第38話 神様が違っても、飯は食える
翌朝、家の前で水を汲んでいた俺は、少し離れたところに立つエルナとサヨを見て、思わずため息をついた。
二人とも何も話していない。
正確には、話そうとしていない。
エルナは胸元の世界樹の印を握りながらサヨを気にしているし、サヨはサヨで、エルナが少し動くたびに銀色の印へ視線を向けている。昨日、供え物をした時には二人の持つ印が同時に反応した。それで少しは距離が縮まるかと思ったのだが、現実はそう簡単ではなかったらしい。
朝飯の席でも同じだった。
母さんが焼いた黒パンと、俺が作った野菜と燻製肉のスープを囲んでいるのに、二人の間だけ妙に空気が硬い。
「エルナ、塩取って」
俺が頼むと、エルナが塩壺を渡してくれる。
その手がサヨの前を通った瞬間、サヨの肩がわずかに強張った。
やっぱり気のせいじゃない。
「サヨ」
「何でしょう」
「エルナのこと、怖い?」
匙を持っていたエルナの手まで止まった。
もう少し遠回しに聞くべきだったかもしれない。
サヨはすぐには答えず、エルナの胸元へ視線を落とした。
「エルナ自身を恐れているわけではありません」
「では、何を?」
今度はエルナ本人が聞いた。
サヨは迷った末、静かに答えた。
「その印です」
部屋が静かになる。
世界樹。
ミズガルドでは、どこへ行っても見かける印だ。村の神殿にも、ベルクの中央にもあった。俺にとっては、この世界の宗教を象徴するものになっている。
でも、サヨの里では違うらしい。
「私たちの里には、昔から一つの言い伝えがあります」
サヨは膝の上で手を組んだ。
「『銀の樹に見つかるな』と」
エルナの顔が険しくなる。
「どういう意味ですか」
「分かりません」
「また、それですか」
声に苛立ちが混じった。
サヨも少し顔を上げる。
「意味が失われているのですから、そう答えるしかありません」
「それでは、世界樹が危険だと言っているのと同じではありませんか」
「私は危険だとは言っていません。見つかるな、と教えられただけです」
「同じです」
まずい。
昨日までは互いに警戒しているだけだったのに、今日はちゃんと喧嘩になりそうだ。
俺は口を挟んだ。
「二人とも、まだ何も分かってないんだから――」
「レンは黙っていてください」
「今はあなたに聞いていません」
同時に言われた。
なんで俺が怒られるんだ。
リナが隣で笑っている。
エルナは世界樹の印を握りしめた。
「私は、この印の下で育ちました。神々が世界樹を通して人を見守り、死者もその巡りへ還ると教えられてきたのです」
その声には、以前のような迷いのない強さはなかった。
神殿の像が壊れたこと。
聖火が消えたこと。
自分の印が割れ、知らない声を聞いたこと。
エルナ自身、もう教えられたことをそのまま信じられなくなっている。
だからこそ、サヨの言葉が痛いのだと思った。
疑っているのは自分自身なのに、他人から疑われると守りたくなる。
俺にも覚えがある。
前世の日本について何も知らない人に「そんな国、本当にあったのか」と言われたら、たぶん腹が立つ。
サヨは少し俯いた。
「私はあなたの神を否定したいのではありません」
「では、なぜその印を見るたびに怯えるのですか」
返事はすぐにはなかった。
やがてサヨが、自分の袖を握る。
「里が襲われた時、見たからです」
俺は顔を上げた。
第32話で、里を襲った者たちは黒い外套を着ていたと聞いた。顔を隠し、稲種を探していた。
「何を見たの?」
「襲ってきた者の一人が、外套の下に銀色のものを持っていました」
サヨは指で形を描く。
幹。
左右へ広がる枝。
「世界樹……?」
エルナが呟く。
「同じものかは分かりません。逃げる時に一度見ただけです。ただ、あの形を見た瞬間、祖母の言葉を思い出しました。銀の樹に見つかるな、と」
エルナの表情が変わった。
怒りが消え、代わりに困惑が浮かぶ。
「神殿の者が、そのようなことをするはずがありません」
「私にも分かりません」
「世界樹の印を持つ者が全員、神官とは限りません」
それでもエルナは苦しそうだった。
自分の信じているものと同じ印が、サヨの家族を傷つけたかもしれない。
簡単に受け入れられるはずがない。
「確かめよう」
俺が言うと、二人がこちらを見る。
「今の話だけじゃ、世界樹の神殿がやったのか、印を真似した別の奴なのか分からない。だから決めつけない方がいい」
エルナは黙った。
サヨも頷かない。
俺は続ける。
「俺だって日本のことなら何でも正しいとは思ってないよ」
言ってから、自分でも少し驚いた。
日本へ帰りたい。
日本が消された理由を知りたい。
その気持ちは強い。
でも、だからといって日本側が全部正しいと決めつけるのも違う。
ヴァルドは「神々の争いがあった」と言った。
