第44話 腐らなければ、届く場所が増える
冷却箱の最初の実用試験は、ベルクから村まで魚を運ぶことになった。
「どうして魚なんです?」
夜明け前のベルク市場で、ハーゲンが尋ねる。俺は魚屋の店先に並んだ品を覗き込みながら答えた。
「一番分かりやすく腐るから」
「試験材料としては正しいのでしょうが、魚屋の前で言うことではありませんね」
店主がこっちを睨んでいた。
買ったのは、今朝届いたばかりの川魚を六匹。それから比較用として、同じ魚をもう二匹用意した。六匹は冷却箱へ入れ、残り二匹はいつものように布と籠で運ぶ。
ゼクトは魔石の状態を確認し、バルクは箱の留め具を何度も確かめている。
「いいか。途中で何度も開けるなよ」
ゼクトが俺を見る。
「分かってる」
「お前に言っている」
「だから分かってるって」
「昨日、確認と称して七回開けた」
数えてたのか。
冷却箱は、まだ前世の冷蔵庫ほど便利ではない。蓋を開けば冷気が逃げるし、失った冷気を戻すには余計な魔力を使う。今回の目的は、町から村までの数時間を安定して冷やせるか確かめることだった。
荷馬車がベルクを離れる頃には、朝日が城壁の向こうから顔を出していた。
行きの俺なら、街道の景色を見ながら新しい食材のことばかり考えていただろう。今日は荷台の木箱が気になって仕方がない。
魚は大丈夫か。
魔石は持つか。
中が冷えすぎて凍っていないか。
気にはなる。でも開けない。
「成長しましたね」
向かいに座るハーゲンが言った。
「何が?」
「箱を開けずに十五分も耐えています」
「俺を何だと思ってるの?」
「好奇心に足が生えた七歳児です」
否定できないのが悔しい。
昼前、最初の休憩を取った。
ゼクトの許可をもらい、そこで初めて箱を開ける。
冷たい空気がふわりと出た。
魚へ触れる。
冷たい。
目も濁っていない。
「いい感じじゃない?」
俺が嬉しくなって言うと、ゼクトは魚より先に魔石を確認した。
「消耗は予想より少ない。断熱を厚くした効果はあるな」
バルクも箱の側面を叩く。
「金属板も前より薄くして正解だった」
二人とも魚そのものにはあまり興味がないらしい。
俺は冷却箱の魚と、普通の籠に入れた魚を比べた。
まだ昼なので、大きな差はない。それでも籠の方は身が少し柔らかくなり始めている。
「村に着く頃には、もっと分かりそうだな」
そう言って、今度はきちんと蓋を閉めた。
村へ着いたのは夕方だった。
荷馬車の音を聞いて、子供たちが集まってくる。その中からリナが飛び出した。
「兄ちゃん、おかえり!」
「ただいま」
抱きついてくる妹を受け止める。
そして次の瞬間には、もう荷台を見ていた。
「おみやげ?」
「魚」
「おさかな!」
魚でも喜ぶ三歳児は偉い。
人が集まったところで、冷却箱と普通の籠を同時に開けた。
差は、すぐに分かった。
籠の魚は臭いが強くなっている。食べられないほどではないが、朝市場で見た時の状態とは明らかに違った。腹を押すと柔らかい。
一方、冷却箱の魚はまだ身に張りがある。
ローデンに教わったやり方で鰓や目も確かめる。
「これならいける」
俺は思わず笑った。
ゼクトも珍しく満足そうだった。
「魔石もまだ残っている。往復は厳しいが、片道なら実用範囲だな」
「食ってみようぜ」
バルクが言う。
それが一番大事だ。
俺は二匹を同じ方法で料理した。
余計な差を出さないため、塩だけ。
内臓を処理し、皮目から焼く。火加減も同じにする。
まず普通に運んだ魚。
食べられる。
でも少し臭い。
身も柔らかく、焼いている途中で崩れやすかった。
次に冷却箱の魚。
一口食べた瞬間、違いが分かる。
身に弾力がある。
臭みも少ない。
「うまい!」
村の誰かが声を上げた。
それをきっかけに、周りが騒がしくなる。
「ベルクの魚がこんな状態で持ってこられるのか?」
「夏でも?」
「だったら肉もいけるんじゃないか?」
「乳は?」
質問が次々飛んでくる。
俺も同じことを考えていた。
魚だけじゃない。
今まで腐るから諦めていた食材が運べる。
