第37話 神様に供える飯
稲の芽を二本枯らしてしまってから、俺は毎朝、木箱の前で一度手を止めるようになった。
土が乾いているように見えても、すぐ水はやらない。葉が少し傾いていても、勝手に魔法を使わない。まず触って、見て、それからヨルンに聞く。以前の俺なら回りくどいと思ったかもしれないけれど、今はその時間も必要なのだと分かり始めていた。
残った芽は少しずつ伸びている。
まだ稲と呼ぶには頼りない細さだ。それでも小さな緑の葉が風に揺れるたび、最初に箱を開けた時よりも「いつか米になる」という実感が湧いてきた。
「このまま育ったら、秋くらいには食べられるかな」
俺がしゃがみ込んだまま言うと、隣にいたヨルンが鼻で笑った。
「気が早い」
「目標は必要だろ」
「昨日まで芽だったもん見ながら収穫後の飯考えてる奴は、気が早いって言うんだ」
反論しづらい。
実際、すでに頭の中では白い飯に何を合わせるか考えていた。最初は余計なことをせず、そのまま炊きたい。塩むすびもいい。焼き魚も欲しい。味噌がないのが本気で惜しい。
そんなことを考えていると、少し離れたところで芽を見ていたサヨが不思議そうに首を傾げた。
「レンは、その稲が実ったらすぐ食べるつもりなのですか?」
「全部は食べないよ。次に植える分はちゃんと残す」
前回怒られたことは覚えている。
少し誇らしげに答えたのに、サヨはまだ首を傾げている。
「そうではなくて……最初のものを、人が食べるのですか?」
「え?」
今度は俺が首を傾げた。
「人が食べる以外に何するの?」
「御前へお返しします」
聞き慣れない言い回しだった。
サヨ自身も正確な意味は分かっていないらしく、少し考えながら続ける。
「里に残る古い言い伝えです。日の種が実った時、その年の最初の実りは自分たちで口にしてはいけない。まず炊き、清い器へ盛って、御前へ置くのだと」
「誰の前?」
「分かりません」
また、それだ。
サヨたちの伝承には、肝心なところが抜け落ちている。
何をするかは残っている。
でも、なぜするのか。
誰にするのか。
そこだけが消えている。
「神様とか?」
俺が聞くと、サヨはゆっくり頷いた。
「おそらく。ただ、名は伝わっていません。私たちは『御方』とだけ呼んでいました」
その言葉を聞いた瞬間、前世の神社が頭に浮かんだ。
じいちゃんのいる神社でも、祭りの日には米や酒、塩、魚、野菜なんかが並べられていた。
神饌。
俺は詳しい作法までは知らない。子供の頃は「神様って食べるのかな」なんて思っていたし、じいちゃんに聞いた時も難しい話をされて半分くらいしか覚えていない。
ただ、一つだけ覚えている。
『人間が先にいただくんじゃない』
確か、そんなことを言っていた。
実りを自分たちだけのものだと思わず、最初に神様へ差し上げる。
それから人がいただく。
サヨの話と、よく似ている。
「レン?」
呼ばれて我に返る。
「俺のいたところにも、似たことがあった」
サヨの目が大きくなった。
「本当ですか?」
「神社って場所で、米とか酒とか、食べ物を神様に供えるんだ。神饌って言ってた」
「シンセン……」
サヨはその言葉を何度か繰り返した。
また一つ、意味を失っていたものに名前が戻った。
そんな感じがした。
その日の午後、家へ戻ると久しぶりの顔が来ていた。
「おかえりなさい、レン」
エルナだった。
ベルクへ出る前より少し背が伸びたような気もするが、胸元には以前と同じ世界樹の印が下がっている。ただし、あの時一度壊れたものを修復したらしく、中央には細い継ぎ目が残っていた。
「久しぶり」
「数日しか経ってません」
「町行くと長く感じるんだよ」
俺が笑うと、エルナも少しだけ笑った。
神殿で起きた出来事以来、彼女は以前のように何でも教義通りに断言しなくなった。それでも神官見習いを辞めたわけではない。分からなくなったからこそ、逃げずに残っているのだと前に聞いた。
「怪我人がいると聞きました。薬草を持ってきたのですが」
「ああ、サヨなら中に――」
そう言いかけたところで、ちょうど本人が母さんに支えられながら奥の部屋から出てきた。
エルナとサヨの視線がぶつかる。
先に反応したのはサヨだった。
彼女の顔から、すっと表情が消えた。
視線はエルナではなく、その胸元へ向いている。
銀色の世界樹。
「その印……」
サヨの声が低くなる。
「何ですか?」
エルナも警戒したように身体を固くした。
