第31話 帰る前に、もう一皿
ベルクを発つ日の朝、俺は料理人ギルドの厨房で一匹の魚と向き合っていた。
昨日までなら、魚を見ればまず「どう料理するか」を考えていたと思う。けれど今日は、その前に指で身体をなぞった。頭から背骨へ、背骨から腹へ。ローデンに教わった通り、刃を入れる前に食材の形を確かめる。
三日前の俺なら、こんなことはしなかった。
知識ならある。
魚の捌き方も、火の入れ方も、臭みの取り方も、それなりに知っているつもりだった。でもベルクへ来て、それだけでは足りないと嫌というほど思い知らされた。
「遅えぞ、レン」
向かいの調理台で、カイルがすでに魚の鱗を落としていた。
「まだ始まってないだろ」
「俺の中では始まってる」
「勝手に始めるなよ」
今日は約束していた魚料理の勝負だ。
市場での肉料理では俺が勝った。だからカイルは、あの日からずっと「魚なら絶対に負けねえ」と言い続けている。
審査役はローデン。なぜかハーゲンとゼクトまでいる。さらに昨日飯を食べさせたノアとミナまで厨房の隅に座っていて、思ったより大ごとになってしまった。
「条件は?」
俺が聞くと、ローデンが二匹の魚を調理台へ置いた。
「同じ魚。使っていいのはここにある食材だけ。時間は一刻。食えないもん作った方が負けだ」
「最後の条件いる?」
「お前ら、勝負になると余計なこと始めそうだからな」
心当たりがありすぎて反論できない。
魚は昨日練習したものと同じ種類だった。川魚らしく少し泥臭さがあり、脂はそれほど多くない。
俺はまず三枚に下ろす。
昨日より刃が骨に沿う。
完璧ではない。腹側に少し身を残した。それでも一匹目とは比べものにならなかった。
その時、隣から妙な音がした。
カイルが魚の身へ塩を振り、その上から布を被せている。
「何してるの?」
「水抜いてんだよ」
「塩で?」
「この魚、そのまま焼くと身が崩れやすいんだ。ちょっと置くと締まる」
知らなかった。
前世にも塩で水分を抜く技術はある。理屈を聞けば分かる。でも、この魚にそれが有効だとは俺は知らない。
カイルは、この町で魚を食べてきた。
俺より長く。
その事実が、妙に嬉しかった。
「真似すんなよ」
「今日はしない」
「今日は?」
「次はするかも」
「堂々と言うな!」
勝負中なのに笑ってしまう。
俺は俺の料理を作ることにした。
魚の骨と頭は捨てない。
軽く焼いてから鍋へ入れ、水と香草で煮出す。昨日までなら、それだけで満足していたかもしれない。
でも今日は、そのスープへ東穀を入れた。
七年ぶりに「ご飯」と呼んだ穀物。
魚の出汁を吸わせる。
身の方は塩を軽く振り、皮目から焼く。皮をぱりっとさせたいので最初だけ火を強くし、途中から魔法で空気の流れを抑えて火力を落とした。
仕上げには、少量のラミの実。
魚にあの強い甘辛さをそのまま合わせると勝ちすぎる。だから果汁を薄め、酸味のある緑の実と混ぜた。
昨日までに覚えたことを、少しずつ使う。
ローデンから教わった捌き方。
ゼクトと試した火と熱の考え方。
カイルから見た、土地の食材に合わせるという発想。
そして、俺が前世から持ってきた料理の記憶。
それらが鍋の中で一つになる。
「できた」
俺が出したのは、魚の出汁で炊いた東穀に焼いた身を乗せ、酸味のあるラミのたれを少しだけ添えた料理だった。
見た目だけなら、前世の炊き込みご飯に近い。
対するカイルは、塩で締めた魚を厚めに焼き、香草と刻んだ根菜を炒めたものを添えていた。
派手さはない。
でも、匂いは強い。
ローデンがまず俺の料理を食べる。
東穀と魚を一緒に口へ運び、ゆっくり噛む。
次にカイル。
厚い身へ刃を入れ、一口。
俺もカイルも黙って待った。
「カイル」
