第29話 魔法で冷蔵庫を作れないか?
ノアとミナに温かい飯を食べさせた翌日、俺は市場の魚屋の前で立ち止まっていた。
昨日までは、魚を見ると「どう料理するか」ばかり考えていた。焼くか、煮るか。骨から出汁は取れるか。東穀と合わせたらどうなるか。けれど今は、少し違うところが気になっている。
店先の木箱には、朝獲れたという魚が並んでいた。その横では、店主が昨日の売れ残りらしい魚をまとめて籠へ放り込んでいる。腹の辺りは柔らかくなり、鼻を近づけなくても生臭さが分かる。
「それ、どうするんですか?」
俺が尋ねると、魚屋の男は籠を持ち上げながら肩をすくめた。
「肥料だな。まだ食えるやつは安く売ったが、これ以上置いたら腹壊す」
「毎日捨てるの?」
「暑い時期はな。川から町まで運んでる間に駄目になることもある」
もったいない。
その言葉が喉まで出かかったけれど、飲み込んだ。
前世なら冷蔵庫へ入れればいい。
氷を使う方法だってある。
でも、この世界ではその「当たり前」がない。
昨日、ノアたちを見て思った。腹を空かせている人がいる一方で、食べ物は腐って捨てられている。
だったら、腐らせなければいい。
そこまで考えたところで、自分でも少し嫌になる。
まただ。
俺は問題を見つけると、すぐ「じゃあ解決すればいい」と考える。
料理なら、それで何とかなったことも多い。
でも昨日、ハーゲンに言われたばかりだ。目の前の問題だけ見て走るな、と。
俺は一度魚から離れ、少し後ろで商人と話していたハーゲンを待った。
「ハーゲン」
「嫌な予感がしますね」
「まだ何も言ってない」
「レン君が市場で一点を見つめながら黙り込んでいる時は、だいたい何か始めます」
失礼な。
ただ、反論はできない。
「魚を冷やしたまま運べたら、捨てる量減るよね?」
ハーゲンはすぐには答えず、魚屋の籠を見た。
「減るでしょうね。氷を大量に用意できるなら」
「魔法で」
「ほら始まった」
ため息をつかれた。
それでも、今回は勝手に実験を始める前に相談した。少しは成長したと思ってほしい。
「冷やす魔法ってないの?」
「ありますよ。ただ、私に聞くより専門家へ聞いた方が早いでしょう」
そう言って連れて行かれたのが、ベルクの北側にある魔法工房だった。
外から見ると鍛冶屋に少し似ている。石造りの建物から細い煙突が何本も伸び、入口には杖ではなく、円と線が複雑に組み合わされた金属板が吊るされている。
中へ入った瞬間、鼻に妙な匂いがついた。
焦げた金属。
薬草。
それから雨の直前みたいな、少しぴりっとした空気。
棚には透明な石、色のついた粉、細い金属線、見たことのない器具が並んでいた。奥では青白い光が一定の間隔で明滅している。
「触らないでくださいね」
ハーゲンが言う。
「まだ何もしてない」
「それを今日だけで二度聞きました」
俺の信用が低い。
「ハーゲンか。珍しいな」
奥から出てきた男は、三十代くらいに見えた。
長い灰色の髪を後ろで雑に束ね、片方の目に小さな丸眼鏡のようなものを掛けている。服の袖には焦げ跡があり、指先は青い染料のようなもので汚れていた。
「ゼクトさん。少し相談がありまして」
「商売なら断る」
「今日はこの子です」
ゼクトの視線が俺へ落ちる。
「子供?」
「レンです。七歳です」
「帰れ」
早い。
「まだ何も言ってない!」
「七歳児の魔法相談は、ろくなことにならん」
この町の人間は七歳への偏見が強すぎないか。
ハーゲンが笑いを堪えながら事情を説明すると、ゼクトは少しだけ態度を変えた。
「食品を冷やしたい?」
「できれば、箱の中をずっと冷たいままにしたいです」
「氷結術式を置けばいい」
「ずっと?」
「術者が魔力を流している間はな」
それでは冷蔵庫というより、人間冷却装置だ。
「魔石とかで動かせない?」
「動かせる。ただし魚より魔石の方が高くつく」
駄目だ。
ノアたちのような人間にも届く仕組みを考えるなら、高価な魔石を大量消費する方式では意味がない。
俺は工房の中を見回した。
「冷やすって、どうやってるんですか?」
ゼクトの眉が少し動いた。
「氷を作る」
「そうじゃなくて、何が起きて冷たくなるの?」
今度は、ゼクトが俺をじっと見た。
「面白い聞き方をするな」
俺は前世の知識を思い出す。
冷蔵庫は、冷気を作っているというより、内側の熱を外へ運んでいたはずだ。
たしか冷媒とか、圧縮とか、気化熱とか。
そこまでは覚えている。
でも。
詳しい仕組みを説明しろと言われたら無理だ。
俺は料理好きの高校生であって、冷蔵庫技師ではない。
「たぶんなんですけど」
最初からそう断っておく。
「冷たいものを作るっていうより、熱を別の場所へ移せばいいんじゃないかなって」
ゼクトの顔から、わずかに退屈そうな色が消えた。
「続けろ」
「箱の中にある熱を、外へ出す。そうすれば中は冷える……と思う」
「思う?」
「そこから先は分からない」
正直に言う。
以前なら、知っている断片だけで突っ走っていたかもしれない。
でも昨日ローデンに教わったばかりだ。
知らないことは、知らないと言う。
ゼクトはしばらく俺を見た後、作業台から二つの金属板を持ってきた。