争いなら、たぶん片方だけに理由があるわけじゃない。
今の俺には、まだ何も知らない。
「それにさ」
俺は残っていたパンを千切る。
「神様が違うからって、朝飯まで別々にする必要ある?」
二人が揃って俺を見る。
「……何ですか、その理屈」
エルナが呆れた。
「いや、だってスープ冷めるし」
「今は大事な話をしているのですが」
「腹減ってる時に話しても余計喧嘩するだろ」
前世でも、妹が空腹の時は機嫌が悪かった。
俺もそうだ。
たぶん神官見習いと巫女にも通用する。
「兄ちゃん、リナおなかいっぱい!」
「リナはもう食べたからな」
「おかわり!」
「いっぱいじゃないじゃん」
母さんが笑う。
張りつめていた空気が、少しだけ緩んだ。
俺はスープを二つの椀へよそい直し、エルナとサヨの前へ置いた。
「昨日の残りだけど、味は少し変えた」
燻製肉から出た脂を一度取り、潰した豆を加えて少しとろみをつけてある。香草も昨日より控えめにした。
サヨが一口食べる。
「昨日より柔らかい味ですね」
「怪我人向け」
「私はもう普通に食べられます」
「母さんの許可出るまでは病人」
「レンはミラさんの言うことには素直なのですね」
「逆らうと怖いから」
「聞こえてるわよ」
厨房から母さんの声が飛んできた。
エルナが吹き出した。
その笑いにつられたのか、サヨも少し笑う。
さっきまでの緊張が完全に消えたわけではない。
でも、食べ始める。
それだけで十分だった。
しばらくして、エルナがサヨへ尋ねた。
「あなたの里では、食事の前に何をするのですか?」
サヨは少し考える。
「特別な日は、御方へ一部を供えます。普段は……古い言葉を唱えます」
「どんな?」
サヨが口にした言葉は、この世界の言葉とは少し響きが違った。
けれど俺にも分からない。
日本語ではない。
長い年月の中で崩れたのか、もともと別の言葉なのかもしれない。
「意味は?」
エルナが聞く。
「分かりません。ただ、食べ物をいただく前に言うものです」
俺は匙を止めた。
食べる前。
言葉。
意味が失われても、形だけが残る。
「いただきます、みたいなものかな」
サヨが俺を見る。
「それは、レンが昨日言った言葉ですね」
「うん。日本で飯を食べる前に言ってた」
エルナも小さく呟く。
「村でも、今は言う人が増えています」
そうだった。
最初は俺だけ。
次にリナ。
家族。
村。
意味を完全に説明できなくても、言葉は人から人へ渡っていった。
サヨの里で残った祈りも、同じなのかもしれない。
「教えてください」
エルナが言った。
サヨが驚く。
「何を?」
「あなたの里の祈りです。意味は分からなくても構いません」
今度はサヨが戸惑う番だった。
「世界樹の神官が、私たちの祈りを?」
「まだ神官ではありません。見習いです」
そこを訂正するんだ。
エルナは胸元の印へ触れた。
「私は、自分が教えられてきたもの以外をほとんど知りません。それなのに、それだけが正しいと思っていました」
少しだけ苦しそうに笑う。
「今は、それが本当に正しいのかも分かりません。だから、知りたいのです」
サヨは長い間エルナを見つめていた。
そして、静かに頷いた。
「では、私にも教えてください」
「何をですか?」
「世界樹について。私は恐れるように育てられました。でも、何を恐れているのかさえ知りません」
二人の間に、ようやく会話が生まれた。
仲良くなったわけじゃない。
サヨはまだ世界樹の印を警戒しているし、エルナもサヨの伝承を全部信じたわけではない。
それでも、昨日とは違う。
相手を怖がるだけではなく、相手が何を知っているのか聞こうとしている。
俺は二人を眺めながら、鍋から自分の分のスープをよそった。
神様が違っても、飯は食える。
たぶん、それだけで全部解決するほど世界は簡単じゃない。
同じ卓を囲んだ次の日に、また喧嘩することだってあるだろう。
でも、同じ鍋からよそったものを食べながらなら、相手の話を一つくらい聞けるかもしれない。
今の俺にできるのは、そのくらいだった。
食事を終えた後、エルナは神殿へ戻る前にサヨへ小さく頭を下げた。
「また来ます」
「……はい」
「次は、里の祈りを教えてください」
サヨは少し迷ってから答えた。
「では、私は世界樹の話を聞きます」
エルナが頷く。
その胸元では銀色の世界樹が朝日を反射し、サヨの首元では緑色の勾玉が静かに揺れていた。
昨日までなら、俺にはまったく別のものに見えていた。
今も同じものだとは思わない。
でも、どちらも誰かが長い時間をかけて守り、次へ渡してきたものなのだろう。
正しいか間違っているかを決めるのは、その中身をもっと知ってからでいい。
俺は空になった三つの椀を重ねながら、そんなことを考えていた。




