第27話 誰に食べさせたい?
東穀を炊いた日の昼過ぎ、俺はベルクの料理人ギルドの前に立っていた。
建物は市場から少し離れた通りにあり、俺が想像していたよりずっと大きい。石造りの二階建てで、入口の上には包丁と鍋を組み合わせた看板が掛かっている。開け放たれた扉の奥からは、肉を焼く匂い、煮込みの湯気、香草の青い香りが混ざって流れてきた。
それだけで足が勝手に前へ進みそうになる。
「何にやにやしてんだよ」
横からカイルに言われて、俺は口元を押さえた。
「してない」
「してる。昨日市場見てた時と同じ顔だ」
「お前、なんで付いてきてるの?」
「俺もギルドに用があるんだよ。料理人になるなら避けて通れねえだろ」
昨日の勝負以来、カイルは妙に俺へ絡んでくる。朝は勝手に宿の厨房へ入って東穀を食べ、昼になれば今度は当然のようにギルドまで一緒に来た。嫌ではないが、距離の詰め方が早すぎる気もする。
少し後ろでは、ハーゲンが俺たちを眺めながら笑っていた。
「友人ができてよかったですね」
「友人じゃねえ!」
俺ではなくカイルが即座に否定した。
「ライバルだ!」
「はいはい」
「その反応やめろ!」
面倒くさいけど、やっぱり嫌いじゃない。
ギルドへ入ると、中はさらに騒がしかった。受付の向こうでは料理人らしい男たちが書類を持って行き来し、壁には食材の相場や店の募集、祭りの料理人募集などが貼り出されている。奥には広い厨房があり、若い料理人たちが何人も包丁を握っていた。
村では見たことのない光景だった。
料理を仕事にしている人間が、こんなにいる。
俺が立ち止まって見回していると、受付にいた女性がこちらへ目を向けた。
「カイル。また何かやったの?」
「何もやってねえよ!」
「昨日、市場で料理勝負したって聞いたけど」
情報が早い。
ベルクの人間は暇なのだろうか。
「そいつだよ」
カイルが俺を指差す。
「俺に勝った七歳」
受付の女性の視線が、ゆっくり俺へ落ちてきた。
「……七歳?」
「レンです」
「本当に?」
最近こればかり聞かれている。
俺が返事に困っていると、厨房の奥から低い声が飛んできた。
「そいつをこっちへ連れてこい」
声の主は、大きな鳥を捌いていた。
四十代くらいだろうか。太い腕に無数の古い火傷と切り傷があり、左の頬には耳元まで伸びる傷跡がある。体格だけ見れば料理人というより傭兵に近い。
男は巨大な鳥の脚を押さえ、骨の隙間へ包丁を入れた。力任せに切っているように見えたのに、刃はほとんど抵抗なく関節を抜けていく。
俺は思わず男の手元へ見入った。
速い。
いや、それより無駄がない。
「ローデンさん、連れてきました」
受付の女性が言う。
男――ローデンは包丁を置き、布で手を拭いてから俺を見た。
「お前が市場でカイルに勝ったガキか」
「勝ったのは一回だけです」
「おい!」
カイルが不満そうな声を上げる。
「一回でも勝ちは勝ちだろ!」
「次やったら分かんないだろ」
「……お前、そういうこと言うのずるいぞ」
何がずるいんだ。
ローデンは俺たちをしばらく眺めた後、鼻で笑った。
「カイルがうるさくなる理由は分かった」
「どういう意味だよ!」
「そのままの意味だ」
カイルが噛みつきそうになったところで、ローデンは再び俺へ視線を戻した。
「料理を見せろ」
「今ですか?」
「料理人ギルドに来たんだろう。何か作りたいから来たんじゃねえのか」
確かにその通りだ。
俺は厨房を見る。
肉、根菜、香草、豆、魚。昨日市場で見た食材より種類が多い。鍋も鉄板も揃っているし、何より包丁が何本もある。
一瞬、何を作ろうかと頭が動き始めた。
肉なら昨日の応用ができる。東穀も持ってくれば何か作れた。魚も気になる。
でも、その時。
調理台に横たわる大きな鳥が目に入った。
羽はすでにむしられている。首も落とされている。
それなのに、俺はその鳥をどう分ければいいのか分からなかった。
前世なら、鶏肉は部位ごとに切られて売っていた。
もも肉。
むね肉。
手羽。
ささみ。
必要なものをスーパーで買えばよかった。
丸鶏を捌く動画を見たことはある。知識として、関節の位置や骨に沿って切ることも知っている。
けれど。
やったことはない。
俺はローデンを見る。
「料理を作る前に、一つ教えてもらっていいですか?」
ローデンの眉が動いた。
「何だ」
俺は鳥を指差した。
「それ、どうやって捌くんですか?」
カイルが目を丸くした。
「知らねえの?」
「丸ごとはやったことない」
「昨日あんな料理作ってたのに?」
「知らないものは知らない」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
この世界へ来てから、俺は何度も周囲を驚かせてきた。火魔法の使い方。燻製。保存食。出汁。東穀の炊き方。
そのせいで、自分でもいつの間にか「料理なら分かる」と思い始めていたのかもしれない。
でも、そんなわけがない。
前世の俺は高校生だった。
料理人として働いた経験もない。
