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神々のいない食卓~日本の消えた異世界で、料理好きの俺は和食を作る~  作者: ちゃむたろう
第四章「稲種――消えた国の残り火」

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第32話 白装束の女

女を見つけてから、村へ戻るまでの道のりを、俺はほとんど覚えていない。


覚えているのは、荷馬車の上で何度も彼女の呼吸を確かめたことと、白い衣に広がった血の色だけだった。


「レン君、傷を見るのは私がやります。あなたは水を」


ハーゲンに言われ、我に返る。


「分かった」


荷馬車はできる限り急いでいる。それでも道は悪く、車輪が石を踏むたびに大きく揺れた。女の脇腹には布を強く巻き、圧迫している。血はさっきより減っているように見えるが、顔色はひどく悪い。


俺にできることは少ない。


水魔法なら使える。火も扱える。料理もできる。


でも、人間の傷を治す方法なんて知らない。


前世で応急処置を少し習ったことはあるし、包丁で指を切った程度なら何度も経験した。けれど、こんな深い傷を負った人間を助けたことなんて一度もない。


「大丈夫かな」


思わず口にすると、ハーゲンは女の脈を確認しながら答えた。


「分かりません」


慰めるようなことは言わなかった。


それが逆にありがたかった。


「ですが、生きています。なら今は、それで十分でしょう」


俺は頷いた。


女の胸元には、例の木箱が抱えられたままだ。


血に濡れた指を外そうとしたが、意識を失っているのに驚くほど強く握っていて、無理に取るのはやめた。


箱には二文字。


『稲種』


見るたびに胸がざわつく。


稲。


種。


もし本当に、俺の知っている稲だとしたら。


昨日、東穀を炊いただけで七年前の朝を思い出した。


それよりずっと、日本の米に近いものがこの箱に入っているかもしれない。


そして何より、この女は「日本」と言った。


俺以外の人間が。


この世界で初めて。


聞きたいことが山ほどある。


どこで日本を知ったのか。


その服は何なのか。


勾玉はどこから手に入れたのか。


八咫烏を知っているのか。


日本人なのか。


日本へ帰る方法を知っているのか。


質問が次から次へ浮かぶ。


そのたびに、俺は女の青白い顔を見る。


今は駄目だ。


まず生きてもらわないと、何も始まらない。


村へ着いたのは、すっかり日が落ちた後だった。


入口で最初に俺たちを見つけたのは父さんだった。


「レン!」


走ってくる。


その後ろから母さんも来る。


そして。


「兄ちゃん!」


小さな影が飛び出した。


リナだ。


三歳の妹は全力で俺へ駆け寄り、そのまま抱きつこうとして――荷馬車の上に横たわる女を見て止まった。


「……おねえちゃん?」


「怪我してるんだ」


そう言った途端、母さんの顔が変わった。


「家へ運んで。すぐにお湯を沸かすわ」


早い。


何があったのか聞く前に動いてくれる。


父さんも荷馬車へ乗り、ハーゲンと一緒に女を持ち上げた。


俺はその光景を見ながら、妙に安心した。


帰ってきた。


数日しか離れていなかったのに、家の灯りを見るだけで力が抜けそうになる。


でも今は、喜んでいる場合じゃない。


女を客間へ運び、母さんが傷の処置を始めた。


村には専門の医者はいないが、母さんは怪我の手当てに慣れている。父さんも狩りや仕事で何度も傷を作ってきたかららしい。


「刃物の傷ね」


布を外した母さんが眉を寄せる。


俺は少し離れた場所から見ていた。


「分かるの?」


「獣にやられた傷じゃないわ。切り口が真っ直ぐすぎる」


誰かに斬られた。


そういうことだ。


胸の奥が冷える。


この女は倒れたんじゃない。


誰かから逃げてきた。


しかも、『稲種』を抱えて。


「レン」


母さんに呼ばれる。


「何?」


「温かいもの、作れる?」


反射的に「うん」と答えた後、少し考える。


何を食べさせればいい。


肉?


