第30話 帰れるなら、帰りたい?
「レン。その文字について、知っていることを全部話せ」
ゼクトにそう言われて、俺は古びた資料の上にある二文字を見つめた。
熱。移。
前世では小学生でも読めるような漢字だ。それが今は、百年以上も解読されなかった魔術資料の中に残っている。俺にとっては見慣れた文字なのに、この世界では存在するだけで異物だった。
どこまで話すべきだろう。
日本のことを口にしてから、村では神殿の像が壊れた。地下から天照大御神の名が見つかり、三本足の鴉まで現れた。昨日届いた「東を目指せ。米は門である」という言葉も、まだカイルにすら話していない。
何でも隠せばいいとは思わない。けれど、何も考えず話すのも違う。それは最近ようやく覚え始めたことだった。
「この二つは、俺がいた場所で使われていた文字です」
ゼクトの片眉が上がる。
「日本か?」
「うん。『熱』は熱いって意味で、『移』は何かを別の場所へ動かす、みたいな意味があります」
「では、この図は?」
資料には二つの器が描かれ、その間を一本の矢印が結んでいる。片方の器のそばには火のような記号があり、もう片方には見たことのない術式が刻まれていた。
「全部は分からないです。でも、この二文字だけなら……熱を移す、って読めると思う」
ゼクトは黙り込んだ。
しばらくして、指先で紙の端を慎重になぞる。
「お前の国では、熱を移す技術が一般的だったのか?」
「冷蔵庫って道具がありました。食べ物を冷たいまま保存する箱です」
「各家庭に?」
「だいたい」
ゼクトが固まった。
「……各家庭に?」
「うん」
「貴族ではなく?」
「普通の家にも」
今度は両手で顔を覆った。
「お前の国、どうなってるんだ」
気持ちは分かる。
俺だってこの世界へ来るまで、冷蔵庫があることを特別だとは思っていなかった。水道も、電気も、ガスも、スーパーもそうだ。失ってみると、あれだけの仕組みを日常として維持していたことの方がおかしく思えてくる。
ゼクトはすぐ研究者の顔に戻った。
「構造を描け」
「無理です」
「なぜだ」
「俺、冷蔵庫を作る人じゃなかったから」
「知っていたのだろう?」
「使い方は」
冷蔵庫を開ければ冷える。その程度のことなら日本人の大半が知っているだろう。だが、圧縮機をどう作るとか、冷媒を何にするとか、そんなものまで知っている高校生がどれだけいる。
ゼクトは心底残念そうな顔をした。
「役に立たんな」
「七歳に何を求めてるんだよ!」
「さっきまで自分で前の国の技術を語っていただろう」
ぐうの音も出ない。
結局、俺が説明できたのは「熱を箱の中から外へ運ぶらしい」「何かを圧縮したり膨らませたりしていた気がする」という曖昧な知識だけだった。それでもゼクトは文句を言いながら紙へ書き留めていた。
工房を出た頃には、空が赤く染まり始めていた。
ハーゲンは商人仲間との用事があるらしく、先に宿へ戻っている。俺は一人で市場へ向かいながら、さっきの資料のことを考えていた。
日本語が残っている。
しかも、神社や神話に関係する場所ではない。
魔法の研究資料に。
それが意味することは、一つではない。
日本人がこの世界にいたのかもしれない。
俺と同じように。
そう考えた瞬間、足が止まった。
今まで、考えなかったわけじゃない。
俺がこの世界へ来たなら、他にも同じ人間がいる可能性はある。けれど日本そのものが消されたと聞いてからは、どこかで諦めていた。
もし。
本当に、もし。
俺以外にも日本を覚えている人がいるとしたら。
俺が知らないだけで、この世界のどこかに日本人が生きているとしたら。
さらにその先。
日本へ戻る方法まで残っているとしたら。
胸が高鳴るより先に、リナの顔が浮かんだ。
『兄ちゃん、おみやげ!』
村を出る朝、小さな指を俺の指へ絡めてきた妹。
次に母さん――ミラ。
父さん――ガルド。
二人が俺を見送った時の顔。
前世の家族に会いたい。その気持ちは本物だ。
でも、今の家族も本物だ。
俺は七年間、あの家で育った。熱を出せばミラが一晩中そばにいてくれたし、ガルドには何度も肩車してもらった。リナが生まれた日のことも覚えている。初めて俺の料理を美味しいと言った時の笑顔だって忘れられない。
もし「日本へ帰れる。ただし二度とこの世界には戻れない」と言われたら、俺はどうする?
