第32話 白装束の女
女を見つけてから、村へ戻るまでの道のりを、俺はほとんど覚えていない。
覚えているのは、荷馬車の上で何度も彼女の呼吸を確かめたことと、白い衣に広がった血の色だけだった。
「レン君、傷を見るのは私がやります。あなたは水を」
ハーゲンに言われ、我に返る。
「分かった」
荷馬車はできる限り急いでいる。それでも道は悪く、車輪が石を踏むたびに大きく揺れた。女の脇腹には布を強く巻き、圧迫している。血はさっきより減っているように見えるが、顔色はひどく悪い。
俺にできることは少ない。
水魔法なら使える。火も扱える。料理もできる。
でも、人間の傷を治す方法なんて知らない。
前世で応急処置を少し習ったことはあるし、包丁で指を切った程度なら何度も経験した。けれど、こんな深い傷を負った人間を助けたことなんて一度もない。
「大丈夫かな」
思わず口にすると、ハーゲンは女の脈を確認しながら答えた。
「分かりません」
慰めるようなことは言わなかった。
それが逆にありがたかった。
「ですが、生きています。なら今は、それで十分でしょう」
俺は頷いた。
女の胸元には、例の木箱が抱えられたままだ。
血に濡れた指を外そうとしたが、意識を失っているのに驚くほど強く握っていて、無理に取るのはやめた。
箱には二文字。
『稲種』
見るたびに胸がざわつく。
稲。
種。
もし本当に、俺の知っている稲だとしたら。
昨日、東穀を炊いただけで七年前の朝を思い出した。
それよりずっと、日本の米に近いものがこの箱に入っているかもしれない。
そして何より、この女は「日本」と言った。
俺以外の人間が。
この世界で初めて。
聞きたいことが山ほどある。
どこで日本を知ったのか。
その服は何なのか。
勾玉はどこから手に入れたのか。
八咫烏を知っているのか。
日本人なのか。
日本へ帰る方法を知っているのか。
質問が次から次へ浮かぶ。
そのたびに、俺は女の青白い顔を見る。
今は駄目だ。
まず生きてもらわないと、何も始まらない。
村へ着いたのは、すっかり日が落ちた後だった。
入口で最初に俺たちを見つけたのは父さんだった。
「レン!」
走ってくる。
その後ろから母さんも来る。
そして。
「兄ちゃん!」
小さな影が飛び出した。
リナだ。
三歳の妹は全力で俺へ駆け寄り、そのまま抱きつこうとして――荷馬車の上に横たわる女を見て止まった。
「……おねえちゃん?」
「怪我してるんだ」
そう言った途端、母さんの顔が変わった。
「家へ運んで。すぐにお湯を沸かすわ」
早い。
何があったのか聞く前に動いてくれる。
父さんも荷馬車へ乗り、ハーゲンと一緒に女を持ち上げた。
俺はその光景を見ながら、妙に安心した。
帰ってきた。
数日しか離れていなかったのに、家の灯りを見るだけで力が抜けそうになる。
でも今は、喜んでいる場合じゃない。
女を客間へ運び、母さんが傷の処置を始めた。
村には専門の医者はいないが、母さんは怪我の手当てに慣れている。父さんも狩りや仕事で何度も傷を作ってきたかららしい。
「刃物の傷ね」
布を外した母さんが眉を寄せる。
俺は少し離れた場所から見ていた。
「分かるの?」
「獣にやられた傷じゃないわ。切り口が真っ直ぐすぎる」
誰かに斬られた。
そういうことだ。
胸の奥が冷える。
この女は倒れたんじゃない。
誰かから逃げてきた。
しかも、『稲種』を抱えて。
「レン」
母さんに呼ばれる。
「何?」
「温かいもの、作れる?」
反射的に「うん」と答えた後、少し考える。
何を食べさせればいい。
肉?
