第39話 種を狙う者
稲の芽は、俺が何もしなくても育っていた。
それを当たり前だと思えるようになるまで、少し時間がかかった。朝起きればまず木箱を確認する。でも、土が乾いている気がしてもすぐ水魔法は使わない。葉の色が気になっても、勝手に温度を変えない。ヨルンと相談し、その日の天気を見て、必要な分だけ水をやる。
二本を枯らした失敗は、まだ頭から離れなかった。
だからこそ、残った芽が昨日よりほんの少し高くなっているだけで嬉しい。
「兄ちゃん、おこめ大きくなった!」
リナが木箱の前にしゃがみ込み、両手を広げる。
「まだこれくらいだけどな」
「リナより大きくなる?」
「たぶん」
「兄ちゃんより?」
「それは無理じゃないかな」
前世で見た稲なら、七歳の俺よりは低かったはずだ。
そんな話をしていると、ヨルンが畑の方から歩いてきた。
「今日の昼は暑くなる。朝のうちに少し水やっとけ」
「分かった。どれくらい?」
以前なら「水をやれ」と言われた時点で桶いっぱい使っていたかもしれない。今は量まで聞く。
ヨルンは土へ指を入れて湿り具合を確かめると、「この箱なら半杯でいい」と答えた。
少ない。
でも、それでいいらしい。
俺は桶から水を取りながら、少し笑った。
料理なら味を見れば、その場である程度答えが分かる。でも農業は違う。今日やったことの結果が、明日にならないと分からないこともある。
面倒だ。
そして、面白い。
そんなことを考えていた昼前だった。
村の入口に、見慣れない三人組が現れた。
最初は旅人だと思った。
黒に近い灰色の外套。丈夫そうな革靴。腰には剣を下げているものの、冒険者なら珍しくもない格好だ。
ただ、三人とも荷物が少なすぎた。
旅をしてきた人間なら、水袋や食料、寝具くらい持っている。なのに彼らには小さな鞄しかない。
俺が気になって見ていると、ちょうどハーゲンも家から出てきた。
「おや」
いつもの笑顔。
でも、目だけが笑っていない。
先頭の男が俺たちへ近づいてくる。
四十歳くらいだろうか。短い金髪に、左眉から頬へ細い傷が走っている。
「この村の責任者は?」
父さん――ガルドが前へ出た。
「村長なら畑だ。用件なら俺が聞く」
「人を探している」
男は懐から一枚の紙を出した。
そこには、この世界の文字で簡単な人相書きがあった。
長い黒髪。
若い女。
そして白い服。
サヨだ。
俺の背中に冷たいものが走る。
「東方から重要な品を盗み、逃亡した女だ。数日前、この街道沿いで目撃されている」
盗んだ?
違う。
サヨは自分の一族が守ってきたものを持って逃げたと言っていた。
父さんが答える前に、ハーゲンが紙を受け取った。
「どちらの発行です?」
男の眉が動く。
「何?」
「捜索依頼なのでしょう? 発行元と責任者の印がありません」
俺にはただの紙にしか見えなかったが、ハーゲンには違うらしい。
男の声が少し低くなる。
「商人には関係のない話だ」
「人を犯罪者扱いして村を探すのであれば、大いに関係がありますね」
さすが商人。
笑顔のまま全然引かない。
その時、後ろからエルナがやってきた。
村の神殿から戻ってきたところらしい。
「何かあったのですか?」
三人組のうち、一人がエルナを見る。
正確には、胸元の銀色の世界樹を。
一瞬だけ、男たちの間に緊張が走った。
俺は見逃さなかった。
そしてエルナも、彼らの外套の隙間から何かを見つけたらしい。
「その印……」
一番後ろの男の胸元に、銀色の飾りがあった。
世界樹。
サヨが恐れていたものと同じ。
ただ、よく見ると少し違う。
「世界樹の印?」
俺が呟くと、エルナは首を横に振った。
「似ています。でも、神殿の聖印ではありません」
「何が違うの?」
「根がない」
言われて気づいた。
村の神殿にある世界樹には、枝と同じくらい大きな根が描かれている。
男の印には枝だけしかない。
「古い印です」
エルナの顔が強張る。
「神殿の記録で見たことがあります。でも、今は使われていないはずです」
先頭の男が舌打ちした。
その時だった。
家の扉が開いた。
「レン?」
サヨだった。
母さんに止められていたはずなのに、騒ぎを聞いて出てきたらしい。
三人の男と目が合う。
サヨの顔から血の気が引いた。
「……あの人たちです」
小さな声だった。
でも俺には聞こえた。
「里を襲った?」
サヨが頷く。
男たちも、もう隠すつもりはないらしい。
先頭の男が一歩前へ出る。
「その箱を渡せ」
サヨは胸元へ木箱を抱き寄せた。
「嫌です」
「それは、お前たちが持っていていいものではない」
「私たちの一族が守ってきたものです」
「だから問題なのだ」
その言葉に、俺は引っかかった。
盗品だから返せ、ではない。
持っていてはいけない。
「何が入ってるか知ってるの?」
俺が聞くと、男の視線が俺へ向く。
「子供は下がれ」
「種だろ」
男の表情がわずかに変わった。
「稲の種」
今度ははっきり分かった。
知っている。
こいつらは『稲』が何なのか知っている。
「なんで、ただの種をそこまで欲しがるんだよ」
男は答えなかった。
代わりに、その視線が俺の背後へ動いた。
嫌な予感がした。
振り返る。
家の裏。
木箱。
育てている芽。
リナがその近くに立っていた。
「リナ、こっち来て!」
俺が呼ぶより早く、男の顔色が変わった。
驚き。
それから、明らかな焦り。
「芽吹かせたのか」
