第42話 米は、まだ売らない
米を初めて炊いてから三日後、ハーゲンが俺の家へ大きな算盤のような板を持ち込んできた。
嫌な予感しかしなかった。
「何それ」
「お金の話をする時に使うものです」
やっぱり嫌な予感しかしない。
食卓には父さんと母さん、ヨルン、サヨが座っている。なぜかリナまで椅子へよじ登り、俺の隣で真剣そうな顔をしていた。たぶん話の内容はほとんど分からないと思う。
ハーゲンは全員を見渡してから、机の上へ小さな袋を置いた。
「先日いただいた米を、ほんの数粒だけベルクの料理人に見せました」
「食べさせたの?」
「いいえ。見せただけです」
それでも十分だったらしい。
珍しい穀物。
東穀より粒が丸く、炊けば甘味が出る。しかも、ベルクでは誰も見たことがない。
「売れば、かなりの値がつきます」
ハーゲンが提示した数字を聞いて、父さんが目を丸くした。
俺も驚いた。
「そんなに?」
「今は希少性がありますからね。貴族や裕福な商人なら、珍しいというだけでも金を出します」
頭の中で計算する。
米が売れる。
村に金が入る。
畑を増やせる。
農具も買える。
バルクにもっと良い道具を作ってもらえるかもしれない。冷蔵箱の研究費だって出せる。
何より、村が少し豊かになる。
「じゃあ――」
売ろう。
そう言いかけた。
その時、サヨの手が膝の上で強く握られていることに気づいた。
声は出していない。
でも、顔が硬い。
俺は口を閉じた。
「サヨは、どう思う?」
全員の視線が彼女へ向く。
サヨは少し戸惑った。
「私が決めることなのでしょうか」
「だって、元はサヨが持ってきた種だろ」
「ですが、育てたのは皆さんです」
今度はヨルンが腕を組んだ。
「俺の畑を使ってるが、俺の米ってわけでもねえな」
父さんも困ったように笑う。
「村の土地で育ったからって、村長のものになるわけでもないだろう」
話がややこしくなってきた。
俺は今まで、食材の所有権なんてほとんど考えたことがなかった。
肉なら買った人のもの。
野菜なら育てた人のもの。
市場で売れば、金を払った人のもの。
単純だと思っていた。
でも、この米は違う。
サヨの一族が何代も守ってきた。
俺が「稲だ」と気づいた。
ヨルンが育て方を試した。
村のみんなが襲撃から守った。
土地も水も、この村のものを使った。
じゃあ誰のものなのか。
「レン君」
ハーゲンが俺を見る。
「こういうことを考えるのも、広めるということですよ」
ちょっと前までなら、「美味しいからみんな食べればいい」で終わっていた。
でも、食べ物が増えれば金になる。
金になれば、欲しい人が増える。
欲しい人が増えれば、「誰のものか」が必要になる。
「売らない方がいいのかな」
俺が言うと、今度はヨルンが首を横に振った。
「ずっと売らねえってのも違う」
「なんで?」
「作物は売って、初めて農家の飯になる」
当たり前だった。
育てた作物を全部自分たちで食べるわけではない。売った金で服を買い、道具を直し、別の食材を買う。
農業は、食べ物を作るだけじゃなく仕事でもある。
「ただし、今は早い」
ヨルンが続ける。
「次の種がまだ少なすぎる。今年うまくいったからって、来年もうまくいくとは限らん。病気が出るかもしれねえし、天気が悪いかもしれねえ」
以前の自分を思い出す。
最初から田んぼを作って全部植えようとしていた。
もし、あの時ヨルンに止められなかったら。
そして今、売れると聞いた瞬間に、俺はまた先を見すぎていた。
「じゃあ、来年の種を残して、その余りなら?」
「それも量を見てからだな」
「その次は?」
「その時考えろ」
先のことを考えろと言われたり、先走るなと言われたり、農業は難しい。
俺が唸っていると、サヨが小さく笑った。
「レンは、すぐ十歩先へ行こうとしますね」
「最近みんなに言われる」
自覚はある。
ハーゲンが板の上の数字を消した。
「では、今売る話はいったん保留ということで」
その言葉を聞いて、少しだけ惜しい気持ちはあった。
あの金があれば、できることは多い。
でも、米そのものがなくなったら意味がない。
そこで一つ気づいた。
「売るかどうかの前に、決めた方がいいんじゃない?」
「何をです?」
「この米を、誰が勝手に売っていいのか」
ハーゲンが少しだけ笑った。
「ようやくそこへ来ましたか」
最初から気づいていたらしい。
悔しい。
俺たちはその後、昼まで話し合った。
サヨ一人のものにはしない。
俺のものにもしない。
ヨルンの畑だからといって、ヨルンが全部決めることもしない。
最終的に、種籾だけは村の倉へまとめて保管し、サヨ、ヨルン、村長の三者が確認しなければ持ち出せないことになった。
育てた米のうち、次の作付けに必要な分を最優先で確保する。
その残りを食べる。
さらに余裕が出たら、初めて売る。
「なんか面倒だな」
俺が言うと、ハーゲンが笑う。
「仕組みとは、だいたい面倒なものです」
「料理なら食べれば終わるのに」
「だからこそ、あなたは今まで簡単だったのでしょう」
その言葉に少し引っかかった。
料理も簡単ではない。
でも、言いたいことは分かる。
俺が一皿作って、それを誰かが食べるだけなら、その場で完結する。
でも、その料理を百人に届けたいなら、食材を百人分用意する必要がある。
千人なら千人分。
そして来年も食べたいなら、次の種を残さなければならない。
美味しいものを広めるというのは、レシピを教えるだけじゃない。
食材がなくならないようにすること。
作る人が困らないようにすること。
誰か一人が勝手に全部持っていかないようにすること。
考えることが急に増えた。
夕方、俺はサヨと一緒に村の倉へ種籾を運んだ。
小さな袋だ。
最初に彼女が抱えていた箱よりは大きい。でも、まだ片手で持てる程度しかない。
「売りたかったですか?」
サヨが聞いた。
「ちょっとだけ」
正直に答える。
「お金あったら、もっと色々できるし」
「後悔していますか?」
俺は袋を見る。
少し考えてから首を横に振った。
「今売ったら、この米を食べるのは金持ちだけかもしれない」
ハーゲンの話では、珍しいものほど最初は高く売れる。
それ自体が悪いとは思わない。
でも、俺が作りたいのは、珍しいから一度だけ食べる料理じゃない。
前世の米は、特別な日にだけ食べるものではなかった。
朝にも食べた。
弁当にも入れた。
金がない日だって、家に米があれば何とかなると思えた。
いつか、この世界でもそうなったらいい。
「いっぱい作れるようになったら売ろう」
「はい」
「貴族にも売る。でも村の人も食べられるくらい」
サヨが笑う。
「欲張りですね」
「料理人だから」
関係あるかは分からない。
倉の棚へ種籾を置く。
扉を閉める前に、俺はもう一度袋を見た。
売れば金になる。
食べれば美味い。
植えれば増える。
同じ米なのに、使い方一つで未来が変わる。
ここにきて最初に俺が覚えたのは、料理の新しい作り方ではなかった。
美味しいものほど、食べる前に考えなければならないことがある。
そして今の米は、まだ売らない。
いつか誰でも食べられるくらい増やすために。