違う。
弱っている人間に重いものは駄目だ。
消化のいいもの。
水分。
塩分。
前世で妹が熱を出した時に作ったものを思い出す。
お粥。
ただ、今あるのは東穀。
俺はベルクから持ち帰った袋を見る。
「……重湯なら」
「オモユ?」
母さんが首を傾げる。
「穀物を柔らかく煮て、その上澄みを飲ませるんだ。たぶん今でも少しは入る」
「お願い」
厨房へ向かう。
カイルが当然のようについてきた。
「何作る?」
「東穀を煮る」
「この前みたいに?」
「もっと柔らかくする。今は美味しさより、身体に入ることが大事だから」
言いながら鍋へ水を多めに入れる。
東穀を洗い、ゆっくり煮る。
弱火。
焦らない。
こういう時ほど、火を強くしたくなる。
早く作りたい。
早く飲ませたい。
早く目を覚ましてほしい。
でも、昨日までの俺ならそれで失敗していたかもしれない。
強くすれば早く終わるわけじゃない。
ゼクトに言われたことを思い出す。
料理も同じだ。
俺は火を抑えた。
「レン」
カイルが隣から鍋を覗き込む。
「なに?」
「あの人、知ってんの?」
「知らない」
「でも、見つけた時すげえ顔してた」
こいつ、変なところを見ている。
「服が知ってるものに似てたんだ」
「日本の?」
手が止まりそうになった。
カイルには、巫女についてまだ話していない。
「……たぶん」
「ふーん」
それ以上聞かなかった。
ありがたい。
鍋の中で東穀が崩れ始める。
白く濁った上澄みを少しすくう。
味を見る。
薄い。
当然だ。
塩をほんの少し。
それだけ。
美味しい料理とは言いにくい。
でも今必要なのは、俺が料理人として自慢できる一皿じゃない。
あの人が、生きるために飲めるものだ。
客間へ戻る。
女はまだ眠っている。
母さんが傷の処置を終え、額の汗を拭いていた。
「少し飲ませてみる?」
「うん」
俺は匙へ重湯を取り、少し冷ます。
母さんに身体を支えてもらい、唇へ触れさせた。
最初は反応がない。
駄目か。
そう思った時、わずかに喉が動いた。
飲んだ。
「もう少し」
二口目。
今度も飲む。
三口目。
そこで女の眉が微かに動いた。
「……みず」
声。
俺はすぐ匙を置いた。
「水ね。待って」
水を少しずつ飲ませる。
一気に飲ませたいけれど、咳き込んだら危ない。
女の呼吸が少し落ち着く。
目はまだ開かない。
それでも。
生きている。
それだけで、張りつめていたものが少し緩んだ。
「兄ちゃん」
振り返る。
扉の隙間からリナが覗いていた。
「リナ、まだ起きてたの?」
「おねえちゃん、いたい?」
「たぶんね」
リナは不安そうに女を見る。
そして、俺の隣まで来た。
「リナ、おててする」
「おてて?」
小さな手を女の方へ伸ばす。
その瞬間だった。
リナの指先に、白い光が浮かんだ。
以前見た。
鏡のような魔法陣。
「リナ?」
光は一瞬だけ強くなる。
それに呼応するように、女の首元に下がった勾玉が淡く光った。
俺も。
母さんも。
カイルも。
誰も声を出せなかった。
白い光はすぐに消えた。
リナは何が起きたのか分かっていないらしく、きょとんとしている。
「兄ちゃん?」
「……なんでもない」
なんでもなくない。
どう考えても。
でも今は。
「リナ、今日は寝よう」
「おねえちゃんは?」
「大丈夫。母さんがいるから」
「兄ちゃんも?」
「俺もいる」
それで安心したのか、リナは頷いた。
父さんに連れられて部屋を出る。
俺はもう一度、女を見る。
勾玉はもう光っていない。
でも確かに反応した。
リナの力に。
日本に関係するものに。
何が起きている。
考えても分からない。
その夜、俺はほとんど眠れなかった。
客間の隣で毛布に包まり、何度も女の様子を確認した。
外は静かだった。
村へ帰ってきた安心感と、何かが始まろうとしている不安が、胸の中で混ざっている。
夜明け前。
小さな物音で目を覚ました。
身体を起こす。
客間からだ。
扉を開ける。
女が起きていた。
上半身を起こし、壁にもたれている。
顔色はまだ悪い。
でも目は開いていた。
黒い瞳が、真っ直ぐ俺を見る。
「動かない方がいい」
俺が近づくと、女は一瞬身体を強張らせた。
警戒している。
「ここはどこですか」
声は弱い。
でも意識ははっきりしている。
「俺の村。街道で倒れてたから運んできた」
女は自分の脇腹を確認する。
次に。
胸元。
木箱。
「……これは」
「触ってないよ」
正確には読んだけど。
女は箱を抱き寄せ、少し安心したように息を吐いた。
そして俺を見る。
「あなたが、私を?」
「俺だけじゃない。みんなで」
しばらく沈黙。
聞きたい。
今すぐ。
でも急ぐな。
俺はそれを何度も自分に言い聞かせた。
水を差し出す。
「飲む?」
女は少し迷ってから受け取った。
ゆっくり飲む。
俺はその間、待った。
やがて女が杯を下ろす。
「……ありがとうございます」
「うん」
今なら。
一つだけ。
聞いていいと思った。
「名前、聞いてもいい?」
女は俺を見つめた。
「……サヨ」
「サヨ?」
「はい」
日本人の名前に聞こえる。
心臓が少し速くなる。
でも、まだ決めつけるな。
「俺はレン」
「レン……」
サヨはその名前を確かめるように口にする。
その視線が、俺の顔。
髪。
服。
そして腰の包丁へ移る。
何かを探しているようだった。
俺は迷った。
それでも。
言う。
「サヨ」
「はい」
「昨日、倒れてた時に言ったんだ」
サヨの眉が僅かに動く。
「何を?」
俺は息を吸った。
「日本って」
その瞬間。
サヨの顔から血の気が引いた。
さっきまでの弱った人間の目ではない。
驚き。
恐怖。
そして、信じられないものを見るような色。
杯を持つ手が震える。
「……あなた」
掠れた声。
「あなたは、なぜ」
俺は動けなかった。
サヨは木箱を胸へ抱きしめる。
「なぜ、その名を知っているのです?」
俺は答えられなかった。
期待していたのとは、まったく逆だったからだ。
俺はサヨが答えを持っていると思っていた。
日本を知っている人間。
俺が七年間探していた、自分以外の誰か。
でも。
彼女もまた。
俺を見ている。
答えを求める目で。
どうやら俺たちは、どちらも同じだったらしい。
消された国の名前だけを知っていて、その先を知らない。
日本へ続く扉を開けたつもりだった。
けれど、その向こうにいたのは答えではなかった。
俺と同じように、答えを探している人だった。




