第34話 稲は、食べればなくなる
サヨが木箱を開けると言ったのは、それから二日後のことだった。
傷はまだ塞がりきっていないものの、一人で身体を起こせる程度には回復している。朝食に出した東穀の柔らかい粥も半分ほど食べられるようになり、母さんから「今日なら少し歩いてもいい」と許可が出たらしい。
場所に選んだのは、家の裏にある小さな物置だった。
なぜそんな場所なのかと聞くと、サヨは「人の少ないところがいいのです」と答えた。何代にもわたって守られてきたものを開けるのだから、気持ちは分からなくもない。
立ち会ったのは俺とサヨ、それからハーゲンだけだった。カイルは当然のようについてこようとしたが、今回はサヨが首を横に振ったので諦めてもらった。
もっとも、扉の向こうから「終わったら絶対見せろよ!」と声がしたので、たぶん近くにはいる。
サヨは木箱を膝に置いた。
街道で見つけた時から一度も手放さなかった箱だ。木はかなり古く、角は擦れて丸くなっている。蓋に刻まれた『稲種』の二文字だけが、不思議なくらいはっきり残っていた。
「開けます」
そう言って、サヨは首から勾玉を外した。
何をするのかと思っていると、箱の側面にある小さなくぼみへ勾玉を差し込む。曲がった形がぴたりとはまり、軽く回すと、かちりという音がした。
「鍵だったの?」
「そう教えられています。なぜこの形なのかは知りません」
勾玉を鍵にする。
前世の俺が知っている勾玉とはずいぶん用途が違う気もする。でも、これ自体が後から作られた仕組みなのかもしれない。
サヨがゆっくり蓋を持ち上げる。
中にはさらに布が何重にも重ねられていた。
一枚目は白。
二枚目は茶色。
その下には、油を染み込ませたような紙。
湿気を防ぐためだろうか。
サヨの一族がどれだけ大事に扱ってきたのか、それだけで伝わってくる。
最後の布が開かれた。
俺は息を止めた。
細長い籾が、ほんの一握りだけ入っていた。
東穀とは違う。
形。
色。
外側を覆う硬そうな殻。
前世で祖父の神社近くにあった田んぼで、何度も見たことがある。
「……米だ」
正確には、まだ米ではない。
籾だ。
稲の種籾。
でも、見間違えるはずがなかった。
胸の奥から一気に何かが込み上げる。
思わず一粒へ手を伸ばしかけた。
そこで止まった。
「触ってもいい?」
サヨが頷く。
一粒だけ掌へ乗せてもらう。
軽い。
驚くほど軽い。
たったこれだけのものを、何代もの人間が守ってきた。
俺は籾を指先で転がしながら、頭の中ですでにその先を考えていた。
殻を取る。
精米する。
炊く。
白い湯気。
茶碗。
箸。
味噌汁があれば最高だ。
漬物。
焼き魚。
そこまで想像したところで、腹が鳴った。
ハーゲンが俺を見る。
「随分と分かりやすいですね」
「仕方ないだろ」
本物の米かもしれない。
七年ぶりだ。
東穀だってかなり近かった。でもこれは、もっと近い。
炊いてみたい。
どうしても。
「サヨ」
「はい」
「少しだけ、食べてみてもいい?」
空気が変わった。
サヨの表情から、さっきまでの柔らかさが消えた。
「駄目です」
即答だった。
「一粒じゃ味分かんないから、ほんの少しでいいんだけど」
「駄目です」
「全部食べるわけじゃないよ」
「一粒でも駄目です」
思っていた以上に強い拒絶だった。
俺も少し意地になる。
「でも、食べ物なんだろ?」
「違います」
「稲なら食べ物だよ」
「これは種です」
言葉がぶつかる。
俺には同じものに思えた。
稲は育てて米にして、食べるためのものだ。食べ物として美味しいか確かめるのは、料理人なら当然じゃないのか。
「味も分からないのに、どうするか決められないだろ」
「味を知る必要などありません」
「なんで?」
「食べるために持ってきたのではないからです!」
サヨの声が物置に響いた。
傷が痛んだのか、すぐに脇腹を押さえる。
俺は慌てて近づこうとしたが、サヨは手で制した。
「これがどれほど残っていると思っているのですか」
その声は、さっきより小さかった。
でも怒りは消えていない。
「里にあった種のほとんどは、もう失われました。育たなかった年もあります。病で枯れたこともあったと聞きました。守っていた家が焼けたこともあります。それでも少しずつ残し、次へ渡してきたのです」
俺は掌の一粒を見る。
