第26話 七年ぶりの白い飯
料理勝負の翌朝、俺はまだ外が薄暗いうちに目を覚ました。
昨夜はなかなか寝つけなかった。カイルとの勝負が楽しかったこともあるし、「次は魚でやるぞ」と言われたせいで、頭の中に料理が次々浮かんできたこともある。
けれど、一番大きな理由は別にあった。
枕元には、昨日市場で買った東穀の袋が置いてある。
ヒムカに近い東の地域で採れるという、米によく似た穀物。村でハーゲンから初めて見せてもらった時から、ずっと試してみたかったものだ。
俺は隣の寝台で眠っているハーゲンを起こさないよう静かに抜け出し、袋を抱えて宿の厨房へ向かった。
厨房にはまだ誰もいなかった。昨夜の火は落とされ、ひんやりとした空気の中に薪と油の匂いだけが残っている。窓の外はまだ青黒く、ベルクの町もようやく目を覚まし始める時間らしい。
調理台の上で袋を開け、東穀を掌へ数粒乗せてみる。
前世の米より細長く、色もわずかに黄色い。精米も十分ではないらしく、表面には薄い皮の残っている粒もある。
期待しすぎるな、と自分に言い聞かせた。
これは米ではない。
似ているだけかもしれない。炊いたらぼそぼそになるかもしれないし、逆に昨日市場の店主が言っていたように、妙に粘って塊になる可能性もある。
それでも、胸の奥が落ち着かなかった。
桶から水を汲み、東穀を洗う。
指の間で粒を転がすようにして汚れを落としていると、水が少しずつ白く濁っていった。
その光景を見た瞬間、手が止まった。
前世では何度やったか分からない作業だ。
学校から帰って制服を着替え、まず米を研ぐ。冷蔵庫の中身を確認して、安売りで買った肉や野菜を見ながら夕飯を考える。腹を空かせた妹が台所を覗き込み、「今日なに?」と聞いてくる。
そんな何でもない光景が、指先の感触と一緒に蘇った。
「……まだ炊けてもないだろ」
自分に言い聞かせるように呟き、もう一度手を動かす。
ここで感傷的になっても仕方がない。
洗い終えた東穀を鍋へ移し、水を張った。
問題は水加減だ。
前世の米なら、多少雑でも身体が覚えている。けれど東穀は粒の大きさも硬さも違う。昨日聞いた話では、水で煮ると粘りが出すぎて不人気らしい。
なら、少し水を控えてみる。
一度で正解を当てる必要はない。失敗したら次に変えればいい。前世でも、安い食材を美味しくする方法なんて、ほとんど失敗しながら覚えた。
火をつける。
最初は強めに熱し、鍋の中から小さな音が聞こえ始めるのを待つ。やがて蓋の隙間から湯気が漏れ、穀物独特の青い香りが厨房へ広がった。
沸騰したところで火を弱める。
今では魔法による火加減の調整もすっかり身体に馴染んでいた。前世なら炊飯器のボタンを押せば終わっていたことを、今は音と匂いを確かめながら自分でやっている。
考えてみれば、炊飯器という道具はとんでもない。
水と米を入れてスイッチを押すだけで、温度も時間も勝手に調整してくれる。毎日のように使っていた頃には、それがどれだけ便利なのか考えもしなかった。
なくなって初めて分かるものは多い。
鍋の音が変わったところで火を止め、そのまま蒸らす。
あとは待つだけだ。
それが一番難しかった。
厨房の椅子へ腰掛けたものの、何度も蓋へ視線が向かう。今開けても逃げるわけではないのに、どうしても中を確認したくなる。
前世でも、妹が炊飯器の前でよく同じことを言っていた。
『もう食べられる?』
『まだ。あと十分』
『長い』
『我慢しろ』
今なら少し分かる。
「……長いな」
誰もいない厨房で呟き、思わず笑った。
十分ほど待ってから立ち上がる。
鍋の前に立ち、蓋へ手をかけた。
なぜか緊張していた。
失敗していても構わない。ただの料理だ。それなのに、自分でもおかしいくらい心臓が速い。
俺は一度息を吐いてから、蓋を開けた。
白い湯気が一気に顔へ押し寄せる。