その声だけは、それまでとまったく違っていた。
三人目の男が剣へ手を伸ばす。
「処分しろ」
「待て!」
俺は木箱の前へ走った。
何をするつもりなのか、考えるまでもない。
男の手に赤い光が集まる。
火魔法。
まずい。
俺は剣では戦えない。
相手がどれくらい強い魔術師なのかも分からない。
でも、火なら分かる。
何年も料理で使ってきた。
男の手から炎が飛ぶ。
俺は木箱を守るように手を伸ばし、水魔法を放った。
炎と水がぶつかる。
白い蒸気が一気に広がった。
熱い。
顔を背ける。
それでも木箱から離れなかった。
「レン!」
父さんの声。
蒸気の向こうで何かがぶつかる音がした。
視界が戻ると、父さんとヨルン、それから村の男たちが俺たちの前に立っていた。
武器を構えている人もいる。
でも、誰も斬りかかってはいない。
父さんが低い声で言った。
「村の子供に魔法を撃ったな」
「退け。お前たちには関係ない」
「うちの村で育ててる作物を燃やそうとして、関係ないは通らねえよ」
ヨルンまで前へ出る。
「それに、あれは俺が見てる畑だ」
木箱だけど。
今それはどうでもいい。
サヨが俺のところへ駆け寄る。
「レン、大丈夫ですか?」
「俺は平気。芽は?」
一緒に確認する。
箱の縁が少し焦げている。
葉の先も一本だけ茶色くなっていた。
でも生きている。
よかった。
心からそう思った直後、腹の底から怒りが湧いた。
俺は二本を枯らした。
自分の軽率さで。
それだけでもあんなに後悔した。
なのに、こいつらは何の迷いもなく全部燃やそうとした。
「どうして」
俺は男を見る。
「どうして種を消すんだよ」
男はしばらく黙っていた。
答える必要はないと思っているのかもしれない。
でも、俺が引かなかったからか、やがて短く吐き捨てた。
「その種は、存在してはならない」
空気が冷えた。
ヨルンが眉をひそめる。
「作物に存在していいも悪いもあるか」
「知らないからそう言える」
「じゃあ説明しろよ」
俺は言った。
「病気になるのか? 毒があるのか? 他の作物を枯らすのか?」
それならまだ分かる。
危険な外来種というものは前世にもあった。
俺たちが知らずに広げて、この世界の農業へ被害を与える可能性だってないとは言えない。
でも男の答えは違った。
「それが実り、人が口にし、名を与えれば、失われたものまで戻ってくる」
意味が分からなかった。
けれど、サヨが息を呑んだ。
エルナも同じだった。
「失われたものって何?」
俺が聞く。
男は答えなかった。
代わりにハーゲンが一歩前へ出る。
「お話はそこまでにしましょう」
声は穏やかだった。
「あなた方に正式な捜索権限はない。にもかかわらず、村人へ魔法を使用した。これ以上続けるのであれば、ベルクの商業組合と神殿の双方へ報告します」
エルナも頷いた。
「私も証言します。その印についても、本殿へ照会します」
初めて男たちが迷った。
世界樹の印を持っているのに、神殿へ知られることを嫌がっている。
やはり単純な神官ではない。
しばらく睨み合いが続いた。
やがて先頭の男が手を上げる。
「退くぞ」
火魔法を使った男が不満そうにする。
「しかし、芽が――」
「今はだ」
その言葉が嫌だった。
今は。
つまり、諦めたわけではない。
男たちは村を離れていった。
誰も追わなかった。
完全に姿が見えなくなるまで、俺たちはその場から動けなかった。
最初に口を開いたのはサヨだった。
「……申し訳ありません」
「何が?」
「私がここへ来たから、村を危険に巻き込みました」
木箱を抱く手が震えている。
「この種も、私も、ここから離れた方が――」
「駄目だ」
ヨルンが遮った。
サヨが驚いて見る。
「その種はもう、お前だけが育ててるんじゃねえ」
ヨルンは焦げた木箱を持ち上げ、葉の状態を確認する。
「俺も見てる。レンも見てる。リナなんか毎朝しゃがんで話しかけてる」
「おこめ、おはようってしてる!」
本人が胸を張った。
ヨルンは苦笑する。
「そういうことだ」
父さんも頷いた。
「それに、怪我人を追い出して安全になりました、じゃ村の寝覚めが悪い」
サヨは何も言えなくなった。
俺も木箱を見る。
少し焦げた葉。
それでも、根は土の中に残っている。
俺たちはこの種を守っている。
でも、それだけじゃない。
この種を育てることで、何かを戻してしまうらしい。
男はそう言った。
失われたもの。
それが何なのか、まだ分からない。
日本なのか。
神様なのか。
もっと別の何かなのか。
ただ一つだけ分かった。
日本が消えたのは、昔の一度きりの出来事じゃない。
今も誰かが、残ったものを消し続けている。
なら、稲が残っていたのも偶然じゃない。
サヨたちが何代も守った。
育て方を忘れても、意味を失っても、それでも捨てなかったから今ここにある。
俺は焦げた葉の先へそっと触れた。
今までなら、「消したがるなら意地でも増やしてやる」と勢いだけで考えていたと思う。
でも、もうそれでは駄目だ。
俺一人で守るんじゃない。
サヨと、ヨルンと、家族と、村のみんなで育てる。
知らない危険があるなら調べる。
また狙われるなら、どう守るかも考える。
料理も、種も、文化も、一人の思いつきだけでは残らない。
少し焦げた稲の葉は、それでも風を受けて揺れていた。
誰かが「存在してはならない」と言った種は、今日も確かに生きていた。




