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神々のいない食卓~日本の消えた異世界で、料理好きの俺は和食を作る~  作者: ちゃむたろう
第四章「稲種――消えた国の残り火」

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第34話 稲は、食べればなくなる

サヨが木箱を開けると言ったのは、それから二日後のことだった。


傷はまだ塞がりきっていないものの、一人で身体を起こせる程度には回復している。朝食に出した東穀の柔らかい粥も半分ほど食べられるようになり、母さんから「今日なら少し歩いてもいい」と許可が出たらしい。


場所に選んだのは、家の裏にある小さな物置だった。


なぜそんな場所なのかと聞くと、サヨは「人の少ないところがいいのです」と答えた。何代にもわたって守られてきたものを開けるのだから、気持ちは分からなくもない。


立ち会ったのは俺とサヨ、それからハーゲンだけだった。カイルは当然のようについてこようとしたが、今回はサヨが首を横に振ったので諦めてもらった。


もっとも、扉の向こうから「終わったら絶対見せろよ!」と声がしたので、たぶん近くにはいる。


サヨは木箱を膝に置いた。


街道で見つけた時から一度も手放さなかった箱だ。木はかなり古く、角は擦れて丸くなっている。蓋に刻まれた『稲種』の二文字だけが、不思議なくらいはっきり残っていた。


「開けます」


そう言って、サヨは首から勾玉を外した。


何をするのかと思っていると、箱の側面にある小さなくぼみへ勾玉を差し込む。曲がった形がぴたりとはまり、軽く回すと、かちりという音がした。


「鍵だったの?」


「そう教えられています。なぜこの形なのかは知りません」


勾玉を鍵にする。


前世の俺が知っている勾玉とはずいぶん用途が違う気もする。でも、これ自体が後から作られた仕組みなのかもしれない。


サヨがゆっくり蓋を持ち上げる。


中にはさらに布が何重にも重ねられていた。


一枚目は白。


二枚目は茶色。


その下には、油を染み込ませたような紙。


湿気を防ぐためだろうか。


サヨの一族がどれだけ大事に扱ってきたのか、それだけで伝わってくる。


最後の布が開かれた。


俺は息を止めた。


細長い籾が、ほんの一握りだけ入っていた。


東穀とは違う。


形。


色。


外側を覆う硬そうな殻。


前世で祖父の神社近くにあった田んぼで、何度も見たことがある。


「……米だ」


正確には、まだ米ではない。


籾だ。


稲の種籾。


でも、見間違えるはずがなかった。


胸の奥から一気に何かが込み上げる。


思わず一粒へ手を伸ばしかけた。


そこで止まった。


「触ってもいい?」


サヨが頷く。


一粒だけ掌へ乗せてもらう。


軽い。


驚くほど軽い。


たったこれだけのものを、何代もの人間が守ってきた。


俺は籾を指先で転がしながら、頭の中ですでにその先を考えていた。


殻を取る。


精米する。


炊く。


白い湯気。


茶碗。


箸。


味噌汁があれば最高だ。


漬物。


焼き魚。


そこまで想像したところで、腹が鳴った。


ハーゲンが俺を見る。


「随分と分かりやすいですね」


「仕方ないだろ」


本物の米かもしれない。


七年ぶりだ。


東穀だってかなり近かった。でもこれは、もっと近い。


炊いてみたい。


どうしても。


「サヨ」


「はい」


「少しだけ、食べてみてもいい?」


空気が変わった。


サヨの表情から、さっきまでの柔らかさが消えた。


「駄目です」


即答だった。


「一粒じゃ味分かんないから、ほんの少しでいいんだけど」


「駄目です」


「全部食べるわけじゃないよ」


「一粒でも駄目です」


思っていた以上に強い拒絶だった。


俺も少し意地になる。


「でも、食べ物なんだろ?」


「違います」


「稲なら食べ物だよ」


「これは種です」


言葉がぶつかる。


俺には同じものに思えた。


稲は育てて米にして、食べるためのものだ。食べ物として美味しいか確かめるのは、料理人なら当然じゃないのか。


「味も分からないのに、どうするか決められないだろ」


「味を知る必要などありません」


「なんで?」


「食べるために持ってきたのではないからです!」


サヨの声が物置に響いた。


傷が痛んだのか、すぐに脇腹を押さえる。


俺は慌てて近づこうとしたが、サヨは手で制した。


「これがどれほど残っていると思っているのですか」


その声は、さっきより小さかった。


でも怒りは消えていない。


「里にあった種のほとんどは、もう失われました。育たなかった年もあります。病で枯れたこともあったと聞きました。守っていた家が焼けたこともあります。それでも少しずつ残し、次へ渡してきたのです」


