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神々のいない食卓~日本の消えた異世界で、料理好きの俺は和食を作る~  作者: ちゃむたろう
第四章「稲種――消えた国の残り火」

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第38話 神様が違っても、飯は食える

翌朝、家の前で水を汲んでいた俺は、少し離れたところに立つエルナとサヨを見て、思わずため息をついた。


二人とも何も話していない。


正確には、話そうとしていない。


エルナは胸元の世界樹の印を握りながらサヨを気にしているし、サヨはサヨで、エルナが少し動くたびに銀色の印へ視線を向けている。昨日、供え物をした時には二人の持つ印が同時に反応した。それで少しは距離が縮まるかと思ったのだが、現実はそう簡単ではなかったらしい。


朝飯の席でも同じだった。


母さんが焼いた黒パンと、俺が作った野菜と燻製肉のスープを囲んでいるのに、二人の間だけ妙に空気が硬い。


「エルナ、塩取って」


俺が頼むと、エルナが塩壺を渡してくれる。


その手がサヨの前を通った瞬間、サヨの肩がわずかに強張った。


やっぱり気のせいじゃない。


「サヨ」


「何でしょう」


「エルナのこと、怖い?」


匙を持っていたエルナの手まで止まった。


もう少し遠回しに聞くべきだったかもしれない。


サヨはすぐには答えず、エルナの胸元へ視線を落とした。


「エルナ自身を恐れているわけではありません」


「では、何を?」


今度はエルナ本人が聞いた。


サヨは迷った末、静かに答えた。


「その印です」


部屋が静かになる。


世界樹。


ミズガルドでは、どこへ行っても見かける印だ。村の神殿にも、ベルクの中央にもあった。俺にとっては、この世界の宗教を象徴するものになっている。


でも、サヨの里では違うらしい。


「私たちの里には、昔から一つの言い伝えがあります」


サヨは膝の上で手を組んだ。


「『銀の樹に見つかるな』と」


エルナの顔が険しくなる。


「どういう意味ですか」


「分かりません」


「また、それですか」


声に苛立ちが混じった。


サヨも少し顔を上げる。


「意味が失われているのですから、そう答えるしかありません」


「それでは、世界樹が危険だと言っているのと同じではありませんか」


「私は危険だとは言っていません。見つかるな、と教えられただけです」


「同じです」


まずい。


昨日までは互いに警戒しているだけだったのに、今日はちゃんと喧嘩になりそうだ。


俺は口を挟んだ。


「二人とも、まだ何も分かってないんだから――」


「レンは黙っていてください」


「今はあなたに聞いていません」


同時に言われた。


なんで俺が怒られるんだ。


リナが隣で笑っている。


エルナは世界樹の印を握りしめた。


「私は、この印の下で育ちました。神々が世界樹を通して人を見守り、死者もその巡りへ還ると教えられてきたのです」


その声には、以前のような迷いのない強さはなかった。


神殿の像が壊れたこと。


聖火が消えたこと。


自分の印が割れ、知らない声を聞いたこと。


エルナ自身、もう教えられたことをそのまま信じられなくなっている。


だからこそ、サヨの言葉が痛いのだと思った。


疑っているのは自分自身なのに、他人から疑われると守りたくなる。


俺にも覚えがある。


前世の日本について何も知らない人に「そんな国、本当にあったのか」と言われたら、たぶん腹が立つ。


サヨは少し俯いた。


「私はあなたの神を否定したいのではありません」


「では、なぜその印を見るたびに怯えるのですか」


返事はすぐにはなかった。


やがてサヨが、自分の袖を握る。


「里が襲われた時、見たからです」


俺は顔を上げた。


第32話で、里を襲った者たちは黒い外套を着ていたと聞いた。顔を隠し、稲種を探していた。


「何を見たの?」


「襲ってきた者の一人が、外套の下に銀色のものを持っていました」


サヨは指で形を描く。


幹。


左右へ広がる枝。


「世界樹……?」


エルナが呟く。


「同じものかは分かりません。逃げる時に一度見ただけです。ただ、あの形を見た瞬間、祖母の言葉を思い出しました。銀の樹に見つかるな、と」


エルナの表情が変わった。


怒りが消え、代わりに困惑が浮かぶ。


「神殿の者が、そのようなことをするはずがありません」


「私にも分かりません」


「世界樹の印を持つ者が全員、神官とは限りません」


それでもエルナは苦しそうだった。


自分の信じているものと同じ印が、サヨの家族を傷つけたかもしれない。


簡単に受け入れられるはずがない。


「確かめよう」


俺が言うと、二人がこちらを見る。


「今の話だけじゃ、世界樹の神殿がやったのか、印を真似した別の奴なのか分からない。だから決めつけない方がいい」


エルナは黙った。


サヨも頷かない。


俺は続ける。


「俺だって日本のことなら何でも正しいとは思ってないよ」


言ってから、自分でも少し驚いた。


日本へ帰りたい。


日本が消された理由を知りたい。


その気持ちは強い。


