黙った。
「そこからですか?」
「大事でしょ」
八歳になって初めて来た学都アウルム。
魔術。
歴史。
大図書館。
新しい仲間。
考えることは山ほどある。
でもまず。
この町は、鍋の種類からして多すぎる。
しばらく退屈することだけは、なさそうだった。




