第47話 貴族の料理人は、俺よりうまい
ベルクで保存肉の騒ぎがあった三日後、俺のところへ一通の招待状が届いた。
差出人は、ベルクとその周辺を治める領主家だった。
「……俺、何かやった?」
封筒を持ったままハーゲンを見ると、彼は少し考えてから答えた。
「心当たりが多すぎて、どれのことか分かりませんね」
「怖いこと言わないでよ」
保存肉の件か。冷却箱か。米か。それとも市場で七歳児が料理勝負をしていたことか。最近、自分でも何がどこまで噂になっているのか分からなくなっている。
ただ、招待状の内容は思ったより穏やかだった。
領主家の料理長が、俺の作る料理に興味を持っているらしい。
特に「安い肉を柔らかくする方法」と「骨から味を取る料理」について話を聞きたい、と書かれていた。
「料理長が?」
「あなたの噂は、もう料理人の間ではかなり広がっていますからね」
「俺、まだ七歳なんだけど」
「それも含めて噂になるのでしょう」
嬉しいような、嫌なような。
それでも料理人から会いたいと言われて、断る理由はなかった。
領主の屋敷を訪れたのは翌日の昼前だった。
門をくぐった瞬間、まず庭の広さに驚いた。村の家なら何軒建つんだと思うほどの土地に、石造りの屋敷が建っている。窓には透明度の高い硝子が使われ、入口には磨かれた金属の飾りまでついていた。
けれど、俺が本当に驚いたのは厨房へ入ってからだった。
「……広っ」
思わず声が漏れる。
かまどが六つ。
大鍋。
大小さまざまな鉄鍋。
用途の違う包丁が壁に並び、乾燥させた香草が束になって吊るされている。氷こそないが、地下の冷暗室へ食材を運ぶための扉まであった。
そして何より、働いている人間が多い。
十人以上。
野菜を切る者。
肉を捌く者。
鍋を見る者。
皿を運ぶ者。
誰も大声を出していないのに、全員が迷わず動いている。
「止まるな。そこを通るぞ」
後ろから声をかけられ、俺は慌てて脇へ避けた。
振り返ると、大きな盆を持った若い料理人が通り過ぎていく。
邪魔になっていたらしい。
「すみません」
村では俺が厨房の中心にいることが多かった。
ベルクの料理人ギルドでも、子供だから多少周りが気を使ってくれていたのだと思う。
ここでは違う。
俺がいようがいまいが、厨房は動く。
それだけで少し緊張した。
「君がレンか」
声をかけてきたのは、四十歳くらいの男だった。
背は高くない。体格もローデンほど大きくない。黒髪には少し白いものが混じり、服も他の料理人とほとんど同じだった。
ただ、一目で分かった。
この人が、この厨房の中心だ。
誰かが皿を運ぶ時も。
鍋の火を変える時も。
一瞬だけ、この男を見る。
「料理長のディルクだ」
「レンです」
「知っている。市場でカイルを怒らせ、保存肉屋を困らせ、魔術師と冷える箱を作っている七歳児だろう」
「言い方が悪くない?」
ディルクの口元が少しだけ動いた。
笑ったらしい。
「今日は料理を作らなくていい」
「え?」
てっきり、何か作れと言われると思っていた。
「まず見ろ」
それだけ言うと、ディルクは作業台へ戻った。
俺も横から見る。
そこには大きな鳥が一羽置かれていた。
以前ローデンに習ったものと似ている。
ディルクは脚の付け根へ指を入れ、関節を確かめる。
そこまでは同じだった。
でも、次が違った。
速い。
包丁がほとんど止まらない。
脚。
胸。
手羽。
骨。
次々に分かれていく。
それなのに、切り口が綺麗だった。
肉が骨にほとんど残っていない。
俺が一羽捌く間に、たぶん三羽はいける。
「……すご」
思わず呟いた。
ディルクは手を止めない。
「ローデンに教わったそうだな」
「うん」
「なら、やってみろ」
別の鳥が置かれた。
俺も包丁を持つ。
関節を探す。
ローデンに教わった通り。
以前よりは上手くなった。
脚を外す。
胸肉を取る。
少し失敗したが、ちゃんと形にはなった。
顔を上げる。
ディルクは俺の鳥ではなく、俺の手を見ていた。
「悪くない」
褒められた。
少し嬉しい。
「ただし遅い」
やっぱり。
「料理は一皿なら丁寧に作ればいい。宴では百皿出す。百人を待たせず、同じ状態でな」
そう言いながら、ディルクは鍋へ向かった。
横では三人の料理人が同時に別の作業をしている。
一人が肉を焼く。
一人が野菜を茹でる。
一人がソースを煮詰める。
ディルクは、それぞれの鍋を一度ずつ見ただけで指示を出した。
「肉はあと半刻弱。そっちは火を落とせ。ソースは一度漉せ」
味見しないのかと思った。
でも料理人たちは迷わず動く。
しばらくして、俺にも小さな皿が渡された。
薄く切った鳥肉。
色の濃いソース。
細く切られた根菜。
見た目からして、俺の料理とは違う。
盛り付けが綺麗だ。
何となく置いたものが一つもない。
食べる。
最初に皮の香ばしさが来た。
次に肉汁。
ソースは少し酸っぱく、その後から甘味が出る。
さらに根菜を一緒に食べると、今度は食感が変わる。
「……うまい」