でも、だからといって日本側が全部正しいと決めつけるのも違う。


ヴァルドは「神々の争いがあった」と言った。


争いなら、たぶん片方だけに理由があるわけじゃない。


今の俺には、まだ何も知らない。


「それにさ」


俺は残っていたパンを千切る。


「神様が違うからって、朝飯まで別々にする必要ある?」


二人が揃って俺を見る。


「……何ですか、その理屈」


エルナが呆れた。


「いや、だってスープ冷めるし」


「今は大事な話をしているのですが」


「腹減ってる時に話しても余計喧嘩するだろ」


前世でも、妹が空腹の時は機嫌が悪かった。


俺もそうだ。


たぶん神官見習いと巫女にも通用する。


「兄ちゃん、リナおなかいっぱい!」


「リナはもう食べたからな」


「おかわり!」


「いっぱいじゃないじゃん」


母さんが笑う。


張りつめていた空気が、少しだけ緩んだ。


俺はスープを二つの椀へよそい直し、エルナとサヨの前へ置いた。


「昨日の残りだけど、味は少し変えた」


燻製肉から出た脂を一度取り、潰した豆を加えて少しとろみをつけてある。香草も昨日より控えめにした。


サヨが一口食べる。


「昨日より柔らかい味ですね」


「怪我人向け」


「私はもう普通に食べられます」


「母さんの許可出るまでは病人」


「レンはミラさんの言うことには素直なのですね」


「逆らうと怖いから」


「聞こえてるわよ」


厨房から母さんの声が飛んできた。


エルナが吹き出した。


その笑いにつられたのか、サヨも少し笑う。


さっきまでの緊張が完全に消えたわけではない。


でも、食べ始める。


それだけで十分だった。


しばらくして、エルナがサヨへ尋ねた。


「あなたの里では、食事の前に何をするのですか?」


サヨは少し考える。


「特別な日は、御方へ一部を供えます。普段は……古い言葉を唱えます」


「どんな?」


サヨが口にした言葉は、この世界の言葉とは少し響きが違った。


けれど俺にも分からない。


日本語ではない。


長い年月の中で崩れたのか、もともと別の言葉なのかもしれない。


「意味は?」


エルナが聞く。


「分かりません。ただ、食べ物をいただく前に言うものです」


俺は匙を止めた。


食べる前。


言葉。


意味が失われても、形だけが残る。


「いただきます、みたいなものかな」


サヨが俺を見る。


「それは、レンが昨日言った言葉ですね」


「うん。日本で飯を食べる前に言ってた」


エルナも小さく呟く。


「村でも、今は言う人が増えています」


そうだった。


最初は俺だけ。


次にリナ。


家族。


村。


意味を完全に説明できなくても、言葉は人から人へ渡っていった。


サヨの里で残った祈りも、同じなのかもしれない。


「教えてください」


エルナが言った。


サヨが驚く。


「何を?」


「あなたの里の祈りです。意味は分からなくても構いません」


今度はサヨが戸惑う番だった。


「世界樹の神官が、私たちの祈りを?」


「まだ神官ではありません。見習いです」


そこを訂正するんだ。


エルナは胸元の印へ触れた。


「私は、自分が教えられてきたもの以外をほとんど知りません。それなのに、それだけが正しいと思っていました」


少しだけ苦しそうに笑う。


「今は、それが本当に正しいのかも分かりません。だから、知りたいのです」


サヨは長い間エルナを見つめていた。


そして、静かに頷いた。


「では、私にも教えてください」


「何をですか?」


「世界樹について。私は恐れるように育てられました。でも、何を恐れているのかさえ知りません」


二人の間に、ようやく会話が生まれた。


仲良くなったわけじゃない。


サヨはまだ世界樹の印を警戒しているし、エルナもサヨの伝承を全部信じたわけではない。


それでも、昨日とは違う。


相手を怖がるだけではなく、相手が何を知っているのか聞こうとしている。


俺は二人を眺めながら、鍋から自分の分のスープをよそった。


神様が違っても、飯は食える。


たぶん、それだけで全部解決するほど世界は簡単じゃない。


同じ卓を囲んだ次の日に、また喧嘩することだってあるだろう。


でも、同じ鍋からよそったものを食べながらなら、相手の話を一つくらい聞けるかもしれない。


今の俺にできるのは、そのくらいだった。


食事を終えた後、エルナは神殿へ戻る前にサヨへ小さく頭を下げた。


「また来ます」


「……はい」


「次は、里の祈りを教えてください」


サヨは少し迷ってから答えた。


「では、私は世界樹の話を聞きます」


エルナが頷く。


その胸元では銀色の世界樹が朝日を反射し、サヨの首元では緑色の勾玉が静かに揺れていた。


昨日までなら、俺にはまったく別のものに見えていた。


今も同じものだとは思わない。


でも、どちらも誰かが長い時間をかけて守り、次へ渡してきたものなのだろう。


正しいか間違っているかを決めるのは、その中身をもっと知ってからでいい。


俺は空になった三つの椀を重ねながら、そんなことを考えていた。


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