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神々のいない食卓~日本の消えた異世界で、料理好きの俺は和食を作る~  作者: ちゃむたろう
第四章「稲種――消えた国の残り火」

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第33話 最後の巫女

「なぜ、その名を知っているのです?」


サヨの声は弱かった。それでも、その一言だけは妙にはっきりしていた。


俺はすぐに答えられなかった。


どう説明する。


前世では日本という国に住んでいた。そこで高校生をしていて、家族と暮らし、神社の手伝いをしながら料理をしていた。そしてある日、死んだ覚えもないのに、この世界で赤ん坊として生まれ直した。


そんな話を、昨日初めて会った人間にいきなり信じろと言う方が無理だ。


しかもサヨは傷を負い、誰かから逃げてきたばかりだ。警戒して当然だった。


「その前に、一つだけ聞いていい?」


俺が言うと、サヨは木箱を胸に抱いたまま小さく頷いた。


「サヨは、日本を知ってるの?」


しばらく沈黙があった。


やがてサヨは、ゆっくり首を横に振った。


「いいえ」


思わず聞き返す。


「……知らないの?」


「その国を見たことはありません。どこにあるのかも知りません」


胸の奥にあった期待が、少しだけ萎んだ。


勝手に期待していた。


日本と口にした。


巫女のような服を着ていた。


勾玉まで持っている。


なら、この人は日本人なんじゃないか。日本に帰る方法を知っているんじゃないか。そう思っていた。


でも違う。


サヨも日本を知らない。


「じゃあ、どうして名前を?」


「伝えられてきたからです」


サヨはそう言って、胸元の勾玉へ手を触れた。


「私の一族では、代々いくつかの言葉を守ってきました。その一つが『ニホン』です」


「一族?」


「東の果てに、小さな里があります。外の者はほとんど来ません。私たちはそこで、古いものを守ってきました」


東。


まただ。


東穀。


ヒムカ。


八咫烏。


魔法工房にあった「熱」と「移」。


そしてサヨ。


全部が同じ方角につながっている。


「何を守ってたの?」


俺が聞くと、サヨは少し迷った。


まだ完全には信用されていない。


当然だ。


だから俺も急かさなかった。


やがて彼女は、抱いていた木箱を膝の上へ置いた。


「種です」


「これ?」


「はい。それから、言葉。形。祈り。意味の分からない作法も」


サヨは勾玉を外し、掌へ乗せた。


「これは『マガタマ』と呼べ、と教えられました」


やっぱり。


聞き間違いじゃない。


「三本足の鴉は?」


サヨの目が大きく開いた。


「……なぜ、それを?」


「見たことがある」


「どこで?」


「村でも、ベルクでも」


俺が答えると、サヨは信じられないという顔をした。


「ありえません」


「でも見た」


「三本足の御鳥は、里の古い壁画にしか残っていないはずです」


御鳥。


呼び方まである。


俺の記憶にある名前を口にするべきか迷った。


ただ、第29話で鴉はサヨの存在を俺へ知らせた。なら、少なくともこの二つは無関係ではない。


「俺がいたところでは、八咫烏って呼ばれてた」


その名前を聞いた瞬間、サヨの指が震えた。


「ヤタ……ガラス」


知らないらしい。


でも何かを感じている。


「その名も、あなたの国の言葉なのですか?」


「うん。昔話とか神話に出てくる鳥だよ。俺も詳しくはないけど」


ここは正直に言う。


俺は神職の専門家じゃない。


じいちゃんから話を聞いたことがある程度だ。名前を知っているからといって、何でも説明できるわけではない。


サヨはしばらく黙って勾玉を見つめていた。


「私たちは、知らないのです」


「何を?」


「何も」


その言葉には、自嘲するような響きがあった。


「何代も前から守れと言われてきました。ニホンという言葉を忘れるな。この形を変えるな。種を絶やすな。三本足の御鳥を恐れるな。けれど、なぜなのかは誰も知りません」


「誰も?」


「里の長老たちも」


サヨは苦しそうに息を吐いた。


「昔は、もっと多くのことが伝わっていたそうです。でも、一代ごとに少しずつ失われました。言葉が読めなくなり、祈りの意味が分からなくなり、何のための作法なのかも分からなくなった。それでも、『捨ててはいけない』ということだけは残ったのです」


