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神々のいない食卓~日本の消えた異世界で、料理好きの俺は和食を作る~  作者: ちゃむたろう
第四章「稲種――消えた国の残り火」

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第40話 一粒から、百粒へ

稲を狙った三人組が村を去ってから、俺たちは育てている場所を変えた。


家の裏に木箱を並べたままでは、あまりにも目立つ。ヨルンの提案で、村の畑の一角に小さな区画を作り、残った苗をそこへ移すことになった。周囲には豆や根菜を植え、遠くから見ただけでは珍しい作物があるとは分からないようにする。


最初に俺が想像していた「一面の田んぼ」とは、ずいぶん違う。


水を張った広い土地もない。植えられている稲も、数えるほどしかない。


それでも、今はこれでいいと思えた。


「全部を一度に増やそうとするな」


ヨルンには何度も言われた。


「今年は、この種がどう育つか覚える年だ。飯を腹いっぱい食うのは、その後だ」


以前の俺なら、もどかしく感じただろう。


でも、二本の芽を自分の魔法で枯らし、さらに誰かが稲そのものを消そうとするところまで見た。


急ぐことと、進むことは違う。


少なくとも今は、それくらい分かる。


季節が進むにつれて、稲は少しずつ姿を変えた。


細かった茎が増え、葉が伸びる。最初は風が吹いただけで折れそうだった苗が、気づけば俺の膝より高くなっていた。


毎朝そこへ行くのが日課になった。


土を見る。


葉を見る。


虫がついていないか確かめる。


水が足りなければ、ヨルンと相談して少し補う。


魔法も使った。


ただし、前とは使い方が違う。


乾燥が続いた日に畑全体を無理やり潤すのではなく、川から引いた水が届きにくい場所だけを補助する。冷やす魔法も、苗へ直接使わない。水桶の温度を少し下げる程度に留めた。