その瞬間、身体が動かなくなった。
完全に同じ匂いではない。少し青臭さがあり、麦にも似た香りが混ざっている。
それでも、その奥に確かに知っている匂いがあった。
炊きたての米。
朝の台所。
弁当を作る母さんの背中。寝ぼけた顔で椅子へ座っている妹。新聞を読みながら味噌汁を飲む父さん。神社の掃除を終えたじいちゃんが、勝手口から入ってくる音。
特別でも何でもなかった朝が、湯気の向こうから突然戻ってきた。
「……なんだよ」
声が掠れた。
鍋の中を見る。
前世の白米ほど白くはない。粒も細長く、いくつかは割れている。それでも、一粒ずつが水を吸ってふっくら膨らんでいた。
木匙ですくって口へ運ぶ。
少し柔らかい。噛むと粘りがあり、その奥から穀物の甘さがじわりと出てくる。
白米とは違う。
でも、間違いなく近い。
「……うまい」
そう口にした途端、頬に何かが落ちた。
涙だった。
自分でも驚いた。
泣こうと思っていたわけではないし、悲しいと考えていたわけでもない。ただ、七年間ずっと蓋をしていたものが、炊き上がった東穀の匂いで急に開いてしまったようだった。
俺には死んだ記憶がない。
前世の最後に覚えているのは、妹の夕飯を作っていたことだ。鶏むね肉を切って、その日の安売り野菜をどう使おうか考えていた。
その後も当然のように人生が続くと思っていた。夕飯を食べて、皿を洗い、宿題をして、次の日には学校へ行く。その続きを生きるつもりだった。
なのに、気づけばこの世界で赤ん坊になっていた。
俺がいなくなった後、妹はどうしたんだろう。夕飯を待っていたんじゃないか。父さんと母さんは突然消えた息子を探したんだろうか。じいちゃんは何を思っただろう。
そして、ヴァルドの言った通り、日本そのものが「消された」のだとしたら。
俺の家族は今、どこにいるんだ。
存在していたことまで消されたのか。
「……ふざけんなよ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。日本を消した何者かか、何も知らないこの世界か、それとも七年経っても答えを見つけられない自分自身か。
考え続ければ、答えのない場所へ沈んでいきそうだった。
俺は木匙を強く握った。
「何がふざけてんだ?」
突然背後から声がして、危うく匙を落としかけた。
振り返ると、厨房の入口にカイルが立っていた。赤茶色の髪は寝癖でいつも以上に跳ね、まだ半分眠っているような顔をしている。
「……お前、いつからいた?」
「今。朝飯探しに来た」
「そう」
「で、なんで泣いてんだ?」
「泣いてない」
「泣いてるだろ」
俺は慌てて袖で目元を拭った。
「煙が目に入った」
カイルはかまどへ視線を移した。火はもう消えている。
「煙ないけど」
「細かいな、お前」
「明らかに嘘じゃねえか」
十一歳に正論で追い詰められる七歳児。中身まで考えれば、もっと情けない。
幸い、カイルはそれ以上追及しなかった。俺の横まで来ると、鍋の中を覗き込む。
「東穀じゃん。それ不味いだろ」
「食ったことあるの?」
「ある。煮たやつ。べたべたするし、変な匂いするし」
市場の店主と同じ評価だ。
俺は木匙を差し出した。
「食ってみろ」
「いらねえよ」
「いいから」
「朝から不味いもん食いたくねえ」
「昨日負けたくせに」
「食う!」
扱いやすい。
カイルは木匙を奪うように受け取り、一口食べた。
その表情が変わる。
「……何だこれ」
「東穀」
「それは分かる。俺が食ったのと違うぞ」
もう一口すくい、今度は味を確かめるようにゆっくり噛む。
「どうやった?」
「炊いた」
「煮るのと何が違うんだ?」
説明しようとして、少し考えた。
水の量を変えた。最初に強く熱し、途中から弱火にした。最後は火を止めて蒸らした。
一つ一つなら、大した工夫ではない。
それでも、その小さな違いが同じ食材を別物にする。