「熱が移る、という考え方自体は間違っていない」
「本当?」
「だが、お前はたぶん簡単に考えすぎている」
図星だった。
ゼクトは片方の金属板を小さな火で温め、もう一枚を重ねた。
「触れ」
「熱っ!」
「馬鹿。端を触れ」
先に言ってほしい。
恐る恐る端へ触れると、最初は冷たかった二枚目の板も少しずつ温かくなっている。
「熱は伝わる。だが、勝手に好きな方向へだけ動いてくれるわけじゃない。箱の中から外へ運び続けたいなら、その流れを作る仕組みが必要だ」
「魔法で作れない?」
「それを試すんだろう?」
ゼクトが笑った。
初めて少しだけ、料理勝負前のカイルと似た顔をした。
そこから実験が始まった。
小さな木箱の中へ水を入れた杯を置き、箱の内側から熱を吸い出すイメージで水魔法と風魔法を組み合わせる。
最初は何も起きなかった。
二度目は箱の外側だけが妙に冷えた。
三度目。
「もっと一気にやれば――」
「待て」
ゼクトが止めるより先に、俺は魔力を強めた。
次の瞬間、箱の側面が白く凍りつき、内側の杯が弾けた。
パァン、と乾いた音が工房へ響く。
水が飛び散る。
俺は固まった。
ゼクトも黙っている。
ハーゲンは目を閉じて額を押さえていた。
「……ごめんなさい」
「だから七歳児は嫌なんだ」
反論できない。
ゼクトは濡れた作業台を布で拭きながら、壊れた杯を拾った。
「結果を急ぐな。強くすれば上手くいくなら、魔術師は全員力自慢で済む」
耳が痛い。
「料理だって同じじゃないですか?」
ハーゲンが横から言った。
さらに痛い。
強火にすれば早く焼けるわけではない。
分かっていたはずなのに。
俺はまた、答えが見えた気がして先へ走った。
「……もう一回やっていい?」
ゼクトは俺を見る。
「今度は?」
「少しずつやる」
「ならやれ」
四度目は、ほんの少しだけ成功した。
箱の中の水の温度が、外より明らかに低くなった。
氷にはならない。
冷蔵庫と呼ぶには程遠い。
それでも、触れた指先に確かな冷たさがあった。
「できた……」
嬉しかった。
でも、今度は飛び跳ねなかった。
まだ入口だ。
どうやって少ない魔力で続けるか。
箱の素材は何がいいか。
熱が戻らないようにするにはどうするか。
分からないことだらけだ。
だから面白い。
ゼクトも同じことを考えているらしく、壊れた箱と無事だった箱を見比べていた。
「この発想、どこで覚えた?」
「前にいたところ」
「日本、か」
心臓がわずかに跳ねた。
「知ってるんですか?」
「知らん」
即答だった。
「だが、お前が市場でその名を口にしたことは聞いている。誰も知らない国のくせに、ずいぶん妙な知識を持っているらしいな」
ベルク、本当に噂が回るのが早い。
ゼクトはそう言いながら、工房の奥にある棚へ向かった。何冊かの本と巻物をどかし、底の方から革で包まれた薄い板の束を引っ張り出す。
「似た話を、昔どこかで見た気がする」
机へ置かれたそれは、本というより古い研究記録だった。
紙は黄ばんでいる。
端は焼け焦げ、文字も半分以上読めなくなっていた。
「どこで手に入れたの?」
「東方の遺跡から出た術式資料だ。百年以上前にギルドへ持ち込まれた。誰も完全には解読できなかった」
東方。
その言葉だけで、昨日の八咫烏を思い出す。
ゼクトが慎重にページをめくる。
見たことのない術式文字。
数字らしい記号。
円と線。
俺にはほとんど意味が分からない。
けれど、あるページで指が止まった。
中央に描かれた図。
二つの器。
その間を結ぶ矢印。
そして、その横に書かれていた文字を見た瞬間、喉が詰まった。
この世界の文字じゃない。
俺は読める。
そこには、二つの漢字が残っていた。
「……熱」
ゼクトが顔を上げる。
「読めるのか?」
俺は次の文字へ目を移した。
「こっちは……『移』」
熱。
移。
熱を、移す。
さっき俺が口にした言葉と、ほとんど同じ意味だった。
偶然だとは思えなかった。
昨日、八咫烏は言った。
『東を目指せ。米は門である』
そして今日、東から持ち込まれた古い魔術資料の中に、日本の文字があった。
俺はページへ顔を近づけた。
日本が消されたなら、これは誰が書いた?
いつ書いた?
どうして魔法の研究資料に漢字が残っている?
冷蔵庫を作りたかっただけだった。
魚を少しでも長く保存できれば、捨てる量が減ると思った。それが巡り巡って、ノアやミナみたいな人間にも安い食べ物を届ける助けになるかもしれないと考えただけだった。
なのに、また日本へつながった。
ゼクトが静かに俺を見る。
「レン。その文字について、知っていることを全部話せ」
俺はすぐには答えなかった。
昨日、八咫烏から受け取った紙をカイルに隠したことを思い出す。
何を話していい。
何を隠すべきだ。
まだ判断できない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
日本の痕跡は、神殿の地下だけに眠っているわけじゃない。
食べ物にも。
魔法にも。
この世界のあちこちに、消しきれなかった何かが残っている。
俺は古びた紙に記された「熱」と「移」の二文字を見つめながら、昨日よりも少しだけ、東という方角が近くなった気がした。