軽い。
こんなに軽いものに、何世代もの時間が乗っている。
「私が持ち出せたのは、それだけです」
箱の中には、多く見積もっても数百粒程度しかない。
茶碗一杯にもならない。
「でも、全部を植えたって育つとは限らないだろ」
「だからこそ、食べることはできません」
サヨは箱を両手で抱えた。
「食べれば、一度で終わります。植えれば、増えるかもしれません」
その一言で、俺は何も言えなくなった。
食べれば、一度で終わる。
植えれば、増える。
当たり前のことだ。
知識としてなら分かっていた。
米は田んぼで育つ。
種籾を植える。
稲穂が実る。
収穫する。
そんなことは小学校でも習った。
それなのに俺は、箱を開けた瞬間から「どう炊くか」しか考えていなかった。
食材を見れば料理を考える。
それ自体は悪くない。
でも、この種については、その前がある。
誰かが育てなければ、料理する米そのものが存在しない。
前世ではスーパーに行けば米が袋に入っていた。
米びつが減れば買い足した。
その向こう側で誰かが苗を育て、水を管理し、稲を刈り、乾かし、精米していたことなんて、ほとんど意識したことがなかった。
俺は料理を知っているつもりで、食卓より前のことをほとんど知らない。
第26話で丸鳥を前にした時と同じだった。
知らない。
また一つ、知らないことが出てきた。
「……ごめん」
俺は種籾をサヨへ返した。
「食べることしか考えてなかった」
サヨはすぐには答えなかった。
怒らせた。
当然だ。
命を懸けて運んできたものを、目覚めて数日で「食わせて」と言われたのだから。
しばらくして、サヨの表情が少しだけ緩んだ。
「私も、言い方が強すぎました」
「いや。怒っていいと思う」
「でも、あなたが食べたいと言ったことが……少し嬉しくもあります」
「どっち?」
思わず聞くと、サヨは困ったように笑った。
「私たちは、これが何なのか知りませんでした。ただ守れと言われたから守ってきた。それを見て、あなたはすぐに『米だ』『食べられる』と言った」
箱の中を見つめる。
「初めて、この種が何のために存在するのか分かった気がしたのです」
その言葉を聞いて、俺も種籾を見る。
守るだけでは意味がない。
食べるだけでも終わってしまう。
育てる。
増やす。
そして、その一部を食べる。
また種を残す。
当たり前の循環。
でも、その当たり前こそが、サヨたちの一族から失われていたのかもしれない。
「じゃあ、育てよう」
俺が言うと、サヨが顔を上げた。
「できますか?」
「田んぼ作ればいいんだろ?」
前世で見た景色が頭に浮かぶ。
水を張った田んぼ。
泥。
苗。
秋になれば黄金色の稲穂。
魔法もある。
水なら出せる。
土だって耕せる。
村には土地もある。
いける。
「水を引いて、土を柔らかくして、苗を植えれば――」
「レン君」
ハーゲンが口を挟んだ。
嫌な予感がする声音だった。
「何?」
「米を育てた経験は?」
「ない」
「田んぼを作った経験は?」
「ない」
「稲を植える季節は?」
「……春?」
「疑問形ですね」
「でも、だいたいは分かるよ」
「どのくらいの水深が必要です?」
答えられない。
「種を直接地面へ撒くのですか?」
分からない。
「病気になった場合は?」
知らない。
ハーゲンがにこりと笑った。
「なるほど。何も分かっていませんね」
ぐうの音も出なかった。
サヨが口元を押さえている。
笑ったな。
「でも、村には農家がいる」
俺は言い直した。
今度は勢いだけではない。
自分にできないなら、できる人へ聞けばいい。
ローデンから鳥の捌き方を教わった。
ゼクトから魔法を教わった。
なら、今度は農家だ。
「俺は米の食べ方なら知ってる。でも育て方は知らない。だから、知ってる人に手伝ってもらおう」
サヨは静かに頷いた。
俺は箱の中の種を見つめる。
今すぐ食べることはできない。
正直、かなり残念だ。
それでも初めて、白い飯を食べることより楽しみなことが一つできた。
この一握りの種が、本当に増えるのか。
秋になったら、どんな景色になるのか。
そしていつか、自分たちで育てた米を炊ける日が来るのか。
料理は厨房から始まるものだと思っていた。
どうやら違ったらしい。
一杯の飯が食卓へ届くよりずっと前、料理は一粒の種から始まっている。




