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神々のいない食卓~日本の消えた異世界で、料理好きの俺は和食を作る~  作者: ちゃむたろう
第四章「稲種――消えた国の残り火」

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第41話 いただきます、日本

米を炊く朝だというのに、俺はいつもより早く目を覚ました。


まだ外は薄暗い。隣の部屋から父さんの寝息が聞こえ、村全体もほとんど眠っている。それなのに頭だけは妙にはっきりしていて、もう一度寝ようとしても無理だった。


仕方なく起き上がり、厨房へ向かう。


調理台の上には、小さな布袋が置かれていた。


昨日収穫した稲から、来年の種籾を取り分けた残り。そのすべてを食べるわけではない。サヨとヨルンと相談して、さらに保存用を分けた。それでも今日、ようやく炊いて食べられる分が残った。


袋を持ち上げる。


軽い。


村のみんなで分ければ、一人ほんの一口か二口だろう。


それでも俺には、とんでもなく重く感じられた。


「兄ちゃん、もうつくる?」


背後から声がして振り返ると、リナが寝巻き姿で立っていた。


「なんで起きてるの?」


「おこめだから」


理由になっているような、なっていないような。


「まだ早いぞ」


「リナ、みる」


「眠くない?」


「ねむい」


眠いのかよ。


それでも戻る気はないらしいので、小さな椅子へ座らせる。リナは頬杖をつきながら、布袋をじっと見つめていた。


俺は一粒を手に取った。


昨日までの籾とは違う。


殻を外し、ヨルンたちと相談しながら少しずつ表面を削った。前世で食べていた真っ白な精米ほど綺麗ではない。薄い茶色が残っている粒もあるし、割れたものも混じっている。


それでも、米だった。


東穀に似たものではない。


俺が知っている、本物の米。


「洗うぞ」


水を張った器へ米を入れる。


指で優しく混ぜると、水が少しずつ白く濁った。


その光景を見ても、第25話の時のように涙は出なかった。


懐かしくないわけじゃない。


むしろ、あの時よりずっと懐かしい。


でも今日は、それだけじゃなかった。


この米は、日本から持ってきた袋を開けただけのものではない。


サヨが命懸けで運んだ。


何代もの巫女が、意味も分からないまま守ってきた。


俺が二粒駄目にした。


ヨルンに怒られた。


みんなで水をやった。


誰かに燃やされそうにもなった。


それでも育って、穂をつけて、実った。


だから今、俺の手の中にある。


過去を思い出すための米じゃない。


この世界で新しく育った米だ。


洗い終えた米を鍋へ入れ、水を張る。


「レン」


入口からサヨの声がした。


振り向くと、白い衣を着た彼女が立っていた。傷はかなり治ったらしく、もう母さんの支えがなくても歩ける。


その後ろにはエルナもいる。


「早いね」


「あなたがもっと早いのです」


「兄ちゃん、ねてない!」


「寝たよ」


少しだけ。


サヨは鍋の前へ来ると、静かに米を見た。


「本当に、これを食べるのですね」


「食べるよ」


「不思議です」


「何が?」


「ずっと守るものだと思っていたので」


その気持ちは分かる。


何世代も箱の中へ収め、減らさないことだけを目的にしてきた種だ。


それを今日、火にかけて食べる。


以前のサヨなら、きっと許せなかっただろう。


でも今回は、彼女自身が頷いた。


「次の種は残ってる」


俺が言う。


「はい」


「来年、もっと増やす」


「はい」


「だったら、今日は食べよう」


サヨは少し笑った。


「そうですね」


火をつける。


最初は強め。


鍋の中で水が温まり、やがて小さな音が聞こえ始める。


俺は蓋へ手を置き、音を聞いた。


東穀を炊いた時より緊張する。


水の量は何度も考えた。


粒の状態も違うし、前世と同じ米だとしても、この世界で何代も生き残った品種だ。何もかも同じとは限らない。


だから、匂いと音を見る。


