第50話 七歳児、学校へ行けと言われました
料理人ギルドで「誰が作っても危険になりにくい仕組み」を考え始めてから、俺は妙に文字を書く機会が増えた。
塩漬けの日数。肉の厚さ。乾燥の状態。火を通した時間。冷却箱なら魔石の消耗量と、箱を開けた回数まで記録する。
最初は面倒だった。
料理は舌と鼻と手で覚えるものだと思っていたし、前世でもレシピを見ながら作るより、冷蔵庫にあるものを見て適当に組み立てる方が多かった。
でも、俺一人だけが作るならそれでいい。
他の誰かに同じものを作ってもらうなら、「いい感じに塩を振る」では伝わらない。
「……この字、何て読むんだっけ」
問題はそこだった。
ギルドの机に置かれた記録用紙を前に、俺は筆を止める。
この世界に生まれて七年。日常生活で使う文字ならかなり読めるようになった。簡単な計算もできる。
ただし、それは七歳児としては十分というだけだ。
専門用語が混ざった瞬間、急に怪しくなる。
隣にいたカイルが紙を覗き込んだ。
「それ、『保存状態』」
「知ってたし」
「今聞いただろ」
「確認しただけ」
「負け惜しみ下手だな」
腹が立つ。
カイルだって難しい文字になると止まるくせに。
そんな俺たちのやり取りを、部屋の隅でゼクトが見ていた。
今日は冷却箱の改良についてローデンと話すためにベルクへ来ている。机の上には新しい魔術式の図面まで広げられていた。
俺はそちらへ逃げるように移動した。
「それより、冷却板の位置変えたやつどうだった?」
「前よりましだ」
「魔石の消費は?」
「七分ほど減った」
「それだけ?」
「お前は魔術を何だと思っている」
冷たい。
でも七分でも改善は改善だ。
俺は図面を見る。
中央には冷却用の術式。
そこから箱の上部へ魔力が流れるように線が引かれている。
「ここ、もう少し細くできない?」
指を差すと、ゼクトが俺の手を払った。
「何を根拠に言っている」
「魔力が多く流れすぎてるように見えるから」
「見える?」
「前に触った時、上だけ冷えすぎてたし」
ゼクトが黙る。
俺は続けた。
「だから、一気に冷やすんじゃなくて、少しずつ冷やし続ける方がいいんじゃないかなって」
前世の冷蔵庫だって、たぶんずっと全力で凍らせているわけではない。
そこまでは分かる。
でも、その先は知らない。
「温度を測る道具があればいいんだけど」
「温度?」
「熱さとか冷たさを数字で比べる道具」
ゼクトの片眉が上がった。
「そんなものがあるのか」
「前の世界には」
「作り方は?」
「知らない」
即答した。
最近、これが言えるようになった。
以前なら、記憶の断片をつなぎ合わせて無理に何か言おうとしたかもしれない。
ゼクトはしばらく俺を見た後、図面へ視線を戻した。
「なら今は、一定量の魔力を流した時の変化を記録する」
「うん」
「箱の中の場所ごとにな」
「うん」
「それから外気との――」
途中でゼクトが止まった。
俺も止まった。
「外気との?」
「……差を測りたい」
「だから温度を――」
「分かっている」
ちょっと悔しそうだ。
そこでローデンが笑った。
「お前ら、結局同じところ回ってんな」
「うるさい」
ゼクトが睨む。
その時だった。
部屋の扉が開き、一人の男が入ってきた。
見覚えがある。
領主の屋敷で一度だけ見たことがあった。細身で、髪をきっちり後ろへ撫でつけた男だ。
確か、領主の事務を担当している人だったはず。
「レン殿はこちらに?」
七歳児へ「殿」をつけるのはやめてほしい。
「俺です」
男は俺を見る。
それから机いっぱいに広がった紙を見る。
保存肉の記録。
冷却箱の図面。
俺が途中まで書いて諦めた文字。
「なるほど」
何がなるほどなのか分からない。
男は自分をセイルと名乗った。
領主オルバンの補佐役で、町の税や商取引、魔術師の登録なども担当しているらしい。
難しそうな仕事だ。
「本日は、領主様からのお話をお持ちしました」
嫌な予感がした。
最近、偉い人から話が来ると何かしら面倒事が増える。
「俺、また何かした?」
「何もしていないから来たのです」
もっと分からない。
セイルは一枚の紙を机へ置いた。
そこには大きな建物の絵と、長い文章が書かれていた。
読める文字だけ拾う。
王都ではない。
ベルクでもない。
少し離れた大きな都市の名前。
そして――。
「……学院?」
「はい」
嫌な予感の正体が見えた。
「学校?」
「そうです」
俺はセイルを見る。
ゼクトを見る。
ローデンを見る。
カイルを見る。
誰も笑っていない。
「なんで?」
本気で分からなかった。
俺は料理人になりたい。
学校へ行く必要があるのか?
