第45話 ノア、働く
冷却箱の試験から数日後、俺はハーゲンと一緒に再びベルクを訪れていた。
目的はいくつかある。冷却箱で運んだ魚の状態をローデンに見てもらうこと。ベルク側でどれくらい需要がありそうか、ハーゲンが商人仲間から話を聞くこと。そしてもう一つ、俺が個人的に気になっていることがあった。
「ノア、ちゃんと働いてるかな」
俺が呟くと、ハーゲンが横目で見る。
「心配ですか?」
「ちょっと」
出会った時、ノアは俺の東穀を盗んだ。理由は、自分と妹のミナが食べるためだった。
あの日、俺は飯を作れば何とかなると思った。
でも、たった一食では明日を変えられない。
そこでハーゲンやローデンに頼み、料理人ギルドでできる仕事を探してもらった。九歳のノアに包丁を持たせるわけにはいかない。それでも皿洗い、床掃除、食材運び、薪運びくらいならできるという話になっていた。
ただ、仕事を紹介した後はベルクを離れてしまった。
本当に続いているのか。
嫌になって逃げていないか。
逆に、無理をさせられていないか。
そんなことを考えているうちに、料理人ギルドへ着いた。
扉を開ける。
「邪魔す――」
最後まで言えなかった。
目の前を、大きな籠が横切ったからだ。
「どけ!」
聞き覚えのある声。
籠を抱えていたのはノアだった。
中には大量の根菜が入っている。以前会った時より服は少し綺麗になっていたが、身体は相変わらず細い。それでも顔色は前よりずっと良かった。
「ノア」
呼ぶ。
ノアがこちらを見る。
一瞬だけ目を丸くした。
「……なんだ。七歳か」
「名前で呼べよ!」
再会の第一声がそれか。
「仕事中なんだよ。邪魔すんな」
「ちゃんと働いてるじゃん」
「当たり前だろ」
少し嬉しくなった。
でも、ノアは俺と話している場合ではないらしい。籠を厨房へ運ぶと、すぐ別の仕事を言いつけられた。
皿を回収する。
水桶を替える。
薪を厨房へ運ぶ。
動きに無駄がない。
最初から上手かったわけではないのだろう。何度も叱られて覚えたことが、見ているだけで分かった。
「皿はそこじゃねえ!」
奥からローデンの怒鳴り声が飛ぶ。
「分かってる!」
「分かってる奴は間違えねえ!」
「うるせえな!」
「口答えするな!」
相変わらずだ。
俺が笑っていると、ローデンがこちらに気づいた。
「レンか」
「久しぶり」
「ちょうどいい。そこのガキが最近生意気になった。何とかしろ」
「俺にどうしろっていうの」
「料理で黙らせろ」
ノアは料理人じゃないだろ。
しばらくして昼の仕込みが一段落すると、ノアにも休憩が与えられた。
俺たちはギルド裏の石段へ座った。
「仕事どう?」
「きつい」
即答だった。
「朝早えし、重いし、ローデン怒鳴るし」
「それでも続けてるんだ」
ノアは少し黙った。
「金もらえるから」
そう言って、腰に下げた小さな袋を叩く。
「今日、初めてちゃんと給金出た」
「本当?」
「少ねえけどな」
声はぶっきらぼうだ。
でも、口元が少し緩んでいる。
俺は嬉しくなった。
よかった。
これで少なくとも、前よりは――。
「ミナにパン買う」
その一言で、さらに胸が軽くなった。
「じゃあ、一緒に買いに行く?」
「なんでお前が来るんだよ」
「見たいから」
「何を」
「ノアが自分のお金でパン買うところ」
「気持ち悪いな、お前」
最近みんなに似たようなことを言われる。
休憩が終わった後、ノアの仕事が終わるまで俺はローデンと冷却箱の話をした。魚の状態を確認してもらうと、保存前の処理をちゃんとすれば十分使えるという評価だった。
ただし、「冷えてるから何日でも食えると思うな」と釘を刺された。
これも重要だ。
冷やしたから安全。
魔法だから完璧。
そんな単純な話ではない。
夕方。
仕事を終えたノアと市場へ向かった。
ミナもギルド近くまで迎えに来ていた。
以前見た時より、少しだけ頬に肉がついている。
「レン!」