「おう」
「お前の勝ちだ」
一瞬、意味が分からなかった。
隣でカイルが跳ねた。
「っしゃあ!」
「え、本当に?」
「何でお前が驚くんだよ!」
悔しくないと言えば嘘になる。
かなり悔しい。
俺は自分の皿をもう一度食べた。
不味くはない。
むしろ上手くできたと思う。
「何が駄目だった?」
ローデンに聞く。
「駄目じゃねえ。お前のも美味い」
「じゃあ何で?」
ローデンはカイルの魚を指差した。
「こいつは魚そのものを一番美味く食わせた。お前は色々考えすぎたな」
言われて、もう一度カイルの料理を食べる。
身が締まっている。
それなのに硬くない。
塩で余分な水分を抜いたことで味が濃くなり、川魚特有の匂いも抑えられていた。
俺の料理は技術を詰め込んだ。
出汁。
東穀。
火加減。
ソース。
でも、食材そのものを見るという意味ではカイルの方が一枚上だった。
「……うまい」
俺が言うと、カイルの顔が一瞬止まった。
「負け惜しみじゃなく?」
「美味いものは美味いだろ」
「よし!」
なぜそこでさらに喜ぶ。
悔しい。
でも、それ以上に面白かった。
知識が多ければ必ず勝てるわけじゃない。
この世界で育ったカイルだから知っている味がある。
俺がまだ知らない正解がある。
それが分かったことの方が、今は嬉しかった。
「一勝一敗だな」
カイルが胸を張る。
「次で決着な」
「いいよ」
「いつ?」
「知らない。俺、今日村に帰るし」
カイルの笑顔が止まった。
「……今日?」
「言ってなかった?」
「聞いてねえよ!」
厨房中に声が響いた。
そういえば、はっきり言っていなかった気がする。
カイルはしばらく文句を言い続けたが、最後にはローデンから「うるせえ」と頭を叩かれて黙った。
その後、勝負で使った残りの魚や野菜を使って、みんなで昼飯を作った。
今度は勝負ではない。
俺の東穀。
カイルの魚。
ローデンが捌いた肉。
ゼクトが「実験で余った」と持ってきた香草。
ノアとミナには、野菜を洗ってもらった。
ハーゲンは何も作っていないのに、完成する頃だけ当然のように席へ座っていた。
「商人は食べるのも仕事なのです」
「絶対嘘だ」
長い卓へ料理を並べる。
豪華ではない。
どれもベルクにある普通の食材だ。
それでも、誰か一人だけでは作れなかった食卓だった。
ミナが魚を食べて笑う。
ノアは昨日より遠慮なく椀を空にしている。
ゼクトは東穀を食べながら「保存状態を変えれば輸送距離が伸びるな」と考え込み、ローデンは「飯食う時くらい研究やめろ」と呆れている。
カイルは俺の皿から勝手に魚を取った。
「それ俺の!」
「負けた奴は黙ってろ」
「一勝一敗だろ!」
そんなやり取りをしながら、ふと思った。
俺は、こういうのが好きなんだ。
料理そのものを作るのも楽しい。
新しい食材を見つけるのも、知らない技術を覚えるのも好きだ。
でも、その先。
作った料理を誰かが食べて、笑ったり、文句を言ったり、もう一口欲しがったりする。
俺が本当に作りたいのは、たぶん料理だけじゃない。
こういう時間なのかもしれない。
ベルクを発つ頃には、昼を少し過ぎていた。
ローデンには「また来い」と言われ、ゼクトからは冷却実験の続きを勝手に宿題にされた。ノアには「次に来た時は働ける場所を探す」と約束した。ただ飯を与え続けるのではなく、ギルドの皿洗いや市場の運搬など、九歳でもできる仕事がないかハーゲンが調べてくれることになっている。
完璧な解決ではない。
でも、昨日より一歩だけ先へ進んだ。
町の門を出る。
俺は一度振り返った。
ベルクの城壁。
その向こうに見える銀色の世界樹。
初めて来た時は、知らないものだらけで圧倒された町だった。
