第33話 最後の巫女
「なぜ、その名を知っているのです?」
サヨの声は弱かった。それでも、その一言だけは妙にはっきりしていた。
俺はすぐに答えられなかった。
どう説明する。
前世では日本という国に住んでいた。そこで高校生をしていて、家族と暮らし、神社の手伝いをしながら料理をしていた。そしてある日、死んだ覚えもないのに、この世界で赤ん坊として生まれ直した。
そんな話を、昨日初めて会った人間にいきなり信じろと言う方が無理だ。
しかもサヨは傷を負い、誰かから逃げてきたばかりだ。警戒して当然だった。
「その前に、一つだけ聞いていい?」
俺が言うと、サヨは木箱を胸に抱いたまま小さく頷いた。
「サヨは、日本を知ってるの?」
しばらく沈黙があった。
やがてサヨは、ゆっくり首を横に振った。
「いいえ」
思わず聞き返す。
「……知らないの?」
「その国を見たことはありません。どこにあるのかも知りません」
胸の奥にあった期待が、少しだけ萎んだ。
勝手に期待していた。
日本と口にした。
巫女のような服を着ていた。
勾玉まで持っている。
なら、この人は日本人なんじゃないか。日本に帰る方法を知っているんじゃないか。そう思っていた。
でも違う。
サヨも日本を知らない。
「じゃあ、どうして名前を?」
「伝えられてきたからです」
サヨはそう言って、胸元の勾玉へ手を触れた。
「私の一族では、代々いくつかの言葉を守ってきました。その一つが『ニホン』です」
「一族?」
「東の果てに、小さな里があります。外の者はほとんど来ません。私たちはそこで、古いものを守ってきました」
東。
まただ。
東穀。
ヒムカ。
八咫烏。
魔法工房にあった「熱」と「移」。
そしてサヨ。
全部が同じ方角につながっている。
「何を守ってたの?」
俺が聞くと、サヨは少し迷った。
まだ完全には信用されていない。
当然だ。
だから俺も急かさなかった。
やがて彼女は、抱いていた木箱を膝の上へ置いた。
「種です」
「これ?」
「はい。それから、言葉。形。祈り。意味の分からない作法も」
サヨは勾玉を外し、掌へ乗せた。
「これは『マガタマ』と呼べ、と教えられました」
やっぱり。
聞き間違いじゃない。
「三本足の鴉は?」
サヨの目が大きく開いた。
「……なぜ、それを?」
「見たことがある」
「どこで?」
「村でも、ベルクでも」
俺が答えると、サヨは信じられないという顔をした。
「ありえません」
「でも見た」
「三本足の御鳥は、里の古い壁画にしか残っていないはずです」
御鳥。
呼び方まである。
俺の記憶にある名前を口にするべきか迷った。
ただ、第29話で鴉はサヨの存在を俺へ知らせた。なら、少なくともこの二つは無関係ではない。
「俺がいたところでは、八咫烏って呼ばれてた」
その名前を聞いた瞬間、サヨの指が震えた。
「ヤタ……ガラス」
知らないらしい。
でも何かを感じている。
「その名も、あなたの国の言葉なのですか?」
「うん。昔話とか神話に出てくる鳥だよ。俺も詳しくはないけど」
ここは正直に言う。
俺は神職の専門家じゃない。
じいちゃんから話を聞いたことがある程度だ。名前を知っているからといって、何でも説明できるわけではない。
サヨはしばらく黙って勾玉を見つめていた。
「私たちは、知らないのです」
「何を?」
「何も」
その言葉には、自嘲するような響きがあった。
「何代も前から守れと言われてきました。ニホンという言葉を忘れるな。この形を変えるな。種を絶やすな。三本足の御鳥を恐れるな。けれど、なぜなのかは誰も知りません」
「誰も?」
「里の長老たちも」
サヨは苦しそうに息を吐いた。
「昔は、もっと多くのことが伝わっていたそうです。でも、一代ごとに少しずつ失われました。言葉が読めなくなり、祈りの意味が分からなくなり、何のための作法なのかも分からなくなった。それでも、『捨ててはいけない』ということだけは残ったのです」
俺は何も言えなかった。
意味が分からないまま、何代も守り続ける。
それはどれだけ不安なんだろう。
自分たちでも理由を知らないものを、命を懸けて次へ渡す。
俺なら途中で疑うと思う。
本当に守る意味があるのか。
昔の人が間違っていたんじゃないか。
もう捨ててもいいんじゃないか。
それでも、サヨたちは残した。
「サヨは……巫女なの?」
そう聞くと、彼女は少し驚いた。
「その言葉まで知っているのですか」
「俺のいたところにもいた」
神社の風景を思い出す。
白衣。
緋袴。
祭りの時に忙しそうに動いていた人たち。