俺に気づくと笑ってくれた。
「久しぶり」
「おにいちゃん、おしごとした!」
「見たよ」
ノアは照れたのか、ミナの頭を雑に撫でた。
パン屋へ着く。
ノアは店先でしばらく悩んでいた。
普通の黒パン。
少し柔らかい白っぽいパン。
干した果物が入った甘いパン。
当然、値段は違う。
「これ」
最終的にノアが指差したのは、少し高い白いパンだった。
「二つ」
店主が値段を告げる。
ノアは腰の袋を開けた。
一枚。
二枚。
硬貨を数える。
その手が少し震えていた。
店主からパンを受け取る。
その瞬間のノアの顔を、俺はたぶん忘れないと思う。
料理を食べた時の顔ではない。
勝った時でもない。
自分の働いた金で、妹の食べ物を買った人間の顔だった。
「ほら」
ノアが一つをミナへ渡す。
「兄ちゃんは?」
「俺は後でいい」
「半分こ」
ミナは迷わずパンを割った。
半分をノアへ差し出す。
「一緒に食べる」
ノアは一瞬困った顔をした後、受け取った。
二人で食べる。
俺は少し離れて見ていた。
美味しそうだった。
俺が作った料理じゃない。
俺が買ったパンでもない。
でも、今までノアに食べさせたどんな料理より、ずっと意味があるように見えた。
「これで大丈夫だね」
思わず口にした。
ノアがパンを食べる手を止める。
「何が?」
「いや、仕事あるし。ミナも飯食べられるし」
ノアはしばらく俺を見る。
「家はないけど」
言われて止まった。
「寝るとこ、前と同じだぞ。雨降ったら濡れるし」
「……そっか」
「仕事だって、ずっとあるか分かんねえ。怪我して働けなくなったら金も出ない」
さっきまでの安心が、少しずつ崩れていく。
まただ。
俺は一つ良くなると、全部良くなったと思ってしまう。
「でも」
ノアが続けた。
「前よりマシ」
顔を上げる。
ノアは残ったパンを見ながら話した。
「前は盗むか、もらうかしかなかった。でも今は、働いたら金が出る。明日も仕事来いって言われてる」
「ローデンに?」
「うん」
「怒鳴られるのに?」
「うるせえけど、飯も出る」
それは大事だ。
ノアは少し笑った。
「だから、別にお前が全部何とかしなくていい」
心を読まれたみたいだった。
「そんな顔してた?」
「してた」
ハーゲンを見る。
頷いている。
そんなに分かりやすいのか。
「俺、自分で働いてるから」
ノアが言う。
その言葉に、少しだけ胸を刺された。
俺は、ノアを助けたいと思った。
でも、ノアは「助けられるだけの人」ではない。
自分で皿を洗い、薪を運び、怒鳴られながら仕事を覚えた。
今日のパンを買ったのもノアだ。
俺がしたのは、入口を一つ見つけただけだ。
「そっか」
今度は素直に頷いた。
「じゃあ、俺も何かできることあったら手伝う」
「全部やろうとすんなよ」
「分かってるって」
「本当か?」
「最近ちょっとは学んでる!」
ハーゲンが咳払いした。
笑っている。
帰り道。
俺は市場を歩きながら、冷却箱のことを考えていた。
食べ物を保存できれば、届けられる距離は伸びる。
仕事があれば、自分で食べ物を買える人も増える。
でも、それだけで全部解決するわけじゃない。
住む場所。
病気。
仕事がなくなる可能性。
考えることはまだ山ほどある。
それでも、全部を一度に解決できないからといって、何もしない理由にはならない。
以前ハーゲンに言われた言葉を思い出す。
全員を救えないからといって、一人も救わない理由にはならない。
あの時は、目の前の一食の話だと思っていた。
今は少し違う。
一食を渡す。
仕事につなぐ。
技術を作る。
食べ物を運ぶ。
一つずつしかできなくても、その一つが次の一歩になることはある。
俺は振り返った。
市場の向こうで、ノアとミナがまだ半分ずつのパンを食べている。
今度は「救えた」とは思わなかった。
ただ、二人が昨日とは少し違う場所に立っている。
それで十分だと思えた。