悔しいくらい美味い。
肉の焼き加減も完璧だった。
中心まで火は入っているのに、ぱさついていない。
俺なら温度をどうするか考えながら、一枚ずつ慎重に焼く。
ディルクは十枚近くを同時に仕上げていた。
「どうだ」
「俺よりうまい」
素直に言った。
横にいた若い料理人が、少し驚いた顔をする。
ディルクも眉を上げた。
「随分あっさり認めるな」
「だって美味しいから」
勝負なら悔しかったと思う。
でも今日は勝負じゃない。
美味いものを食べた。
なら、美味いと言うしかない。
俺はもう一口食べた。
やっぱり美味い。
そして、少し嬉しかった。
この世界の料理は遅れている。
いつの間にか、どこかでそう思っていたのかもしれない。
村で食べた料理は単純だった。
街道の飯も美味しくなかった。
俺の料理を食べれば、みんな驚いた。
その経験が積み重なって、俺は知らないうちに「自分の方が料理を知っている」と思い始めていた。
でも違う。
ここには、俺よりずっと上手い料理人がいる。
前世の知識なんてなくても、何年も包丁を握り、火を見て、人に食べさせ続けてきた人間がいる。
「レン」
ディルクが言った。
「今度は君が作れ」
「何を?」
作業台に置かれたのは、さっき鳥を捌いた後に残ったものだった。
骨。
首。
皮。
細かな肉。
どれも、宴席の主役にはならなそうな部分ばかりだ。
「これで一品」
なるほど。
俺の噂を確認したいらしい。
「好きに使っていい?」
「厨房にあるものなら。ただし高価な香辛料は使うな」
それならむしろ助かる。
俺は骨を見る。
捨てない。
まず軽く焼く。
鍋へ入れる。
水。
香草。
首や肉の切れ端も加える。
弱い火で煮出す。
「それだけか?」
若い料理人が少し残念そうに聞く。
「まだ」
しばらく煮る。
表面に浮いてきたものを取る。
味を見る。
鳥の旨味。
悪くない。
でも、これだけでは普通のスープだ。
俺は厨房の端に積まれていた、形の悪い根菜を見つけた。
「これ使っていい?」
「捨てる予定だ」
「じゃあ使う」
皮を剥く。
傷んだところだけ落とす。
細かく切って鍋へ。
さらに昨日余ったという硬いパンを少しもらい、薄く焼いてから砕く。
スープへ入れる。
とろみが出る。
最後に塩。
それだけ。
高級な料理じゃない。
前世なら、冷蔵庫の残り物で作るような食事だ。
一杯をディルクへ渡す。
「どうぞ」
ディルクが食べる。
一口。
二口。
何も言わない。
少し緊張する。
「……面白い」
やっと口を開いた。
「美味しくない?」
「いや、美味い」
それなら最初に言ってほしい。
「だが、それ以上に面白い。宴で残ったものだけで、翌朝の使用人全員へ出せる」
俺は目を瞬いた。
そこを見るのか。
「骨を捨てず、形の悪い野菜も使い、硬くなったパンまで食べさせる。君は皿ではなく、厨房全体の残りを見ている」
言われて、少し考えた。
確かに俺はそういう料理が多い。
前世で金がなかったからだ。
安い肉。
野菜の端。
昨日の残り。
それをどうすれば妹が喜んで食べるか、いつも考えていた。
高級食材の扱いなら、ディルクには勝てない。
大人数へ同じ料理を同時に出す技術もない。
盛り付けも。
包丁の速さも。
たぶん全部負けている。
でも。
俺にしかないものもある。
「誰に習った?」
ディルクが聞く。
「ほとんど自分で」
「なぜこんな料理を覚えた」
答えは簡単だった。
「金がなかったから」
厨房が静かになる。
「前にいた家、あんまり裕福じゃなかったんだ。でも妹には美味しいもの食べさせたかったから、安いものをどうしたら美味くできるか考えてた」
ディルクはしばらく俺を見る。
「なるほど」
それだけ言って、もう一口スープを食べた。
その日の帰り際。
ディルクが俺を厨房の出口で呼び止めた。
「レン」
「何?」
「次に来る時は、料理を一つ教えろ」
「俺が?」
「骨の使い方をもっと知りたい」
俺は少し嬉しくなった。
「じゃあ俺にも教えて」
「何をだ」
「今日の鳥の焼き方。あとソース。それと盛り付けも」
「欲張りだな」
「料理人だから」
最近、この言い訳が便利になってきた。
ディルクは笑った。
「いいだろう」
屋敷を出る。
帰り道、俺はずっと厨房のことを考えていた。
負けたとは少し違う。
そもそも勝負ではなかった。
でも、自分より上手い人間を見つけた。
それが、こんなに嬉しいとは思わなかった。
俺は日本の料理を知っている。
現代の知識も少しだけ持っている。
それは確かに強みだ。
でも、それだけで料理人として誰より上になるわけじゃない。
この世界には、この世界で積み重ねてきた技術がある。
俺が知らない味も、知らない手順も、知らない考え方も山ほどある。
なら、覚えればいい。
そして俺の知っているものも渡す。
そうやって混ざった先に、今までどちらの世界にもなかった料理ができるかもしれない。
そう考えると、ベルクへ来たばかりの頃より、この世界の食卓がずっと広く見えた。