火を弱める。


しばらく待つ。


やがて厨房に、香りが広がり始めた。


一瞬で分かった。


「あ……」


声が漏れた。


サヨが俺を見る。


エルナも。


リナは鼻をひくひく動かしている。


「いいにおい」


俺は答えられなかった。


炊きたての米の匂い。


東穀よりずっと近い。


いや。


ほとんど同じだ。


前世の朝。


台所。


炊飯器を開けた時。


茶碗へ飯を盛った時。


妹が「お腹減った」と言いながら覗き込んできた時。


全部が一瞬だけ戻る。


でも今日は、そこへ別の景色が重なっていた。


今の厨房。


三歳のリナ。


サヨ。


エルナ。


廊下の向こうから起きてきた父さんと母さん。


俺には二つの家族がある。


そのことを、以前はどこか苦しいものとして考えていた。


今も答えが出たわけじゃない。


日本へ帰れるならどうするのか。


何も決められていない。


それでも、この匂いはどちらか一方だけのものではなくなりつつある。


前世から持ってきた記憶を、今の世界の人たちと一緒に育てた。


その結果が、この鍋の中にある。


火を止める。


蒸らす。


リナがすぐ蓋へ手を伸ばした。


「まだ」


「まだ?」


「あとちょっと」


「ながい」


やっぱり言うんだな。


思わず笑った。


蒸らし終え、蓋を開く。


湯気が立ち上る。


米は少し茶色がかっている。粒の大きさも揃っていないし、炊き加減にも多少むらがある。


前世なら失敗と言ったかもしれない。


でも、そんなことはどうでもよかった。


「できた」


小さく言う。


いつの間にか、家の外には人が集まっていた。


ヨルン。


ハーゲン。


村の人たち。


稲を守った人。


収穫を手伝った人。


「全員に食べさせるには少なすぎるけど」


俺が言うと、ヨルンが笑う。


「最初から腹いっぱい食えるとは思ってねえよ」


一人分は小さな匙一杯程度。


それでも誰も文句を言わなかった。


ただ、その前に。


最初の一膳。


サヨが用意した小さな器へ、俺が米を盛る。


ほんの少し。


でも一番最初に鍋から取ったものだ。


「ここでいい?」


家の隅に敷いた清潔な白い布。


第36話で料理を供えた場所だ。


サヨが頷く。


エルナも、今日は止めなかった。


俺は器を置いた。


何か特別な呪文を唱えるわけではない。


名前も呼ばない。


天照大御神。


その名は知っている。


地下の石板にも刻まれていた。


でも、「まだ名を呼ぶな」と言われた。


だから今は呼ばない。


ただ、ここまで届いたことを伝えたい。


「俺、こういう時のちゃんとした作法知らないんだけど」


正直に言うと、サヨが少し笑った。


「私も、もう分かりません」


「エルナは?」


「世界樹へ食事を供える作法など習っていません」


全員知らない。


だったら仕方ない。


俺は器の前で手を合わせた。


「今年、初めて取れた米です」


誰に言っているのか分からない。


それでも続ける。


「サヨたちがずっと守ってくれました。ヨルンが育て方を教えてくれて、村のみんなが守ってくれました。俺も……ちょっと失敗したけど、手伝いました」


後ろでヨルンが「ちょっとか?」と呟いた。


今は聞かなかったことにする。


「来年は、もっと増やします。だから」


何と言えばいい。


神様へお願いします、でもない。


食べてください、でも少し違う。


しばらく考えて、結局いつもの言葉になった。


「……いただきます」


手を下ろす。


何も起きない。


少なくとも、最初は。


「じゃあ、みんなも食べよう」


小さな器へ少しずつ米を分ける。


リナは自分の器を両手で持ち、宝物みたいに覗き込んでいる。


「これがおこめ?」


「そう」


「ちっちゃいね」


「一粒はな」


「おいしい?」


「それを今から確かめるんだよ」


俺たちは全員、器を持った。


村ではもう、この言葉を知っている人が多い。


だから俺が何も言わなくても、自然に手を合わせる人がいた。