嫌な空気だ。
俺は慌てて二人の間へ入る。
「サヨ。この人はエルナ。村の神殿で神官見習いしてる」
「神殿……」
サヨの警戒は消えない。
エルナも白い衣と赤い袴を珍しそうに見ている。
「あなたは?」
「……巫女です」
エルナの眉が動いた。
「ミコ?」
今度は彼女が知らない。
同じように神様へ関わる役目なのに、お互いの言葉が通じない。
妙な感じだった。
夕食の準備をしながら、俺は昼間サヨから聞いた話をエルナにもした。
稲。
最初の実り。
人が食べるより先に、名のない神へ供えるという作法。
話を聞き終えたエルナは、しばらく黙っていた。
「神々は、食事を必要としません」
昔なら、そこで話が終わっていたと思う。
でも今のエルナは、その後に少し迷った。
「……少なくとも、私はそう教えられました」
俺はその違いに気づいた。
サヨが静かに答える。
「私も、神が食べるとは教わっていません」
「では、なぜ供えるのですか?」
「分かりません」
エルナが困惑する。
当然だ。
意味が分からないまま何代も続けているというサヨの話は、教義を学んできたエルナには理解しづらいのかもしれない。
それでもサヨは少し考え、言葉を選んだ。
「ただ、祖母は言っていました。『いただく前に、お返しするのだ』と」
「誰に?」
「それも分かりません」
エルナはますます困った顔になる。
俺は鍋を混ぜながら、その会話を聞いていた。
お返しする。
食材は自分一人で生み出したものではない。
土。
水。
日。
育てた人。
獲った人。
運んだ人。
前世では、それを全部まとめて「いただきます」と言っていた気がする。
俺自身、宗教的な意味を完璧に説明できるわけじゃない。ただ、食べ物を自分だけの力で手に入れたと思わないための言葉だったのかもしれない。
「やってみる?」
俺が言うと、二人が同時にこちらを見る。
「何をですか?」
「供えるやつ」
エルナが不安そうな顔をする。
「以前、それをして何が起きたか覚えていますか?」
もちろん覚えている。
俺が神饌を真似して料理を供えた時、大陸中の世界樹の聖火が一瞬消えたらしい。村では季節外れの芽まで出た。
しかも、あの声には「まだ名を呼ぶな」と言われた。
だから今回は、名前を呼ばない。
誰かを無理に起こそうともしない。
ただ、食事を少し分けるだけ。
夕食が完成すると、俺は小さな木皿へほんの少しずつ料理を盛った。
東穀。
野菜の煮物。
焼いた肉。
塩。
そして水。
豪華ではない。
普段俺たちが食べているものだ。
家の隅に清潔な布を敷き、その上へ木皿を置く。
エルナは複雑そうな顔で見ている。
サヨは膝をつき、静かに頭を下げた。
俺も隣へ座る。
でも、何と言えばいいのか分からない。
天照大御神。
その名前が頭をよぎる。
地下の石板。
前世の神社。
けれど呼ばない。
まだ名を呼ぶな。
あの言葉を忘れてはいない。
だから俺は、名前ではなく、自分が知っている言葉を口にした。
「……いただきます」
食べる前の言葉を、食べる前に。
それだけだった。
光は出なかった。
地面も揺れない。
神様の声も聞こえない。
俺は少しだけ安心した。
ところが、隣で小さく息を呑む音がした。
エルナだった。
彼女が胸元の世界樹の印を握っている。
「どうした?」
「……温かい」
「え?」
「この印が」
俺が近づくと、確かに銀色の世界樹の中央、かつて割れた部分だけが淡い熱を持っていた。
光ってはいない。
壊れてもいない。
ただ、誰かが向こう側から触れているように、ほんのり温かい。
サヨの勾玉も同じだった。
彼女が掌へ乗せると、緑色の石の内側にごく小さな白い光が揺れている。
二人は互いの印を見る。
さっきまで警戒していたはずなのに、今はどちらも戸惑っていた。
世界樹の神は食べ物を必要としない。
名を失った神には、最初の実りを供える。
どちらが正しいのか、俺には分からない。
もしかしたら、どちらも間違っていないのかもしれない。
神様が本当に飯を食うかどうかなんて、今の俺にはどうでもよかった。
ただ、食べる前に誰かを思い出す。
自分だけで手に入れたものではないと考える。
そして、少し分ける。
それなら俺にも分かる。
俺は供えた皿を見ながら、まだ小さな稲の芽のことを思った。
いつかあれが実った時、最初の一膳をここへ置くのだろう。
誰の名前も呼ばずに。
それでも、その一膳が誰かへ届くような気がしていた。