俺は何も言えなかった。


意味が分からないまま、何代も守り続ける。


それはどれだけ不安なんだろう。


自分たちでも理由を知らないものを、命を懸けて次へ渡す。


俺なら途中で疑うと思う。


本当に守る意味があるのか。


昔の人が間違っていたんじゃないか。


もう捨ててもいいんじゃないか。


それでも、サヨたちは残した。


「サヨは……巫女なの?」


そう聞くと、彼女は少し驚いた。


「その言葉まで知っているのですか」


「俺のいたところにもいた」


神社の風景を思い出す。


白衣。


緋袴。


祭りの時に忙しそうに動いていた人たち。


目の前のサヨの服は、細部こそ違うけれど、確かにそれに似ている。


「里では、代々一人だけが『ミコ』を名乗ります」


「一人だけ?」


「守るものを預かる役目です。言葉も、勾玉も、種も、すべて」


サヨの手が木箱へ重なる。


「そして今、その役目を持つのは私だけです」


胸の奥が冷えた。


「だけって……」


サヨは視線を落とした。


「私が、最後の巫女です」


八咫烏の言葉と同じだった。


東に、最後の巫女がいる。


俺は意味を理解したつもりでいた。でも実際に本人の口から聞くと、重さが違う。


「里の他の人は?」


すぐには答えなかった。


答えたくないのだと分かった。


けれど、サヨは逃げなかった。


「分かりません」


声が小さくなる。


「三日前、里が襲われました」


俺は息を呑んだ。


脇腹の傷。


誰かに斬られた痕。


「誰に?」


「分かりません。黒い外套を着た者たちでした。顔も隠していました。ただ、探していたのは人ではありません」


サヨの手が木箱を強く掴む。


「これです」


「稲種を?」


「そう呼ぶのですか?」


今度は俺が止まる。


箱には『稲種』と書いてある。


でもサヨは読めない。


「箱に書いてある」


「……読めるのですか?」


「うん」


サヨが俺を見る目が変わった。


警戒ではない。


驚きとも少し違う。


何か、ずっと探していたものが目の前に現れたような顔だった。


「何と?」


「稲の種。『いなだね』とか『いねのたね』って意味だと思う」


「イネ……」


サヨはその言葉を、壊れ物を扱うように繰り返した。


「私たちは、これを『日の種』と呼んでいました」


「日の種?」


「日の昇る方角から来た種だと」


また東。


俺は箱を見る。


今すぐ開けたい。


中身を見たい。


もし本当に米なら。


そう思った瞬間、身体が前へ出かけた。


でも止まる。


勝手に触るな。


これはサヨたちが何代も守ってきたものだ。


俺の知りたい気持ちだけで開けていいものじゃない。


「見せてもらってもいい?」


俺が聞くと、サヨは驚いたようだった。


「勝手に開けないのですか」


「サヨのものだろ」


少なくとも今は。


そう言うと、彼女はしばらく俺を見つめた後、初めて少しだけ表情を緩めた。


「あなたは、不思議な人ですね」


「よく言われる」


主に七歳らしくないという意味で。


サヨは木箱を撫でながら、ゆっくり首を振った。


「今日は、まだ」


「分かった」


残念ではある。


かなり。


でも待つ。


今の俺には、それができる。


「一つだけ、俺からも話す」


サヨが顔を上げた。


「日本のこと?」


「うん」


どこまで言うかは、まだ決められない。


転生のことも。


前世の家族のことも。


全部を一度に話す必要はない。


だから、まず一つだけ。


「日本は、俺が知ってる国だ」


「……あなたは、その国を見たことが?」


俺は頷いた。


サヨの息が止まる。


「ある。俺はそこで暮らしてた」


それ以上は言わなかった。


でも、それだけで十分だったらしい。


サヨの目に涙が浮かんだ。


「本当に……あったのですね」


その言葉に、今度は俺の胸が詰まった。


俺にとって日本は、失った故郷だ。


サヨにとっては、存在したかどうかさえ分からない伝説だった。


同じ「日本」という言葉を知っていても、見ているものはまったく違う。


「あったよ」


俺はもう一度言った。


「ちゃんと、あった」


サヨは俯いたまま、勾玉を両手で握りしめた。


何代もの人間が、意味も分からず残してきた名前。


それが間違いではなかったと、ようやく知ったのだ。


しばらくして、サヨは小さく息を整えた。


「レン」


初めて名前を呼ばれた。


「お願いします」


「何を?」


「私たちが守ってきたものが何なのか、教えてください」


俺はすぐには頷かなかった。


教えられることはある。


でも、俺にも分からないことの方が多い。


日本がなぜ消えたのか。


この世界がなぜこうなったのか。


サヨたちの里が何を守ってきたのか。


俺はその答えを持っていない。


だから、正直に言った。


「全部は無理だよ。俺も分からないことだらけだから」


サヨは少しだけ困ったように笑った。


「では、一緒に探していただけますか」


その言葉なら答えられる。


「うん」


今度は迷わなかった。


窓の外では、朝日が村を照らし始めていた。


俺は日本を知っている。


サヨは、日本の残したものを持っている。


どちらも答えは持っていない。


それでも、二人分の欠片を合わせれば、昨日より少し先へ進めるかもしれない。


そして俺の視線は、サヨの膝に置かれた『稲種』の箱へ向かった。


あの中身が、本当に俺の知っているものなら。


日本を探す道は、また食べ物から始まる。

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