答えが出なかった。
前世の妹を選べば、リナを置いていくことになる。
リナを選べば、前世の妹を諦めることになる。
どちらが本当の家族なのか、なんて問いなら簡単だった。
どっちもだ。
だから困る。
「何だ、その顔」
不意に聞き慣れた声がした。
顔を上げると、市場の端にある屋台でカイルが串肉を食べていた。
「どの顔?」
「腹壊した顔」
「もっといい例えないの?」
「昨日から考え事多すぎなんだよ、お前」
カイルは串をもう一本買い、俺へ投げてよこした。
反射的に受け取る。
「金ないんだけど」
「貸しだ」
「ハーゲンみたいなこと言うなよ」
「利子は次の料理勝負な」
それなら悪くない。
二人で市場の端に座り、串肉を食べる。塩と香草だけの単純な味だったが、肉の焼き方は悪くなかった。
カイルはしばらく何も聞かなかった。
それが逆にありがたかった。
「なあ、カイル」
「ん?」
「もしさ。ずっと帰れないと思ってた場所に、帰れるかもしれないって分かったらどうする?」
カイルは串を噛みながら俺を見る。
「帰りたいなら帰れば?」
簡単に言う。
「でも、今いる場所にも大事な人がいるんだよ」
「連れてけばいいじゃん」
「連れていけないかもしれない」
「じゃあ行ったり来たりすればいい」
「できないかもしれない」
カイルは露骨に面倒そうな顔をした。
「さっきから『できないかもしれない』ばっかじゃねえか」
言われて、黙った。
「まだ何も分かってねえんだろ?」
「……うん」
「なら、今悩んでもしょうがなくね?」
正論だった。
十一歳にまた正論で殴られた。
俺が黙っていると、カイルは残った肉を口へ放り込んだ。
「帰る道がないなら探せばいいし、行ったら戻れねえなら戻れる方法作ればいいだろ」
「そんな簡単に言うなよ」
「料理だってそうじゃん」
思わずカイルを見る。
「硬い肉なら柔らかくする。臭いなら消す。東穀が不味いなら、お前みたいに食い方変える。できないから終わりじゃなくて、どうすりゃできるか考えるのが料理人なんだろ?」
俺はしばらく何も言えなかった。
こいつにそんなことを言われるとは思わなかった。
というか、それ。
「俺が昨日言ったこと混ざってない?」
「知らねえ」
「絶対混ざってるだろ」
「うるせえな!」
でも、少し笑えた。
そうだ。
まだ何も分かっていない。
日本へ帰れるのかすら分からないのに、今からどちらかの家族を捨てる想像をして落ち込んでいた。
俺の悪い癖だ。
答えが見えそうになると、途中を飛ばして先へ走る。
今やるべきなのは選ぶことじゃない。
知ることだ。
日本に何が起きたのか。
どうして俺はここにいるのか。
東には何があるのか。
その全部を知った後で、選ばなくて済む方法を探せばいい。
「カイル」
「何だよ」
「ありがと」
「気持ち悪い」
「一言多いんだよ」
笑いながら立ち上がった時だった。
頭上で羽音がした。
俺だけが反応した。
黒い鴉が市場の屋根を越えていく。
普通なら珍しくもない鳥だ。
けれど、その鴉は一度こちらを振り返るように旋回した。
脚が三本ある。
「カイル、ちょっと先に戻ってて」
「何で?」
「用事思い出した」
「また変なことすんなよ」
「しない!」
信用されていない。
カイルが去るのを待ち、俺は鴉を追った。
市場を抜け、細い路地へ入る。黒い影は屋根から屋根へ移りながら、こちらがついてきていることを確かめるように速度を落としていた。
やがて、人通りのない小さな広場へ出た。
中央には枯れた噴水。
鴉はその縁へ降りた。
俺が近づくと、足元に小さな木片が落ちる。
拾い上げる。
表面には、また読めない文字が刻まれていた。
それでも前回と同じように、意味だけが頭の中へ入ってくる。
――東に、最後の巫女がいる。
息が止まりそうになった。
巫女。
その言葉を、この世界へ来て初めて聞いた。
神殿の巫女ではない。
俺にとってその言葉は、白衣と緋袴を着た人たちや、じいちゃんの神社の風景と結びついている。
「最後って……どういう意味だよ」
鴉は答えない。
ただ、黒い瞳でこちらを見ている。
「日本人なのか?」
反応はない。
「日本を知ってる人なのか?」
それでも何も答えず、鴉は翼を広げた。
飛び立つ直前、その三本の脚が夕日に照らされた。
向かう先は、やはり東だった。
俺は木片を握ったまま、その姿を見送った。
帰れるかどうかは分からない。
そもそも帰る場所が残っているのかさえ分からない。
でも、日本を知る誰かがいる可能性は、昨日より確かになった。
そして俺は、カイルの言葉を思い出す。
道がないなら、作ればいい。
料理と同じだと言われると少し乱暴な気もするけれど、今の俺にはそれくらいの考え方がちょうどいい。
前の家族も、今の家族も、最初からどちらかを諦めるつもりはない。
そんな都合のいい方法が存在しないなら、その時はその時だ。悩むのは、そこまで辿り着いてからでいい。
まず東へ行く。
最後の巫女に会う。
そして、日本に何が起きたのかを知る。
俺は木片を懐へしまい、宿へ向かって歩き出した。
明日は村へ帰る日だ。
その前に、カイルへ負けたままになっている魚料理の勝負を、どうにかしなければならない。
日本の謎も大事だ。
家族のことも大事だ。
でも、料理人として売られた喧嘩を放置するのも、それはそれで許せなかった。