目の前のサヨの服は、細部こそ違うけれど、確かにそれに似ている。
「里では、代々一人だけが『ミコ』を名乗ります」
「一人だけ?」
「守るものを預かる役目です。言葉も、勾玉も、種も、すべて」
サヨの手が木箱へ重なる。
「そして今、その役目を持つのは私だけです」
胸の奥が冷えた。
「だけって……」
サヨは視線を落とした。
「私が、最後の巫女です」
八咫烏の言葉と同じだった。
東に、最後の巫女がいる。
俺は意味を理解したつもりでいた。でも実際に本人の口から聞くと、重さが違う。
「里の他の人は?」
すぐには答えなかった。
答えたくないのだと分かった。
けれど、サヨは逃げなかった。
「分かりません」
声が小さくなる。
「三日前、里が襲われました」
俺は息を呑んだ。
脇腹の傷。
誰かに斬られた痕。
「誰に?」
「分かりません。黒い外套を着た者たちでした。顔も隠していました。ただ、探していたのは人ではありません」
サヨの手が木箱を強く掴む。
「これです」
「稲種を?」
「そう呼ぶのですか?」
今度は俺が止まる。
箱には『稲種』と書いてある。
でもサヨは読めない。
「箱に書いてある」
「……読めるのですか?」
「うん」
サヨが俺を見る目が変わった。
警戒ではない。
驚きとも少し違う。
何か、ずっと探していたものが目の前に現れたような顔だった。
「何と?」
「稲の種。『いなだね』とか『いねのたね』って意味だと思う」
「イネ……」
サヨはその言葉を、壊れ物を扱うように繰り返した。
「私たちは、これを『日の種』と呼んでいました」
「日の種?」
「日の昇る方角から来た種だと」
また東。
俺は箱を見る。
今すぐ開けたい。
中身を見たい。
もし本当に米なら。
そう思った瞬間、身体が前へ出かけた。
でも止まる。
勝手に触るな。
これはサヨたちが何代も守ってきたものだ。
俺の知りたい気持ちだけで開けていいものじゃない。
「見せてもらってもいい?」
俺が聞くと、サヨは驚いたようだった。
「勝手に開けないのですか」
「サヨのものだろ」
少なくとも今は。
そう言うと、彼女はしばらく俺を見つめた後、初めて少しだけ表情を緩めた。
「あなたは、不思議な人ですね」
「よく言われる」
主に七歳らしくないという意味で。
サヨは木箱を撫でながら、ゆっくり首を振った。
「今日は、まだ」
「分かった」
残念ではある。
かなり。
でも待つ。
今の俺には、それができる。
「一つだけ、俺からも話す」
サヨが顔を上げた。
「日本のこと?」
「うん」
どこまで言うかは、まだ決められない。
転生のことも。
前世の家族のことも。
全部を一度に話す必要はない。
だから、まず一つだけ。
「日本は、俺が知ってる国だ」
「……あなたは、その国を見たことが?」
俺は頷いた。
サヨの息が止まる。
「ある。俺はそこで暮らしてた」
それ以上は言わなかった。
でも、それだけで十分だったらしい。
サヨの目に涙が浮かんだ。
「本当に……あったのですね」
その言葉に、今度は俺の胸が詰まった。
俺にとって日本は、失った故郷だ。
サヨにとっては、存在したかどうかさえ分からない伝説だった。
同じ「日本」という言葉を知っていても、見ているものはまったく違う。
「あったよ」
俺はもう一度言った。
「ちゃんと、あった」
サヨは俯いたまま、勾玉を両手で握りしめた。
何代もの人間が、意味も分からず残してきた名前。
それが間違いではなかったと、ようやく知ったのだ。
しばらくして、サヨは小さく息を整えた。
「レン」
初めて名前を呼ばれた。
「お願いします」
「何を?」
「私たちが守ってきたものが何なのか、教えてください」
俺はすぐには頷かなかった。
教えられることはある。
でも、俺にも分からないことの方が多い。
日本がなぜ消えたのか。
この世界がなぜこうなったのか。
サヨたちの里が何を守ってきたのか。
俺はその答えを持っていない。
だから、正直に言った。
「全部は無理だよ。俺も分からないことだらけだから」
サヨは少しだけ困ったように笑った。
「では、一緒に探していただけますか」
その言葉なら答えられる。
「うん」
今度は迷わなかった。
窓の外では、朝日が村を照らし始めていた。
俺は日本を知っている。
サヨは、日本の残したものを持っている。
どちらも答えは持っていない。
それでも、二人分の欠片を合わせれば、昨日より少し先へ進めるかもしれない。
そして俺の視線は、サヨの膝に置かれた『稲種』の箱へ向かった。
あの中身が、本当に俺の知っているものなら。
日本を探す道は、また食べ物から始まる。