違う。


弱っている人間に重いものは駄目だ。


消化のいいもの。


水分。


塩分。


前世で妹が熱を出した時に作ったものを思い出す。


お粥。


ただ、今あるのは東穀。


俺はベルクから持ち帰った袋を見る。


「……重湯なら」


「オモユ?」


母さんが首を傾げる。


「穀物を柔らかく煮て、その上澄みを飲ませるんだ。たぶん今でも少しは入る」


「お願い」


厨房へ向かう。


カイルが当然のようについてきた。


「何作る?」


「東穀を煮る」


「この前みたいに?」


「もっと柔らかくする。今は美味しさより、身体に入ることが大事だから」


言いながら鍋へ水を多めに入れる。


東穀を洗い、ゆっくり煮る。


弱火。


焦らない。


こういう時ほど、火を強くしたくなる。


早く作りたい。


早く飲ませたい。


早く目を覚ましてほしい。


でも、昨日までの俺ならそれで失敗していたかもしれない。


強くすれば早く終わるわけじゃない。


ゼクトに言われたことを思い出す。


料理も同じだ。


俺は火を抑えた。


「レン」


カイルが隣から鍋を覗き込む。


「なに?」


「あの人、知ってんの?」


「知らない」


「でも、見つけた時すげえ顔してた」


こいつ、変なところを見ている。


「服が知ってるものに似てたんだ」


「日本の?」


手が止まりそうになった。


カイルには、巫女についてまだ話していない。


「……たぶん」


「ふーん」


それ以上聞かなかった。


ありがたい。


鍋の中で東穀が崩れ始める。


白く濁った上澄みを少しすくう。


味を見る。


薄い。


当然だ。


塩をほんの少し。


それだけ。


美味しい料理とは言いにくい。


でも今必要なのは、俺が料理人として自慢できる一皿じゃない。


あの人が、生きるために飲めるものだ。


客間へ戻る。


女はまだ眠っている。


母さんが傷の処置を終え、額の汗を拭いていた。


「少し飲ませてみる?」


「うん」


俺は匙へ重湯を取り、少し冷ます。


母さんに身体を支えてもらい、唇へ触れさせた。


最初は反応がない。


駄目か。


そう思った時、わずかに喉が動いた。


飲んだ。


「もう少し」


二口目。


今度も飲む。


三口目。


そこで女の眉が微かに動いた。


「……みず」


声。


俺はすぐ匙を置いた。


「水ね。待って」


水を少しずつ飲ませる。


一気に飲ませたいけれど、咳き込んだら危ない。


女の呼吸が少し落ち着く。


目はまだ開かない。


それでも。


生きている。


それだけで、張りつめていたものが少し緩んだ。


「兄ちゃん」


振り返る。


扉の隙間からリナが覗いていた。


「リナ、まだ起きてたの?」


「おねえちゃん、いたい?」


「たぶんね」


リナは不安そうに女を見る。


そして、俺の隣まで来た。


「リナ、おててする」


「おてて?」


小さな手を女の方へ伸ばす。


その瞬間だった。


リナの指先に、白い光が浮かんだ。


以前見た。


鏡のような魔法陣。


「リナ?」


光は一瞬だけ強くなる。


それに呼応するように、女の首元に下がった勾玉が淡く光った。


俺も。


母さんも。


カイルも。


誰も声を出せなかった。


白い光はすぐに消えた。


リナは何が起きたのか分かっていないらしく、きょとんとしている。


「兄ちゃん?」


「……なんでもない」


なんでもなくない。


どう考えても。


でも今は。


「リナ、今日は寝よう」


「おねえちゃんは?」


「大丈夫。母さんがいるから」


「兄ちゃんも?」


「俺もいる」


それで安心したのか、リナは頷いた。


父さんに連れられて部屋を出る。


俺はもう一度、女を見る。


勾玉はもう光っていない。


でも確かに反応した。


リナの力に。


日本に関係するものに。


何が起きている。


考えても分からない。


その夜、俺はほとんど眠れなかった。


客間の隣で毛布に包まり、何度も女の様子を確認した。


外は静かだった。


村へ帰ってきた安心感と、何かが始まろうとしている不安が、胸の中で混ざっている。


夜明け前。


小さな物音で目を覚ました。


身体を起こす。


客間からだ。


扉を開ける。


女が起きていた。


上半身を起こし、壁にもたれている。


顔色はまだ悪い。


でも目は開いていた。


黒い瞳が、真っ直ぐ俺を見る。


「動かない方がいい」


俺が近づくと、女は一瞬身体を強張らせた。


警戒している。


「ここはどこですか」


声は弱い。


でも意識ははっきりしている。


「俺の村。街道で倒れてたから運んできた」


女は自分の脇腹を確認する。


次に。


胸元。


木箱。


「……これは」


「触ってないよ」


正確には読んだけど。


女は箱を抱き寄せ、少し安心したように息を吐いた。


そして俺を見る。


「あなたが、私を?」


「俺だけじゃない。みんなで」


しばらく沈黙。


聞きたい。


今すぐ。


でも急ぐな。


俺はそれを何度も自分に言い聞かせた。


水を差し出す。


「飲む?」


女は少し迷ってから受け取った。


ゆっくり飲む。


俺はその間、待った。


やがて女が杯を下ろす。


「……ありがとうございます」


「うん」


今なら。


一つだけ。


聞いていいと思った。


「名前、聞いてもいい?」


女は俺を見つめた。


「……サヨ」


「サヨ?」


「はい」


日本人の名前に聞こえる。


心臓が少し速くなる。


でも、まだ決めつけるな。


「俺はレン」


「レン……」


サヨはその名前を確かめるように口にする。


その視線が、俺の顔。


髪。


服。


そして腰の包丁へ移る。


何かを探しているようだった。


俺は迷った。


それでも。


言う。


「サヨ」


「はい」


「昨日、倒れてた時に言ったんだ」


サヨの眉が僅かに動く。


「何を?」


俺は息を吸った。


「日本って」


その瞬間。


サヨの顔から血の気が引いた。


さっきまでの弱った人間の目ではない。


驚き。


恐怖。


そして、信じられないものを見るような色。


杯を持つ手が震える。


「……あなた」


掠れた声。


「あなたは、なぜ」


俺は動けなかった。


サヨは木箱を胸へ抱きしめる。


「なぜ、その名を知っているのです?」


俺は答えられなかった。


期待していたのとは、まったく逆だったからだ。


俺はサヨが答えを持っていると思っていた。


日本を知っている人間。


俺が七年間探していた、自分以外の誰か。


でも。


彼女もまた。


俺を見ている。


答えを求める目で。


どうやら俺たちは、どちらも同じだったらしい。


消された国の名前だけを知っていて、その先を知らない。


日本へ続く扉を開けたつもりだった。


けれど、その向こうにいたのは答えではなかった。


俺と同じように、答えを探している人だった。


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