サヨも。


エルナも。


ヨルンも。


父さんも母さんも。


リナは一番大きな声で言った。


「いただきます!」


いくつもの声が重なる。


俺も言う。


「いただきます」


米を口へ入れた。


柔らかい。


少し硬い粒も混じっている。


精米が甘いから、前世の白米より香りが強い。


それでも噛むほど甘くなる。


間違いない。


米だ。


俺はゆっくり飲み込んだ。


泣かなかった。


代わりに、笑った。


「うまい」


それで十分だった。


リナが「おいしい!」と叫ぶ。


父さんは不思議そうに何度も噛み、母さんは「これ、煮込みにも合いそうね」と料理のことを考えている。


ヨルンは味より粒を観察していた。


「こいつが来年もっと取れるのか」


「取る」


「言い切ったな」


「今度は勝手に凍らせないから」


「当たり前だ」


サヨは、すぐには食べなかった。


自分の器を見つめている。


「どうした?」


「怖いのです」


「食べるのが?」


「はい」


何代も守ってきたものを、自分の口へ入れる。


サヨにとっては、俺とは違う意味で大きなことなのだ。


「なくならないよ」


俺は言った。


「もう次の種がある」


サヨは俺を見る。


「それに、味を覚えたら誰かに伝えられる。育て方だって、今度はヨルンが覚えた。俺も少しは覚えた。もう箱一つの中だけに残ってるんじゃない」


その言葉を聞いて、サヨはようやく一口食べた。


長く噛む。


目を閉じる。


そして静かに涙を流した。


「……これが」


声が震える。


「これが、私たちが守っていたものなのですね」


俺は何も言わなかった。


たぶん、今はそれでいい。


その時だった。


エルナの胸元から、かすかな音がした。


全員が振り向く。


銀色の世界樹の印。


以前割れ、修復された中央の継ぎ目から、白い光が漏れている。


同時に。


サヨの勾玉が光った。


俺の背後。


供えた米の器から、一本の細い光が立ち上る。


強い光ではない。


炎でもない。


朝日の中に溶けてしまいそうなほど細い。


それでも確かに、空へ向かって伸びていた。


「レン……」


エルナの声。


俺も答えられない。


光は家の天井を通り抜けた。


村の上空へ。


さらに高く。


その瞬間。


遠く離れた場所で、何かが動いた。


誰もいない東の海。


世界の地図では、何も描かれていない空白。


波しかないはずの海面が、一瞬だけ震えた。


海の底。


光の届かない暗闇で、長い間砂に埋もれていた石が、かすかに鳴る。


そこに刻まれていた文字は、もう誰にも読まれないはずだった。


けれど。


その一文字に、ほんの一瞬だけ光が宿った。


さらに遠く。


巨大な銀の樹を見下ろす場所で、二羽の鴉が同時に翼を震わせた。


玉座に座る影が、ゆっくり顔を上げる。


「……実ったか」


その声には怒りだけではなく、どこか疲れたような響きが混じっていた。


「名を消しても、土地を消しても、それでも残るか」


二羽の鴉は答えない。


影は目を閉じる。


「人とは、本当に厄介だ」


村では、そんなことが起きているとは誰も知らない。


光もすぐに消えた。


供えた米も、ただの米に戻った。


「今の何?」


俺が聞いても、誰も答えられない。


サヨも。


エルナも。


ハーゲンも。


分からない。


でも、リナだけは供え物の器を見ながら、嬉しそうに笑っていた。


「神さま、おこめ好きだった?」


「どうだろうな」


俺も笑う。


神様が本当に食べたのかは分からない。


それでも今日、この村で一つのものが戻った。


稲を育てる。


収穫する。


次の年のために種を残す。


米を炊く。


最初の一膳を供える。


みんなで手を合わせて、いただきますと言う。


どれか一つなら、ただの行為だったかもしれない。


でも、それが全部つながった。


食べて終わりではなく、また育てる。


一人で覚えるのではなく、誰かへ渡す。