今も知らないことだらけだ。
むしろ来る前より増えた気さえする。
それでいい。
知らないなら、また来ればいい。
「何ぼーっとしてんだよ。置いてくぞ」
前からカイルの声がした。
「……なんでお前がいるの?」
荷物を背負ったカイルが、当然のようにハーゲンの荷馬車の横を歩いていた。
「村見に行く」
「は?」
「お前が料理覚えた場所だろ。見ねえと次勝てねえ」
「ローデンは?」
「行ってこいって」
見るとハーゲンが笑っている。
知ってたな。
「数日だけですよ。カイル君を預かることは、すでにローデンさんからご両親への手紙にも書いていただきました」
話が早すぎる。
とはいえ、嫌ではなかった。
むしろリナがどんな顔をするか少し楽しみだ。
「村の飯、不味かったら言うからな」
「お前、村で喧嘩売るなよ」
「美味かったら褒める」
「上から目線なの何なんだよ」
言い合いながら街道を進む。
行きと同じ道なのに、景色が少し違って見えた。
ベルクへ来た時の俺は、自分がこの世界へ何を教えられるかばかり考えていた。
帰る俺は、この世界から何を教わえるのかを考えている。
たった数日。
それでも、村を出る前とは少し違う自分になれた気がした。
夕方近くになり、街道から森へ続く細い道の前を通りかかった時だった。
先を歩いていたカイルが突然止まった。
「レン」
声が低い。
「何?」
「あれ」
指差した先。
草むらに白いものが見えた。
最初は布だと思った。
旅人が荷物でも落としたのかと。
でも、風が吹いても動かない。
嫌な予感がして、俺たちは道を外れた。
近づくにつれ、白い布に赤い染みが見えた。
血だ。
「人……!」
走る。
倒れていたのは女だった。
年齢は分からない。二十歳前後にも見える。
長い黒髪。
白い衣。
下には赤い袴のようなもの。
俺は一瞬、自分の目を疑った。
見たことがある。
前世で。
神社で。
「巫女……?」
第29話で八咫烏から告げられた言葉が、頭をよぎった。
――東に、最後の巫女がいる。
「レン、知り合いか?」
「いや……」
俺は女の首元へ手を当てた。
脈がある。
弱いけれど、生きている。
「ハーゲン! 来て!」
声を上げながら傷を見る。脇腹からかなり血が出ている。ただ、すでに何かで強く縛って止血した跡があった。
その時、女の手元に何かあることに気づいた。
小さな緑色の石。
中央に穴があり、片側が丸く曲がっている。
勾玉。
見間違えるはずがなかった。
さらに女は、胸元へ小さな木箱を抱えていた。
血で汚れた指が、壊れそうなほど強く箱を掴んでいる。
「これ……」
箱の表面に文字があった。
この世界の文字じゃない。
漢字だ。
二文字。
俺は声に出して読んだ。
「稲種……?」
稲の、種。
背後からハーゲンが駆け寄ってくる。
「レン君、離れて。まず傷を――」
その声に反応したのか、女の瞼がわずかに開いた。
黒い瞳が、焦点の合わないまま俺を捉える。
唇が動く。
俺は顔を近づけた。
「何? 聞こえない」
女は残った力を振り絞るように、俺の袖を掴んだ。
そして、かすれた声で一つの言葉を口にした。
「……に、ほん……」
身体から力が抜ける。
「おい! しっかりして!」
返事はない。
それでも脈は残っている。
俺は血に濡れた白装束と、女が抱えた「稲種」の箱を見つめた。
七年間。
この世界で日本の名を知っている人間に、俺は一人も会ったことがなかった。
そのはずだった。
けれど今、目の前にいる。
日本という言葉を知り、勾玉を持ち、漢字で書かれた稲の種を命がけで運んできた人間が。
俺はもう一度、女の顔を見る。
ベルクから村へ帰るだけだったはずの道が、この瞬間、まったく別の場所へつながった気がした。