セイルは冷却箱の図面を指した。
「これはあなたの発想だと聞きました」
「ゼクトが作ってる」
「発端はあなたでしょう」
次に保存肉の記録。
「こちらの基準作りにも関わっている」
「ローデンとハーゲンがほとんどやってる」
「それでも、あなたが関わっている」
逃げ道を一つずつ潰されている気がする。
セイルは静かに続けた。
「あなたは料理だけをしているつもりかもしれません。しかし、実際には違う」
魔術。
保存。
流通。
商売。
農業。
衛生。
ギルド。
そして最近は、名前の扱いまで。
言われてみれば、確かに包丁を握っている時間より、誰かと話している時間の方が増えている気がする。
「だから学校?」
「だからです」
俺は腕を組んだ。
「でも、料理ならディルクとかローデンに習えるよ」
「料理だけなら」
今度はゼクトが口を挟んだ。
「お前は魔術の基礎が抜けすぎている」
「使えてるじゃん」
「使えているから危険なんだ」
言葉に詰まる。
ゼクトは俺をまっすぐ見た。
「お前は感覚で魔力を細かく制御できる。火も水も、同年代どころか成人の術師より上手い部分がある」
ちょっと嬉しい。
「だが、それだけだ」
すぐ落とされた。
「術式がなぜ安定するか。魔石がなぜ消耗するか。複数属性を組み合わせた時に何が起きるか。知らないまま触っている」
以前、稲の芽を冷やしすぎた時のことを思い出した。
助けるつもりだった。
でも、俺は二つの芽を駄目にした。
「力がある奴ほど、知らないことを知らないまま使うと危ない」
ゼクトの声には、いつもの皮肉がなかった。
それだけに重かった。
ローデンまで続ける。
「あと計算」
「それは関係ないだろ」
「百人分仕込む時、七人分の感覚でやる気か?」
「……」
「字もだ」
カイルがニヤニヤしている。
「『保存状態』読めなかったもんな」
「お前は黙れ」
でも反論できない。
セイルは紙の下の方を指した。
「学院では魔術だけでなく、算術、歴史、地理、商取引の基礎も学べます」
歴史。
その言葉だけは、少し引っかかった。
この世界の歴史。
ミズガルド。
世界樹。
消された日本。
俺は日本のことを知りたいと思っている。
でも、その前に、この世界のことをどれくらい知っている?
答えは、たぶん恥ずかしいほど少ない。
「東へ行きたいのでしょう?」
ハーゲンの声がした。
いつの間にか部屋へ入っていた。
「サヨさんの故郷。ヒムカ。そして、日本の痕跡を追うために」
俺は頷く。
「なら、なおさらです」
ハーゲンは俺の前に置かれた学院の紙を見る。
「あなたが今扱っているのは、もう料理だけではありません」
前にも似たことを言われた。
その時は、何となく分かったつもりになっていた。
今は少しだけ意味が違って聞こえる。
俺が一皿作るだけなら、料理だけ知っていればいい。
でも、食材を残すなら農業がいる。
運ぶなら保存と商売がいる。
安全に広げるなら仕組みがいる。
世界の向こう側へ行くなら地理も歴史も必要になる。
そして、神様のことを知りたいなら――たぶん、もっと。
「……学校かあ」
思わず天井を見る。
前世でも高校生だった。
まさか異世界に来て、また学校へ行くことになるとは思わなかった。
「嫌なのか?」
カイルが聞く。
「勉強好き?」
「嫌い」
「じゃあ分かるだろ」
「でも料理の勉強は好き」
「ずるいな、それ」
好きなことだけなら、いくらでも覚えられる。
問題は、その好きなことを続けるために必要なものまで覚えられるかだ。
俺は学院の紙をもう一度見る。
知らない町。
知らない人。
知らない魔法。
きっと、知らない料理もある。
少しだけ胸が高鳴った。
同時に、村の家が頭に浮かぶ。
父さん。
母さん。
リナ。
サヨ。
ヨルン。
今度はベルクへ数日出るのとは違う。
学校へ通うなら、もっと長く村を離れることになるだろう。
「すぐ決めなくていいよね」
セイルが頷いた。
「もちろんです。正式な推薦の話は、領主様から改めてご家族にも説明されます」
少し安心した。
最近の俺は、すぐ十歩先まで考えて勝手に苦しくなる。
だから今日は、まだ決めない。
ただ一つだけ。
学校へ行く意味は、もう分かっていた。
料理をするために学校へ行くなんて、昨日までの俺なら笑ったかもしれない。
でも今は違う。
美味しいものをもっと遠くへ届けたい。
失われた日本を探したい。
自分の魔法で、もう誰かの大事なものを傷つけたくない。
そのために知らなければならないことがあるなら、覚えるしかない。
俺は紙を畳みながら、ため息をついた。
「異世界まで来て、また勉強か……」
カイルが笑う。
「七歳なんだから、むしろこれからだろ」
それはそうなんだけど。
前世の高校の宿題を思い出して、少しだけ頭が痛くなった。




