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神々のいない食卓~日本の消えた異世界で、料理好きの俺は和食を作る~  作者: ちゃむたろう
第三章 町へ――料理人、世界を知る

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第28話 料理だけじゃ、救えない

翌日の料理人ギルドで、俺は朝から魚と格闘していた。


昨日ローデンに「次は魚だ」と言われた通り、今日はベルク近くの川で獲れるという平たい魚を一匹丸ごと渡された。前世でも魚を捌いた経験は少しあったけれど、骨の位置も身の付き方も知っている魚とは違う。最初の一匹は腹を開く位置を間違え、二匹目は骨に身を残しすぎて、ローデンに「骨まで太らせるつもりか」と笑われた。


それでも三匹目になると、少しずつ刃の入り方が分かってきた。


知らない食材を、自分の手で覚えていく。


それが楽しくて仕方なかった。


昼を過ぎてギルドを出る頃には、俺の頭の中はすでに魚料理でいっぱいだった。焼くなら皮をどうするか、骨は出汁に使えるか、昨日炊いた東穀と合わせても面白そうだ。そんなことを考えながら市場を歩いていたせいで、最初は自分の腰に下げた袋が軽くなったことにも気づかなかった。


「レン君」


隣を歩いていたハーゲンが、突然足を止めた。


「何?」


「東穀の袋は?」


言われて腰を見る。


ない。


昨日買った残りを入れていた小袋が、紐ごと消えていた。


「えっ?」


慌てて周囲を見回した。


人、人、人。買い物客に荷車、店先で声を張り上げる商人たち。その間を、小さな影が走っていく。


灰色のぼろ布みたいな服。


細い身体。


そして、その手には見覚えのある袋が握られていた。


「待て!」


考えるより先に身体が動いた。


人の間を抜け、少年を追う。


七歳の身体では大人の足には勝てないが、相手もそれほど大きくない。九歳くらいだろうか。少年は何度も後ろを振り返りながら細い路地へ入り、積まれた木箱を飛び越えた。


俺も続く。


「返せ!」


「来るな!」


「それ、借金して買ったんだぞ!」


自分でも、追いかけながら言う台詞じゃないと思った。


でも本当だ。


ハーゲンから利子付きで借りた金で買った東穀である。しかも俺にとっては、ただの珍しい穀物ではない。日本へつながるかもしれない手掛かりだ。


盗られて笑って済ませられるものではなかった。


少年はさらに奥へ逃げたが、狭い路地の突き当たりで足を滑らせた。身体が地面へ倒れ、手から東穀の袋が転がる。


俺はようやく追いつき、袋を拾った。


「返してもらうからな」


少年が起き上がる。


近くで見ると、思っていた以上に痩せていた。


頬はこけ、髪は伸びっぱなし。服は何度も継ぎ当てされているが、それでも袖口は破れている。俺を見る目には反省より警戒が強かった。


「……返せよ」


「俺のだよ」


「売ればパンが買える」


その言葉で、俺の怒りが少しだけ止まった。


「食べるんじゃないの?」


「こんなの食い方知らねえよ」


少年は吐き捨てるように言った。


「珍しい穀物なんだろ。金になると思っただけだ」


俺は袋を見る。


そうか。


こいつにとっては、日本への手掛かりでも米に似た食べ物でもない。


ただの金になる物だ。


「名前は?」


「……ノア」


「何歳?」


「九つ」


俺より二歳上。


そう思った瞬間、妙な気分になった。見た目だけなら俺より年上なのに、今のノアは子供というより、ずっと追い詰められた小動物みたいに見える。


「なんで盗んだ?」


「言っただろ。パン買うためだ」


「自分の?」


ノアが黙った。


その沈黙で、何かあると分かった。


俺がさらに聞こうとした時、路地の奥から小さな咳が聞こえた。


ノアの顔色が変わる。


「来るな!」


俺より先に走り出し、壊れかけた木箱と布で塞がれた隙間へ入っていく。


覗くなと言われれば、気になる。


俺も後を追った。


建物と建物の間にできた狭い空間だった。屋根代わりに古い布が張られ、その下に藁と木箱が置かれている。


そこに、小さな女の子がいた。


五歳くらい。


薄い毛布に包まり、壁へ寄りかかっている。


「兄ちゃん……?」


「起きるな、ミナ」


ノアが慌てて妹の前にしゃがむ。


ミナと呼ばれた少女は、俺を見ると怯えたように身体を縮めた。


「その子、妹?」


「見りゃ分かるだろ」


「親は?」


ノアは答えなかった。


代わりにミナのお腹が鳴った。


小さな音だった。


でも、俺にはやけに大きく聞こえた。


昨日、俺は東穀を食べて泣いた。


七年ぶりに故郷を思い出して、米に似た味が嬉しくて泣いた。


その同じ穀物を、ノアはパンへ換えるために盗んだ。


自分と妹が腹を満たすために。


胸の奥に、言葉にしづらいものが湧いた。


「いつから食べてない?」


ノアが睨む。


「関係ねえだろ」


「いいから」


「昨日、ちょっと食った」


「何を?」


「パン」


「どれくらい?」


答えない。


ミナを見る。


細い手。


乾いた唇。