魚を一匹丸ごと捌くことだって少なかったし、牛や豚の解体なんて当然できない。知識があることと、手が動くことはまったく違う。
ローデンはしばらく黙って俺を見ていた。
怒られるかと思った。
「……誰に食わせたい?」
突然、そう聞かれた。
「え?」
「お前は料理を、誰に食わせたい」
何を聞かれているのか分からず、少し考える。
一番最初に浮かんだのはリナだった。
新しい世界で料理を始めた理由。
美味しいと言って笑ってほしかった。
次に父さんと母さん――今の世界のガルドとミラが浮かぶ。村のみんなも。エルナも。ハーゲンも。
そして、前世の妹。
二度と会えないかもしれない家族。
俺は答えに迷った。
一人を選べなかったからだ。
「……食べた人です」
ローデンが目を細める。
「随分でかく出たな」
「違います。最初は妹でした。でも今は、目の前にいる人が腹を空かせてたら、その人に美味しいものを食べてもらいたいです」
自分で言ってから、少し格好つけすぎた気がして恥ずかしくなる。
でも、本心だった。
俺が料理を作る時、いつも最後に考えるのは食べる相手だ。
昨日もそうだった。
カイルに勝ちたいと思った。
それでも最後には、店主が食べる料理だということを忘れないようにした。
ローデンは何も言わず、再び鳥の前へ立った。
「包丁持て」
「え?」
「教えてやる。丸鳥の捌き方だ」
俺は慌てて調理台へ近づいた。
ローデンは鳥を仰向けに置き、まず脚を外側へ開いた。
「いきなり肉を切ろうとするな。触れ」
言われた通り、脚の付け根を指で探る。
硬い骨。
その途中に、少しだけ動く場所がある。
「関節」
「そうだ。そこを見つけろ。刃物より先に、自分の指で食材の形を覚えろ」
前世で見た動画では、もっと簡単そうに見えた。
実際に触ると全然違う。
骨がどこへ続いているのか、肉の厚みがどこで変わるのか。目で見ただけでは分からない。
ローデンが一度見本を見せる。
刃先を骨に沿わせ、関節を外す。
力はほとんど使っていない。
「やってみろ」
俺は別の脚へ包丁を入れた。
浅すぎる。
骨に当たる。
角度を変える。
今度は肉を余計に削いだ。
「違う。包丁で探すな。指で探してから切れ」
「はい」
もう一度。
今度は関節を確認してから刃を入れる。
手応えが変わった。
刃がすっと抜ける。
「……取れた」
嬉しくて、思わず声が出た。
カイルが隣から覗き込む。
「そこ喜ぶとこか?」
「うるさい。初めてなんだからいいだろ」
「昨日俺に偉そうに肉の焼き方言ってたくせに」
「焼くのと捌くのは別!」
ローデンが大きく笑った。
その後も、むね肉を骨から外し、手羽を関節で分け、骨に残った肉を削いでいった。
簡単ではなかった。
むね肉は左右で大きさが違ってしまったし、片方の手羽は切る位置を間違えた。
それでも楽しかった。
知らないことを覚える。
できなかったことが、一つずつできるようになる。
前世で初めて包丁を握った頃の感覚を思い出した。
俺はずっと、この世界へ料理を教える側だと思っていた。
でも違う。
この世界には、この世界で積み重ねられた技術がある。
燃料を無駄にしない火の扱い。
硬い肉を食べるための工夫。
獲物を一切無駄にしない捌き方。
俺の知らないものが、山ほどある。
最後に、肉を取り終えた骨をローデンが持ち上げた。
「これはどうする?」
俺は少し考えた。
「捨てません」
「なら?」
骨を見る。
まだ肉が少し残っている。
髄もある。
「煮ます。出汁が取れる」
ローデンの口元がわずかに上がった。
「それでいい」
俺は鍋を借り、骨を軽く焼いてから水へ入れた。
臭みを抑えるために香草を少し。
火を弱め、ゆっくり煮出す。
しばらくすると、透明だった湯に薄い色がつき始めた。
ローデンが鍋を覗き込む。
「骨まで食わせる気か」
「食べられるところ、残ってるじゃないですか」
「骨は食えねえぞ」
「中身を食べます」
俺が笑うと、ローデンも鼻で笑った。
その日の夕方。
俺は、教わったばかりの鳥肉と骨から取ったスープで簡単な料理を作った。
派手な料理じゃない。
でも、昨日より少しだけ。
俺の知らなかった技術が入っている。
カイルがスープを飲みながら悔しそうに言った。
「これ、俺も覚える」
「いいよ」
「次の勝負で使うからな」
「じゃあ俺ももっと覚える」
言い返しながら、胸の奥が妙に軽かった。
料理を知っていることが強さなんじゃない。
知らないことを、知らないと言えること。
そして、誰かから教わること。
この世界で料理人として生きていくなら、たぶんそっちの方がずっと大事だ。
帰り際、ローデンが俺を呼び止めた。
「レン」
「はい?」
「明日も来い」
「いいんですか?」
「一羽捌いたくらいで覚えた気になるな。次は魚だ」
思わず笑った。
「お願いします」
ギルドを出ると、ベルクの空は夕焼けに染まっていた。
この町へ来てから、俺の知らない料理がどんどん増えている。
それが、たまらなく嬉しかった。




