第36話 米を育てる魔法
種籾を十二粒に分けてから、三日目の朝だった。
俺は目を覚ますと、顔も洗わず家の裏へ走った。昨日までは何の変化もなかった木箱の一つから、ほんの少しだけ白いものが覗いていたからだ。
「出てる……!」
しゃがみ込んで顔を近づける。
川辺の湿った土を入れた箱。その中に置いた種籾の一つから、細い芽が伸びていた。まだ爪の先より小さい。それでも、間違いなく生きている。
胸の奥が一気に熱くなった。
「サヨ! ヨルン! 芽が出た!」
村中に聞こえるんじゃないかという声で叫んだ。
最初にやってきたのはリナだった。寝巻きのまま走ってきて、俺の隣へしゃがみ込む。
「おこめ?」
「まだ米じゃない。これから米になるやつ」
「ちっちゃい」
「最初はみんなこんなもんなんだよ」
言いながら、自分でも不思議な気分になった。
前世では、米は袋に入って売られているものだった。炊飯器へ入れれば、ご飯になる。それが当たり前だった。
でも今、目の前にあるのは、そのずっと手前だ。
たった一つの芽。
これが育って、葉を出して、穂をつけて、そこに何十粒もの米ができる。
もし成功すれば。
数百粒しかない種が、何千粒、何万粒になるかもしれない。
想像しただけで、気持ちが先へ走りそうになる。
「騒ぐな。芽が出ただけだ」
後ろからヨルンの声がした。
「だけって何だよ。すごいだろ!」
「すごい。だから触るな」
伸ばしかけていた指を止める。
「触らないよ」
「昨日、水やり三回しようとしてた奴が言っても信用できん」
「乾いてる気がしたんだよ」
「気がした、で畑に水やるな」
やっぱり農業には厳しい。
少し遅れてサヨもやってきた。まだ傷が完全には治っていないため、母さんから長く歩くなと言われている。
彼女は木箱の前へしゃがむと、しばらく何も言わなかった。
「……本当に、芽が出るのですね」
声が震えていた。
「里では育ててなかったの?」
「私が生まれてからは、一度も」
意外だった。
「じゃあ、ずっと種のまま?」
「はい。昔は育てていたという伝承があります。ただ、いつからか育て方が分からなくなりました。残っている種を失うのが怖くて、代々ほんの少しずつ保存するだけになったのです」
守るために、育てない。
一見おかしい。
でも、残りが少なくなればなるほど挑戦できなくなる気持ちは分かる。
失敗すれば終わる。
だから何もしない。
そうして、育て方そのものが消えていった。
「今度は増やそう」
俺が言うと、サヨは芽から目を離さないまま頷いた。
それからさらに二日。
十二粒のうち、七粒が芽を出した。
乾いた土では一粒だけ。
畑の土では二粒。
湿った土では三粒。
水を張った泥では一粒。
この時点では、湿った土が一番良さそうに見えた。
「やっぱり水が好きなんじゃない?」
俺は得意になって言った。
ヨルンは木箱を見比べる。
「まだ分からん」
「三粒出てるよ」
「芽が出るのと育つのは別だ」
「でも傾向はあるだろ?」
「あるかもしれん。だから続けて見る」
慎重すぎる気もした。
けれど、第34話で散々言われたばかりなので従う。
少なくとも、そのつもりだった。
問題が起きたのは、その翌日の昼だった。
空には雲がほとんどなく、朝から強い日差しが照りつけていた。
木箱を確認すると、湿った土から出ていた三本の芽のうち一本が、少し萎れている。
「まずい」
土へ触れる。
表面が乾いている。
水。
そう思って桶を持ち上げたところで、ヨルンの言葉が頭をよぎった。
勝手に水をやるな。
俺は桶を置く。
でも、芽を見る。
昨日までは真っ直ぐだったのに、今は少し曲がっている。
このまま待って大丈夫なのか。
ヨルンは畑へ行っている。
夕方まで帰らないかもしれない。
もし、その間に枯れたら。
これは普通の種じゃない。
サヨの一族が何代も守ったものだ。
一粒だって無駄にしたくない。
そこまで考えたところで、俺は水魔法を使った。
大量にかけるわけじゃない。
ほんの少しだけ。
土の中へ均等に水分を届ける。
桶で上から流すより、その方が優しいはずだ。
俺は指先へ魔力を集め、木箱の土へ少量の水を染み込ませた。
うまくいった。
表面を濡らしすぎず、中だけが湿っていく。
「これなら……」
むしろ魔法の方が農業に向いているんじゃないか。
そんな考えが浮かんだ。