俺は掌の一粒を見る。


軽い。


こんなに軽いものに、何世代もの時間が乗っている。


「私が持ち出せたのは、それだけです」


箱の中には、多く見積もっても数百粒程度しかない。


茶碗一杯にもならない。


「でも、全部を植えたって育つとは限らないだろ」


「だからこそ、食べることはできません」


サヨは箱を両手で抱えた。


「食べれば、一度で終わります。植えれば、増えるかもしれません」


その一言で、俺は何も言えなくなった。


食べれば、一度で終わる。


植えれば、増える。


当たり前のことだ。


知識としてなら分かっていた。


米は田んぼで育つ。


種籾を植える。


稲穂が実る。


収穫する。


そんなことは小学校でも習った。


それなのに俺は、箱を開けた瞬間から「どう炊くか」しか考えていなかった。


食材を見れば料理を考える。


それ自体は悪くない。


でも、この種については、その前がある。


誰かが育てなければ、料理する米そのものが存在しない。


前世ではスーパーに行けば米が袋に入っていた。


米びつが減れば買い足した。


その向こう側で誰かが苗を育て、水を管理し、稲を刈り、乾かし、精米していたことなんて、ほとんど意識したことがなかった。


俺は料理を知っているつもりで、食卓より前のことをほとんど知らない。


第26話で丸鳥を前にした時と同じだった。


知らない。


また一つ、知らないことが出てきた。


「……ごめん」


俺は種籾をサヨへ返した。


「食べることしか考えてなかった」


サヨはすぐには答えなかった。


怒らせた。


当然だ。


命を懸けて運んできたものを、目覚めて数日で「食わせて」と言われたのだから。


しばらくして、サヨの表情が少しだけ緩んだ。


「私も、言い方が強すぎました」


「いや。怒っていいと思う」


「でも、あなたが食べたいと言ったことが……少し嬉しくもあります」


「どっち?」


思わず聞くと、サヨは困ったように笑った。


「私たちは、これが何なのか知りませんでした。ただ守れと言われたから守ってきた。それを見て、あなたはすぐに『米だ』『食べられる』と言った」


箱の中を見つめる。


「初めて、この種が何のために存在するのか分かった気がしたのです」


その言葉を聞いて、俺も種籾を見る。


守るだけでは意味がない。


食べるだけでも終わってしまう。


育てる。


増やす。


そして、その一部を食べる。


また種を残す。


当たり前の循環。


でも、その当たり前こそが、サヨたちの一族から失われていたのかもしれない。


「じゃあ、育てよう」


俺が言うと、サヨが顔を上げた。


「できますか?」


「田んぼ作ればいいんだろ?」


前世で見た景色が頭に浮かぶ。


水を張った田んぼ。


泥。


苗。


秋になれば黄金色の稲穂。


魔法もある。


水なら出せる。


土だって耕せる。


村には土地もある。


いける。


「水を引いて、土を柔らかくして、苗を植えれば――」


「レン君」


ハーゲンが口を挟んだ。


嫌な予感がする声音だった。


「何?」


「米を育てた経験は?」


「ない」


「田んぼを作った経験は?」


「ない」


「稲を植える季節は?」


「……春?」


「疑問形ですね」


「でも、だいたいは分かるよ」


「どのくらいの水深が必要です?」


答えられない。


「種を直接地面へ撒くのですか?」


分からない。


「病気になった場合は?」


知らない。


ハーゲンがにこりと笑った。


「なるほど。何も分かっていませんね」


ぐうの音も出なかった。


サヨが口元を押さえている。


笑ったな。


「でも、村には農家がいる」


俺は言い直した。


今度は勢いだけではない。


自分にできないなら、できる人へ聞けばいい。


ローデンから鳥の捌き方を教わった。


ゼクトから魔法を教わった。


なら、今度は農家だ。


「俺は米の食べ方なら知ってる。でも育て方は知らない。だから、知ってる人に手伝ってもらおう」


サヨは静かに頷いた。


俺は箱の中の種を見つめる。


今すぐ食べることはできない。


正直、かなり残念だ。


それでも初めて、白い飯を食べることより楽しみなことが一つできた。


この一握りの種が、本当に増えるのか。


秋になったら、どんな景色になるのか。


そしていつか、自分たちで育てた米を炊ける日が来るのか。


料理は厨房から始まるものだと思っていた。


どうやら違ったらしい。


一杯の飯が食卓へ届くよりずっと前、料理は一粒の種から始まっている。


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