第35話 七歳児、田んぼを作る……前に止められる
翌朝、俺は鍬を担いで家を出た。
昨日までの俺なら、自分でもかなり無茶な行動だと思ったかもしれない。けれど今は目的がある。サヨが命懸けで運んできた稲種を増やす。そのためには田んぼが必要だ。
前世で田んぼなら何度も見た。
春には水が張られ、等間隔に苗が並び、夏になると一面が緑になって、秋には黄金色の穂が垂れる。じいちゃんの神社の裏手にも田んぼが広がっていて、子供の頃は蛙を捕まえに入ろうとして怒られたこともある。
仕組みだって、大まかには分かる。
土を耕す。
水を張る。
苗を植える。
育ったら収穫。
しかも俺には水魔法がある。土を柔らかくする魔法も少しなら使える。前世より条件はいいくらいじゃないか。
そう考えながら、村外れの空き地へ向かっていた。
「兄ちゃん、どこいくの?」
後ろからリナがついてくる。
「田んぼ作る」
「たんぼ?」
「お米を育てる場所」
「おこめ!」
食べ物だと分かった途端、目が輝いた。
「リナもやる!」
「泥だらけになるぞ」
「やる!」
三歳児の決意は固いらしい。
結局、俺はリナを連れて村の南側まで来た。少し窪んだ土地があり、近くには小さな川も流れている。水を引くには悪くなさそうだ。
地面へしゃがみ込み、土を触る。
少し硬い。
でも魔法で崩せばいい。
川から溝を掘って水を引き、ここへ溜める。水が漏れないよう周囲を土で囲めば、それっぽくなるはずだ。
頭の中では、すでに秋の景色まで出来上がっていた。
黄金色の稲穂。
炊きたての白米。
焼き魚。
味噌汁はまだないけど、そのうち作りたい。
漬物なら今でもできる。
問題は茶碗と箸だな、なんてことまで考えていた時だった。
「何やってる」
低い声が後ろから飛んできた。
振り返る。
五十代くらいの男が、腕を組んで立っていた。
日焼けした顔。
太い指。
服にも靴にも土が染み込んでいる。
村の農家の一人、ヨルンだ。
家が少し離れているので話す機会は多くなかったが、村で一番広い畑を持っている人だということは知っている。
「田んぼ作る」
俺が答えると、ヨルンはしばらく黙った。
「タンボってのは何だ」
「水を張った畑。ここで稲を育てたいんだ」
「イネ?」
説明するより見せた方が早い。
俺は懐から一粒だけ持ってきた種籾を取り出した。
昨夜、サヨに頼んで借りたものだ。
ヨルンは俺の掌から種を摘まみ、目の前へ持ち上げる。
「見たことねえな」
「東から来た種なんだ。育てると米が取れる」
「食えるのか」
「すごく美味い」
まだこの世界では食べていないけど、たぶん。
いや、絶対。
ヨルンは種籾を俺へ返した。
「で、どう育てる」
「まず土を耕して、水を張って――」
「どれくらい深く?」
止まる。
「……このくらい?」
手で適当に示す。
ヨルンの顔が険しくなった。
「水はいつまで張る」
「育つまで?」
「ずっとか?」
「たぶん途中で抜く時期も……あったような」
「種はそこへ直接放るのか」
「いや、苗にしてから植える……はず」
「苗はどこで育てる」
答えられない。
「いつ植える」
「春」
「今は春の終わりだ」
「まだ間に合うかもしれない」
「この種は寒さに強いのか」
「知らない」
「暑さは?」
「知らない」
「水に浸けたら腐らねえのか」
「……知らない」
ヨルンが深いため息を吐いた。
隣でリナが、なぜか俺の真似をしてため息を吐く。
やめて。
「お前な」
ヨルンは地面を指差した。
「その種、どれだけある」
「数百粒くらい」
「それしかねえのに、何も知らず全部植える気だったのか?」
胸に刺さった。
昨日サヨに言われたばかりだ。
食べれば一度で終わる。
植えれば増える。
だから育てようと思った。
でも俺は、「植えれば増える」の部分だけを簡単に考えていた。
植えても、育たなければ終わる。
むしろ食べるよりひどい。
種そのものがなくなる。
「……全部じゃないよ」
言い訳する。
「じゃあ何粒」
「それは、これから」
「決めてねえんじゃねえか」
何も言えなかった。
ヨルンは俺から鍬を取り上げた。
「今日は掘るな」
「でも、早くしないと季節が」
「だからこそ掘るな」
強い声だった。
俺は反射的に黙った。
「作物は、お前の都合で待ってくれねえ。料理なら失敗しても次の肉を焼けばいいかもしれんが、畑は次が一年後になることもある」
その言葉で、少しだけ腹が立った。
料理だって簡単じゃない。
失敗した食材は戻らない。
そう言い返そうとして、やめた。
