第52話 行ってきますを、もう一度
八歳になった朝、俺は母さんに頭を撫でられながら、妙な気分になっていた。
「レン、八歳のお誕生日おめでとう」
「ありがとう」
食卓には、いつもより少しだけ豪華な朝飯が並んでいる。母さんが焼いた薄いパンに、父さんが昨日仕留めてきた肉。俺が仕込んでおいた野菜のスープ。それから、リナが「兄ちゃんのため!」と言い張って摘んできた、形の悪い黄色い花が小さな瓶に挿してあった。
「兄ちゃん、はっさい?」
隣の椅子から、リナが指を八本立てようとして失敗している。
「そう。八歳」
「リナは?」
「三歳」
「リナもはっさいになる?」
「そのうちな」
「明日?」
「五年くらい待って」
リナは難しい顔をした。五年という時間がよく分からないらしい。
俺は笑いながらスープを口へ運ぶ。
八歳。
この世界に生まれて、八年。
言葉にすると短い。でも、思い返せば色々ありすぎた。
生まれた時は、何が起きたのか分からなかった。前世の記憶を持ったまま赤ん坊になって、最初は「異世界転生って本当にあるんだ」くらいに思っていた。
それからリナが生まれた。
料理を作った。
魔法を覚えた。
村を出た。
ベルクへ行った。
米を育てた。
日本が、この世界のどこにもないと知った。
七歳の一年だけで、前世の高校一年分よりずっと濃かった気がする。
「ぼーっとしてるぞ」
父さんに言われて顔を上げる。
「考え事」
「学院のことか?」
俺は頷いた。
数日前、正式な返事を出した。
アウルム学院へ行く。
推薦を受ける。
そのことを決めてから、楽しみと不安が交互に来るようになった。
新しい魔法を学びたい。
大図書館を見たい。
市場も気になる。
知らない料理もあるはずだ。
でも、その全部を考えた後で、必ずこの家が頭に浮かぶ。
「本当に行くのね」
母さんが静かに言った。
声に責める感じはない。
だから余計に胸が痛む。
「うん」
「七歳でベルクへ行った時とは違うわ。今度は遠いのよ」
「分かってる」
「毎日帰ってこられない」
「うん」
「病気になっても、すぐには会えない」
「……うん」
前世の俺なら、ここで「中身は高校生だったし大丈夫」と考えたかもしれない。
でも、今はそう思わない。
母さんにとって俺は、前世で十七歳だった誰かじゃない。
八年前、腕の中で泣いていた息子だ。
父さんにとってもそうだ。
俺がどれだけ前世の知識を持っていても、この二人が八年間育ててくれた事実は変わらない。
だから「心配しなくても大丈夫」なんて簡単には言えなかった。
「心配かけると思う」
俺が言うと、母さんは少し驚いた顔をした。
「でも、ちゃんと帰ってくる」
それを聞いて、父さんが鼻を鳴らした。
「当たり前だ」
ぶっきらぼうな言い方だった。
でも、その日の午後、父さんは俺の包丁の鞘を黙って直してくれた。
留め具を新しくし、旅の途中でも外れにくいよう紐を付けている。俺が横から覗き込むと、父さんは手を止めずに言った。
「学院ってところで何を習うか知らんが、包丁の手入れくらいは忘れるなよ」
「料理の学校じゃないよ」
「お前の場合、どこへ行っても料理するだろ」
否定できなかった。
出発前日、サヨが家を訪ねてきた。
手には数枚の紙を持っている。
「これを、持っていってください」
紙には、見覚えのある印がいくつも描かれていた。
三本足の鳥。
勾玉。
サヨの村に残っていた古い模様。
そして、彼女自身にも意味の分からないいくつかの文字。
「全部、村に残っていたものです。大図書館なら、何か分かるかもしれません」
「サヨは来ないの?」
聞くと、彼女は小さく首を振った。
「私は、ここに残ります」
その視線の先には村の畑がある。
その一角には、次の季節へ向けて守られている種籾がある。
「次の稲を育てなければなりませんから」
そう言って、サヨは少し笑った。
以前なら、彼女は残ることを「守るために閉じこもること」だと考えていた。
今は違う。
育てるために残る。
俺が外へ行くのと同じように、サヨも自分で次の場所を選んだ。
「じゃあ、俺は調べてくる」
「お願いします」
「分からなかったら?」
「また一緒に考えましょう」
その言葉に俺も笑った。
それでいい。
全部一人で答えを見つけなくていい。
出発の朝。
村はまだ薄暗かった。
空の端だけが白くなり始め、冷たい風が畑の間を抜けている。遠くで馬が鼻を鳴らし、街道にはアウルム方面へ向かう商隊の荷車が並んでいた。
荷物はそれほど多くない。
服。
本。
サヨから預かった紙。
父さんが直した包丁。
母さんが持たせてくれた保存食。
そしてリナが勝手に入れた、小さな木の匙。
「これ何?」
「兄ちゃんの」
「なんで?」
「ごはんたべるから」
理由としては完璧だった。
その匙も荷物へ入れた。
村の入口まで家族が見送りに来る。
ヨルン。
サヨ。
エルナ。
バルク。
何人かの村人もいる。
思っていたより多い。
七歳で初めて村を出た時も、同じ道を通った。
あの時は外の世界が見たくて仕方がなかった。
今も同じだ。
でも、胸の中にあるものは少し違う。
ふと、前世の最後の朝を思い出した。
学校へ行く前だったか。
買い物へ出る前だったか。
そこだけが曖昧だ。
俺の最後のはっきりした記憶は、妹のために鶏むね肉を料理していたこと。
次の日が来ると思っていた。
来週もあると思っていた。
家族に「また後で」と言えると思っていた。
俺には、死んだ記憶がない。
だから、前の家族へ最後の別れも言っていない。
さよならも。
ありがとうも。
たぶん――行ってきますさえ。
胸の奥が少しだけ重くなった。
でも今は、目の前に家族がいる。
父さん。
母さん。
リナ。
この人たちには、ちゃんと言える。
俺は荷物を背負い直した。
「父さん、母さん」
二人を見る。
それからリナを見る。
「リナ」
「なに?」
「行ってきます」
母さんが少しだけ目を細めた。
「行ってらっしゃい」
父さんも頷く。
「しっかりな」
そしてリナは、俺の言葉を理解するまで少し時間がかかった。
それから両手を大きく振った。
「兄ちゃん、いってらっしゃい!」
大きすぎる声に、近くの馬が驚いた。
みんなが笑う。
俺も笑った。
胸の奥にあった重いものが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
「おいしいの、いっぱいおぼえてきてね!」
「任せろ!」
それなら自信がある。
いや。
知らないものを覚えに行くのだから、自信があると言うのも変か。
でもきっと、何か見つける。
料理も。
魔法も。
日本につながるものも。
俺は商隊へ向かって歩き出した。
数歩進んで、振り返る。
家族がまだそこにいる。
だから今度は、前を向いた。
これは別れじゃない。
帰ってくるための旅立ちだ。
八歳になった俺は、学都アウルムへ向かう。
俺の知らないことが、きっと山ほどある場所へ。