魔法で稲を育てるのではない。


稲が育つのを、少しだけ手伝う。


その考え方は、料理にも似ていた。


火が肉を美味しくしてくれるわけじゃない。強い火を当てればいいわけでもない。食材がどう変化するかを見ながら、必要な分だけ手を加える。


農業は、それを何か月もかけてやる料理なのかもしれない。


そう言ったら、ヨルンには「畑を鍋と一緒にするな」と怒られたけど。


「兄ちゃん!」


ある朝、リナが畑から叫んだ。


「なんか出てる!」


また虫かと思いながら駆け寄った俺は、そこで足を止めた。


茎の先から、今までとは違うものが伸びている。


細い穂。


まだ緑色で、粒も頼りない。


でも分かる。


「……稲穂だ」


声が勝手に小さくなった。


サヨを呼ぶ。


ヨルンも呼ぶ。


エルナまで神殿からやってきた。


みんなで一本の穂を囲む。


大人たちが何人も集まって、植物一本を黙って眺めている姿は、外から見ればかなり変だったと思う。


でも誰も笑わなかった。


サヨだけは、しばらく穂を見つめたまま瞬きもしなかった。


「これが……」


指を伸ばしかけ、途中で止める。


「日の種の、実る姿……」


サヨは生まれてから一度も見たことがない。


彼女の母親も、おそらく祖母も。


何代も守ってきた種なのに、それが土から育ち、穂をつける光景を知らない。


そのことが、急に重く感じられた。


「まだ食べられないぞ」


ヨルンが言う。


俺は反射的に答えた。


「分かってるよ」


「本当か?」


「俺を何だと思ってるの?」


ヨルンとリナが同時に俺を見る。


何も言わない。


やめろ。


それからの時間は、今まで以上に長く感じた。


緑だった穂が少しずつ色を変える。


粒が膨らむ。


茎の先が重みで垂れ始める。


前世なら、田んぼの横を自転車で通り過ぎながら何となく見ていた景色だ。


それを今は、一日ごとに確認している。


黄色くなった。


まだ早い。


もう少し。


昨日より乾いた。


でも待つ。


料理なら「あと一分」が長いと思っていた。


収穫前の数日は、それどころじゃなかった。


「今日だな」


ある朝、ヨルンが言った。


俺は稲を見る。


黄金色。


一面の田んぼではない。


ほんの小さな区画。


それでも、朝日に照らされた穂は、俺が七年間この世界で見たどんな宝石より綺麗に見えた。


刈り取りは、俺一人ではやらなかった。


ヨルンに教わりながら根元を切る。


サヨも一本ずつ丁寧に刈る。


父さんと母さんも手伝ってくれた。


リナには刃物を持たせられないので、刈った穂を運ぶ係にした。


「リナ、いっぱい!」


両腕に抱えた穂を自慢する。


「落とすなよ」


「だいじょうぶ!」


言った直後に一本落とした。


慌てて拾っている。


カイルはベルクへ戻っていたが、次に来た時に見せろと言っていた。エルナは神殿の仕事を済ませてから合流し、収穫した穂を見て、自分のことのように喜んでいた。


全部刈り終えた後、俺たちは穂を乾かした。


ここでもすぐには食べられない。


脱穀。


乾燥。


籾を外す。


知らない作業ばかりだった。


前世で米を炊くことなら何度もやった。


でも米になるまでの作業は、ほとんど何も知らなかった。


結局、ヨルンと相談しながら、村で麦を扱う道具を使って少しずつ試した。力を入れすぎれば籾が潰れるし、弱すぎれば外れない。


料理以前のところで、何度も失敗する。


それでも少しずつ、籠の底に粒が溜まっていった。


最後の一束を終えた時、俺たちは収穫した籾を一か所へ集めた。


量としては大したことがない。


村全員の腹を満たすには、到底足りない。


大人一人なら何日か食べればなくなる程度だ。


でも。


最初の箱に入っていた種より、明らかに多い。


俺は何度も見比べた。


「増えた……」


サヨが呟いた。


誰もすぐには返事をしなかった。


サヨは籠の前へ座り込み、一粒を掌へ乗せる。


「本当に、増えたのですね」


その目から涙が落ちた。


声を上げて泣くわけではない。


ただ、次々と頬を伝っていく。


「ごめん」


思わず言った。


「なぜ謝るのですか」


「いや……なんとなく」


泣かせた気がした。


サヨは首を横に振った。


「嬉しいのです」


一粒を両手で包む。


「私の母も、祖母も、その前の巫女たちも、この種を減らさないことだけを考えていました。一粒でも失えば叱られ、箱を開けることすら恐れていたと聞いています」


俺は黙って聞く。


「守るというのは、ずっと小さく抱えていることだと思っていました。誰にも見せず、使わず、形を変えずに次へ渡す。それだけが私たちの役目だと」


サヨは籠の中の籾を見る。


「でも、増やすこともできるのですね」


その言葉が胸に残った。


守る。


増やす。


似ているようで、全然違う。


守るだけなら、箱へ入れて隠しておけばいい。


増やすには、外へ出さなければならない。


土に埋める。


水に触れさせる。


風に晒す。


失敗する危険も受け入れる。


それでも育てる。


サヨの一族が何代も繋いできたものを、俺たちは初めて未来へ増やした。


そう考えると、目の前の籠が急にものすごい量に見えた。


「じゃあ炊こう!」


リナが元気よく言った。


全員が笑った。


俺も笑う。


そして籠へ手を伸ばしかけた。


待て。


手を止める。


以前なら、ここで食べることしか考えなかった。


実際、食べたい。


ものすごく食べたい。


ここまで何か月も待った。


籾を見ているだけで、白い飯の匂いを想像できる。


でも。


俺は別の籠を持ってきた。


「まず、次に植える分を取ろう」


サヨが俺を見る。


ヨルンも少しだけ笑った。


「どれくらい残す?」


俺が聞くと、ヨルンは考える。


「今年育った中でも、特に実の多かった穂から取れ。全部混ぜるな」


「なんで?」


「よく育った奴の種なら、次もよく育つかもしれん」


なるほど。


また知らないことが出てきた。


俺たちは一本ずつ穂を確認し、次の作付けに使う種を選んだ。


食べる分より先に。


来年の分を。


さらにその次の年へ続くかもしれない分を。


種籾を別の袋へ入れる。


袋はまだ軽い。


それでも、最初にサヨが持ってきた箱とは違う。


これは「最後の種」じゃない。


次を作るための種だ。


その違いが、俺にはとても大きく感じられた。


「残った分は?」


リナが聞く。


俺は籠を見る。


「食べる」


「やった!」


今度こそリナが跳ねる。


俺だって同じ気分だった。


ただ、その前にやることが一つある。


第36話でサヨから聞いた。


最初の実りは、自分たちより先に御前へ返す。


神様が本当に食べるのかは知らない。


誰に届くのかも分からない。


でも、ここまで育ったのは俺一人の力じゃない。


サヨが種を運んだ。


何代もの巫女が残した。


ヨルンが育て方を教えた。


村のみんなが守った。


土があった。


水があった。


日が照った。


そう考えれば、最初の一杯くらい、自分たち以外の誰かへ渡しても悪くない。


「明日、炊こう」


俺が言うと、サヨが頷いた。


「最初の一膳を、御前へ」


「うん」


今度は俺も、その意味を少しだけ分かっている気がした。


一粒の種は、食べればそこで終わる。


でも、残して、育てて、誰かへ渡せば増えていく。


それは米だけの話じゃないのかもしれない。


言葉も。


料理も。


記憶も。


国さえも。


誰かが次へ渡し続ける限り、完全にはなくならない。


俺は次の年のために取り分けた種籾の袋を手に取った。


消されたはずの日本から残ったものが、今日初めて、昨日より少しだけ増えた。


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