ヨルンは料理を馬鹿にしているわけじゃない。
時間の話をしている。
鍋の中の失敗と、畑の失敗では長さが違う。
「一回、全部駄目にしたことがあるんだ」
ヨルンが突然言った。
俺は顔を上げる。
「若い頃、親父の言うこと聞かずに早く種を撒いた。暖かくなったから大丈夫だと思ってな。その後で霜が来た」
遠くの畑を見る。
「畑一枚、ほとんど死んだ。種も金もなくなって、その年は冬までずっと借りを作った」
だから怒っているのか。
知らない種を持ってきた七歳児が、魔法でどうにかなると言って土を掘ろうとしている。
昔の自分を見ているのかもしれない。
「魔法で温度を調整すれば――」
口にしてから、自分で止めた。
まただ。
何か問題を言われるたび、すぐ魔法で解決しようとする。
ヨルンも気づいたらしい。
「その魔法、一日中使えるか?」
「無理」
「百日なら?」
当然無理だ。
「畑は毎日ここにある。雨の日も、お前が寝てる間もな」
俺は地面を見る。
料理なら、作っている間ずっと鍋の前にいられる。
でも作物は違う。
何か月も生き続ける。
俺が見ていない時にも育つ。
その間ずっと魔法で無理やり環境を作るなんて、現実的じゃない。
「……じゃあ、どうすればいい?」
昨日までなら、自分で考えてから聞いたと思う。
今日は最初から聞いた。
ヨルンは少しだけ眉を上げる。
「まず、その種を調べる」
「どうやって?」
「全部使うな。十粒か二十粒だけ水に浸けろ。芽が出るか見る。土も一種類じゃ試すな。乾いた場所、湿った場所、泥にした場所。分けてやる」
なるほど。
「最初から田んぼ作らないの?」
「その種が本当に水を好むかも知らねえんだろ」
俺は言葉を失った。
あまりにも当たり前だった。
日本の稲だから水田。
俺は完全にそう決めつけていた。
でも、この種が前世とまったく同じ稲だという保証はない。何百年、何千年とこの世界で守られてきたなら、性質が変わっている可能性だってある。
「それに、この土地は駄目だ」
ヨルンが俺の選んだ場所を指差した。
「なんで? 川近いよ」
「だからだ。雨が続いたら水が溢れる。ここは昔、川が増水した時に全部沈んだ」
知らなかった。
俺には「水を引きやすい場所」にしか見えなかった。
ヨルンには、その土地が過去にどうなったかまで見えている。
この差は大きい。
「畑って難しいんだな」
思わず言うと、ヨルンが鼻で笑った。
「今さら気づいたか」
「料理も難しいよ」
「知ってる。お前の燻製、うちでも作ってる」
ちょっと嬉しい。
それは顔に出さないようにした。
「教えてくれる?」
俺が聞くと、ヨルンは少し考えた。
「条件がある」
「何?」
「勝手に魔法使うな」
痛いところを突く。
「必要なら相談してからにしろ。お前の魔法が使えるなら便利なこともあるだろうが、何でも魔法でいじればいいってもんじゃねえ」
「……分かった」
「あと、俺の言うことも全部信じるな」
意外な言葉だった。
「え?」
「俺もその種は知らねえ。いつもの麦や豆なら分かるが、そいつについてはお前と大して変わらん」
ヨルンは俺の掌にある種籾を見る。
「だから、一緒に調べる」
その言葉が嬉しかった。
教えてもらうだけじゃない。
俺も知らない。
ヨルンも知らない。
だから試す。
失敗できる範囲を決めて、少しずつ。
ゼクトとの冷却実験にも似ている。
料理も。
魔法も。
農業も。
結局、知らないものを相手にする時は同じなのかもしれない。
俺は鍬を受け取ろうと手を出した。
ヨルンは渡してくれなかった。
「今日は使わねえぞ」
「分かってるって」
「さっきまで川から水引く気だった奴を信用できるか」
「俺の信用低すぎない?」
「兄ちゃん、ひくかった!」
リナまで笑う。
納得いかない。
その日の午後。
俺たちは田んぼを作らなかった。
代わりに小さな木箱をいくつも用意し、違う土を入れた。
乾いた土。
畑の土。
川辺の湿った土。
少量の水を張った泥。
種籾も全部は使わない。
サヨと相談して、まず十二粒。
たった十二粒だった。
でも、箱へ一粒ずつ置く時、昨日よりずっと緊張した。
一粒が食べ物になるまでに、こんなに考えることがある。
水。
土。
気温。
季節。
そして時間。
俺はずっと、美味しい料理を作るには包丁と火の扱いが大事だと思ってきた。
もちろん、それは間違っていない。
ただ、その包丁を握るよりずっと前から、料理は始まっている。
土の中に種を置く、その瞬間から。