だったら、土の温度も調整できるかもしれない。
今日は暑い。
芽が弱っているなら、少しだけ冷やしてやればいい。
ゼクトと冷却の実験をした時の感覚を思い出す。
熱を移す。
箱の中から外へ。
ほんの少し。
俺は魔力を流した。
最初は何も変わらなかった。
もう少しだけ。
土が僅かに冷たくなる。
うまくいっている。
そう思った。
だから、あと少しだけ強くした。
次の瞬間、土の表面に薄い白い膜が広がった。
「え?」
霜。
気づいた時には遅かった。
慌てて魔法を止める。
凍ったのはほんの一瞬だった。
すぐ日差しで溶けた。
大丈夫。
そう思いたかった。
でも、細い芽の一本が力を失うように倒れた。
「待って」
指で触れる。
茎が柔らかい。
さっきまで緑だった部分が、少し透けている。
「待ってよ」
水をやるべきか。
温めるべきか。
何かすれば助かるかもしれない。
でも、何をすればいい。
分からない。
分からないのに、また魔法を使おうとしている自分に気づいた。
手が止まった。
「何をしたのですか」
背後から声がした。
サヨだった。
俺は振り返れなかった。
「……少し、冷やそうと思って」
声に出すと、自分でも馬鹿みたいに聞こえた。
「暑かったから。芽が萎れてたから、土を少し冷やせばいいと思って……」
サヨが隣へしゃがむ。
倒れた芽を見る。
何も言わない。
その沈黙が、一番つらかった。
「ごめん」
やっとそれだけ言えた。
「勝手にやった。ヨルンにも相談しろって言われてたのに」
サヨは倒れた芽へ手を伸ばさなかった。
しばらく見つめた後、静かに尋ねた。
「戻せますか?」
答えは分かっていた。
「……分からない」
たぶん、無理だ。
翌朝、その芽は完全に枯れた。
さらに同じ箱にあったもう一本も弱り、二日後には駄目になった。
十二粒。
その中の二粒を、俺が失った。
数だけ見れば二粒だ。
でも、俺にはそう思えなかった。
サヨの祖先が何代も守ってきた時間を、自分の「少しくらいなら大丈夫」で削った。
その事実が重かった。
「レン」
ヨルンが俺の隣へ腰を下ろした。
怒鳴られると思っていた。
でも、怒鳴らなかった。
「なんで勝手にやった」
「枯れそうだったから」
「助けたかった?」
「うん」
「で、急いだ」
俺は頷く。
ヨルンは枯れた芽を見る。
「農家もやる」
「え?」
「助けようとして、余計なことをする。水をやりすぎる。肥料を入れすぎる。虫が怖くて薬草を撒きすぎる。何年やっても、ある」
少しだけ顔を上げた。
「じゃあ、どうすればいい?」
「失敗した理由を忘れないことだ」
ヨルンは立ち上がり、残った木箱を指差す。
「魔法が悪いんじゃねえ。使い方も分からんのに、結果だけ急いだのが悪い」
痛いほど、その通りだった。
「なら、次は測るぞ」
「測る?」
「お前の魔法を使う前と後で、土がどう変わったか記録する。水をどれだけ入れたか。どれくらい冷えたか。芽がどうなったか。感覚だけでやるな」
俺は驚いてヨルンを見る。
「魔法、使っていいの?」
「勝手には駄目だ」
そこは変わらないらしい。
「だが便利なもんを、怖いから使わないってのも違う。俺は魔法を知らん。お前は農業を知らん。なら、二人でやればいい」
第34話でも似たことを言われた。
一緒に調べる。
俺はようやく、その意味が分かり始めた気がした。
俺の知識だけでは足りない。
ヨルンの経験だけでも、この稲のことは分からない。
だから互いに持っているものを出す。
魔法を作物に従わせるのであって、作物を魔法の都合に合わせるんじゃない。
俺は枯れた二本の芽を、小さな土の穴へ埋めた。
サヨも隣にいた。
「ごめん」
もう一度言う。
「次は、ちゃんと考える」
サヨは少しだけ困ったように笑った。
「次があるから、種を植えたのでしょう」
その言葉に救われた気がした。
食べれば、一度で終わる。
植えれば、増えるかもしれない。
でも植えれば、失敗もする。
それでも残った種から学び、次へつなげることができる。
俺は残った小さな芽を見つめた。
米を育てる魔法なんて、たぶん一つの呪文では作れない。
必要なのは、水を出す力でも、土を冷やす力でもない。
作物を見て、農家に聞いて、失敗を覚えて、それでも次の一粒を育てるために魔法を使うこと。
少なくとも今の俺には、それが一番正しい「米を育てる魔法」に思えた。