考えるより先に口が動いた。


「飯、作る」


ノアが眉を寄せた。


「は?」


「食べさせる。二人とも」


「金ねえぞ」


「いらない」


「なんで」


「腹減ってるんだろ?」


「だから何だよ!」


突然、ノアが声を荒らげた。


俺は思わず黙った。


「飯一回くれたら何なんだよ。今日食って、明日は? 明後日は? ずっとお前が持ってきてくれんのか?」


何も言えなかった。


その通りだった。


俺は「腹を空かせているなら食べさせればいい」と思った。


料理ならできる。


東穀もある。


骨から取った出汁だってギルドへ行けば作れる。


だから助けられると思った。


でも、ノアが聞いているのは今日の夕飯の話ではない。


明日の話だ。


「だったら毎日――」


そこまで言いかけたところで、肩を掴まれた。


振り返るとハーゲンが立っていた。


いつの間に追いついたらしい。


「レン君。それを言う前に考えなさい」


「でも」


「毎日とは、いつまでです?」


答えられない。


「その食材は誰が用意します? あなたのお金ですか。ご両親のお金ですか。それとも、また私から借りますか?」


痛い。


全部、正しい。


俺は勢いで「毎日食べさせる」と言おうとした。


でも俺は七歳だ。


自分で安定して金を稼いでいるわけでもない。


村の屋台で得た金も少しはあるが、二人を何年も養えるほどではない。ましてベルクには、ノアと同じような子供が他にもいるかもしれない。


一人見つけるたびに毎日食べさせると言ったら、いつか俺自身が何もできなくなる。


「……じゃあ、どうすればいいの」


自分でも驚くほど小さな声が出た。


ハーゲンはすぐには答えなかった。


ノアとミナを見て、それから俺を見る。


「まず、今日食べさせればいいのでは?」


「でも、それじゃ明日は――」


「明日のことを考えるのは大切です。ただ、明日を完全に解決できないからといって、今日何もしない理由にはなりません」


ハーゲンは少しだけしゃがみ、俺と目線を合わせた。


「全員を救えないからといって、一人も救わない理由にはならないでしょう」


その言葉を聞いて、俺はしばらく動けなかった。


料理だけでは救えない。


腹いっぱい食べさせても、貧しさが消えるわけじゃない。寝る場所ができるわけでもないし、明日の食材が勝手に湧いてくるわけでもない。


でも、だからといって目の前で腹を空かせている人間を放っておくのも違う。


俺は東穀の袋を握り直した。


「ノア」


「……何だよ」


「これ、盗んだ分は返してもらう」


ノアの顔が険しくなる。


「でも、その代わりに一緒に来て」


「どこへ」


「料理人ギルド」


「嫌だ」


「飯作る」


「いらねえ」


ミナのお腹が、また鳴った。


ノアが黙る。


俺は少しだけ笑った。


「妹は正直みたいだけど」


「……うるせえ」


結局、二人をギルドへ連れていった。


ローデンには事情を話す前から嫌そうな顔をされたが、骨や野菜の切れ端を使わせてほしいと頼むと、俺をしばらく見た後、「捨てるところだったもんだけにしろ」と鍋を貸してくれた。


昨日教わった鳥の骨。


形の悪い根菜。


売り物にはしにくい葉。


そこへ東穀を少し。


骨から出汁を取り、野菜を柔らかく煮て、最後に東穀を加える。


豪華な料理ではない。


でも、温かい。


ノアは最初、警戒して匙を持とうとしなかった。


ミナが先に一口食べた。


ゆっくり噛む。


そして、もう一口。


「おいしい」


その一言で、ノアもようやく匙を取った。


二人が食べる姿を見ながら、俺は思った。


リナに料理を作った時とは違う。


村のみんなに新しい料理を食べてもらった時とも違う。


美味しいと言ってもらえたのに、胸の奥が全部晴れるわけではなかった。


この二人は、明日も腹が減る。


その現実は変わらない。


「ハーゲン」


「何です?」


「料理だけじゃ、駄目なんだね」


ハーゲンは少し考えてから頷いた。


「料理だけで解決できることは、案外少ないかもしれません」


やっぱりそうか。


少し落ち込んだ。


けれど、ハーゲンは続けた。


「ですが、料理がなければ始まらないこともあるでしょう」


俺は顔を上げた。


向こうでは、ミナが空になった椀を両手で持っている。ノアはまだ警戒した顔をしているけれど、さっきより少しだけ肩の力が抜けていた。


今日の飯だけでは救えない。


だから、明日のことも考えなければならない。


食べ物を作るだけじゃなく、それを買える仕組み。働ける場所。余った食材を捨てずに回す方法。俺一人では分からないことばかりだ。


だったら、分かる人に聞けばいい。


昨日、ローデンから丸鳥の捌き方を教わったように。


知らないことを、知らないままにしなければいい。


俺は空になった鍋を見ながら、初めて思った。


美味しい料理を作れるだけでは、まだ足りない。


誰かに食べてもらいたいなら、その人が食卓まで辿り着ける方法まで考えなければいけないのかもしれない。


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