そうして初めて、文化は残っていくのかもしれない。


日本は消された。


土地も。


歴史も。


そこに暮らしていた人たちさえ。


そのはずだった。


けれどこの日、世界の片隅にある名もない村で、消された国の種は初めて次の世代を残した。


そして、その米を食べた人間たちは。


もう、日本という言葉を知らないままではいられなかった。


第四章「稲種――消えた国の残り火」までお読みいただき、ありがとうございました。


この章では、第三章までとは少し違って、「料理を作る前の話」を中心に描きました。


これまでのレンは、手に入れた食材をどう美味しくするかを考えることが多かったのですが、今回初めて「その食材はどこから来るのか」「次の食事へどう残していくのか」という部分に踏み込んでいます。


特に書きたかったのが、サヨの一族が何代にもわたって守ってきた稲種です。


意味も分からない。育て方さえ失われている。それでも「捨ててはいけない」ということだけを信じて、次の世代へ渡し続ける。


一方のレンは、それを見た瞬間に「食べたい」と思う。


どちらも間違いではありません。


食べ物は食べるためにある。でも、全部食べてしまえば次はない。守っているだけでも、その意味は少しずつ失われていく。


そこで「育てて、増やして、食べて、また残す」という循環が生まれた時、初めて稲は箱の中の遺物ではなく、この世界で生きている文化になったのだと思います。


第40話の「いただきます、日本」というタイトルにも、そんな意味を込めました。


そして、レンも少しずつ変わっています。


最初の頃なら、たぶん魔法で水を出して、一気に田んぼを作ろうとしていたでしょう。実際、今回も途中まではかなりやらかしましたが……。


二本の芽を枯らしたこと。


ヨルンに教わったこと。


サヨが種を守ってきた重みを知ったこと。


そうした経験を通して、「自分が知っているから正しい」ではなく、「知らないなら人に聞く」「一人でやらず、誰かと残していく」という方向へ少しずつ進んでいます。


また、エルナとサヨの関係も、今後かなり重要になってきます。


世界樹を信じて育った少女と、世界樹を恐れるよう伝えられてきた巫女。


どちらかを簡単に正義、どちらかを悪とするつもりはありません。今の時点では、二人とも自分が受け継いだものの一部しか知らないからです。


そして第38話では、ついに「稲そのものを消したがっている者たち」が現れました。


なぜ、ただの穀物が「存在してはならない」のか。


なぜ、米が実り、人が食べ、名前を与えることを彼らは恐れるのか。


第41話の最後で起きた異変も含め、この辺りは物語全体の根幹へ少しずつつながっていきます。


日本は本当に消えたのか。


消された国は、何をもって「存在する」と言えるのか。


土地なのか。


人なのか。


歴史なのか。


言葉なのか。


それとも、誰かが覚えていることなのか。


レンはまだ、その答えを知りません。


ただ、最初は一人で作っていた「いただきます」を、今では村のみんなが口にしています。そして、たった一箱しかなかった稲種も、ほんの少しですが増えました。


世界を変えるには、まだあまりにも小さな変化です。


でもこの物語では、そういう小さなものを積み重ねていきたいと思っています。


さて、次の第五章では、村の中で育ち始めたものが、今度は村の外へ影響を与え始めます。


米。


保存技術。


魔法を使った料理。


そして、レンがこれまで広めてきた食べ方や考え方。


美味しいものが広まれば、喜ぶ人だけではありません。当然、それを「金になる」と考える人もいれば、「困る」と考える人も出てきます。


レンの食卓は、少しずつ社会の事情とぶつかっていきます。


そしてもちろん、料理もまだまだ作ります。


第四章までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。


次章も、レンたちの食卓を一緒に見守っていただけたら嬉しいです。

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