村では手に入らないものを町から持ってこられる。
逆に、村で作ったものも遠くへ届けられる。
料理できるものが、一気に増える。
「ハーゲン」
「はい」
「これ、すごいよ」
「ええ。とても」
ハーゲンも笑っていた。
ただし俺とは少し違う顔だった。
商人の顔だ。
「村で採れる獣肉も、状態の良いままベルクへ持ち込めます。乳や柔らかいチーズも面白い。今まで日持ちしないため近隣でしか売れなかったものが、町の商品になる」
村人たちの目が輝く。
ベルクでは村より高く売れる。
それなら収入が増える。
新しい農具が買える。
家を直せる。
冬へ備えられる。
俺も単純に喜びかけた。
「全部、町に売るのか?」
ヨルンの声で、場の空気が少し変わった。
ハーゲンが彼を見る。
「全部とは言っていませんが」
「高く売れるなら、みんな町へ持ってくだろ」
村で肉を売っている男が、少し気まずそうに目を逸らした。
「そりゃ……倍近くで買ってくれるならな」
俺はそこで初めて気づいた。
保存できるようになれば、食べ物が増えるわけではない。
腐って捨てる量は減る。
でも、村で作れる肉の量そのものが急に二倍になるわけじゃない。
町の方が高く買ってくれるなら、そちらへ売った方が儲かる。
では、村で食べる分はどうなる?
「お肉、なくなるの?」
俺の隣でリナが聞いた。
誰もすぐには答えなかった。
三歳児の疑問なのに、妙に重かった。
俺はノアとミナを思い出した。
ベルクには腹を空かせている人がいる。
保存できれば、食料をもっと遠くへ届けられる。
それは良いことだと思っていた。
でも、届けられることと、必要な人へ届くことは違う。
金を多く払える人のところへ集まる可能性だってある。
冷蔵箱は、食べ物を公平にしてくれる道具じゃない。
ただ、腐るまでの時間を伸ばすだけだ。
その先をどうするかは、人間が決める。
「ハーゲン」
「何でしょう」
「保存できるようになったら、食べ物って安くなる?」
ハーゲンは少し考えた。
「場合によります」
やっぱり簡単ではない。
「廃棄が減れば安くできる品もあるでしょう。一方、遠くの高値で買う人へ売れるようになれば、産地では値上がりすることもあります」
「じゃあ、どうすればいい?」
「また私に答えを求めますか?」
言われて黙った。
最近、何か困るとすぐ専門家へ聞く癖がついてきた。
聞くこと自体は悪くない。
でも、自分で考えなくていいわけではない。
俺は焼いた魚を見る。
朝ベルクにいた魚が、夕方ここにある。
しかも美味しい状態で。
この技術自体は間違っていない。
問題は、使い方だ。
「村で必要な分を先に残す」
俺は言った。
ヨルンがこちらを見る。
「それから余った分を町へ売る」
「誰が必要な量を決める?」
「……みんなで?」
また仕組みの話だ。
面倒だと思う。
でも米を売らないと決めた時も同じだった。
美味しいものを広げようとすると、料理以外のことがどんどん増える。
「最初から大きくやらない方がいいですね」
ハーゲンが言った。
「まず冷却箱一つ。村で余った肉や乳製品を少量ベルクへ運び、逆に町から魚を持ち帰る。値段と量がどう動くか見ましょう」
ヨルンも頷いた。
「それならいい」
俺も賛成した。
いきなり全部変えない。
少し試す。
結果を見る。
農業で覚えたやり方だった。
夕食には、残った魚を村のみんなで分けた。
リナは小さな骨を俺に取ってもらいながら、何度も「おさかな、おいしい」と言っている。
それを見て、少し安心した。
俺が冷蔵庫を欲しいと思った最初の理由は、料理の材料を増やしたかったからだ。
次に、腐って捨てられる食べ物を減らしたいと思った。
今は、もう一つ増えた。
運べるようになった食べ物を、誰に届けるのか。
そこまで考えなければならない。
冷却箱があれば、腐る前に届く場所は増える。
でも、届く場所が増えたからといって、食卓が勝手に豊かになるわけではない。
箱の中の魚を冷やすことは、魔法でできる。
その魚をどこへ運び、誰が食べるのかを決める方が、ずっと難しそうだった。