「食材ってさ、調理の仕方を知らないだけで、本当は美味しいのに不味いものだと思われることがあるんだよ」
カイルは匙を口へ運びながら、じっと俺を見る。
「お前、たまに七歳っぽくねえよな」
「余計なお世話」
そう返したものの、自分で言った言葉が妙に胸へ引っかかった。
本当はそこに価値があるのに、誰も正しい扱い方を知らない。そのまま誰にも求められなくなれば、いつか存在そのものまで忘れられてしまう。
なぜか、日本のことを思った。
この世界の人間は日本を知らない。料理も、言葉も、神様も、そこに国があったことすら知らない。
でも、知られていないことと、最初から存在しなかったことは同じじゃない。
俺は覚えている。
それだけでは足りないかもしれない。
けれど俺が日本の料理を作り、それを誰かが食べ、その人がまた誰かへ伝えたらどうなるだろう。
村では「いただきます」という言葉が広がった。最初は俺とリナだけだったものを、いつしか村のみんなが口にするようになった。
なら、料理だって同じことができるのかもしれない。
忘れられたものを、もう一度誰かの記憶に残すことが。
「なあ」
カイルの声で思考が戻った。
「これ、何て料理なんだ?」
「東穀だろ?」
「そうじゃなくて、この食い方」
俺は鍋を見つめた。
これは米ではない。
味も形も完全には同じじゃない。
それでも、湯気の向こうに見えた景色は確かに俺の故郷だった。
「……ご飯」
「ゴハン?」
「俺のいたところでは、こういうのをそう呼んでた」
カイルが少し考えてから言った。
「日本だっけ?」
思わず顔を上げる。
「知ってるの?」
「昨日、市場で聞いた。お前、誰も知らねえ国の名前を出してたって」
広まるのが早すぎる。
ベルクの市場の情報網を甘く見ていたかもしれない。
「日本って、こんなの食ってた国なのか?」
「うん。これは少し違うけど、米を毎日のように食べる人は多かった」
「へえ」
カイルはもう一口、東穀を口へ運んだ。
「料理、うまそうだな」
俺は小さく笑う。
「うまいよ」
「じゃあ行ってみてえな、日本」
その言葉が胸の奥へ静かに刺さった。
カイルに悪気なんてあるはずがない。むしろ、俺の故郷の料理に興味を持ってくれたことは嬉しい。
だからこそ、少しだけ痛かった。
俺だって行きたい。
もう一度、日本へ帰りたい。妹に会いたい。父さんと母さんに会いたい。じいちゃんにも、何も言わずにいなくなったことを謝りたい。
七年も別の人生を生きてきたのに、その気持ちはまだ消えていなかった。
その時、窓の方から「コン」と小さな音がした。
俺とカイルが同時に振り向く。
窓枠に、一枚の黒い羽が引っかかっていた。
ただの羽ではない。
根元に、小さく折り畳まれた紙が結びつけられている。
胸の奥に嫌な予感が走った。
俺は窓を開け、羽を取る。
「鳥?」
「たぶん」
紙を外して広げた。
書かれていたのは、この世界で使われている文字ではなかった。
日本語でもない。
見たことのない文字だ。
それなのに、目にした瞬間、意味だけが頭の中へ流れ込んできた。
――東を目指せ。米は門である。
息を呑んだ。
「何て書いてある?」
カイルが横から覗き込もうとする。
俺は反射的に紙を握り込んだ。
「……分からない」
嘘をついた。
どうして隠したのか、自分でもすぐには説明できなかった。ただ、この世界で日本の名を口にした時に起きたことを思えば、何でも人に話していいとは思えなかった。
俺は窓の外を見る。
向かいの建物の屋根に、一羽の黒い鴉が止まっていた。
こちらを見ている。
その身体の下から伸びている脚は、二本ではない。
三本。
村で見つけた欠片に刻まれていた鳥と同じ姿だった。
前世で神社の手伝いをしていた頃、じいちゃんから聞いた名前が脳裏に浮かぶ。
八咫烏。
「……また、お前か」
呟きが聞こえたはずもない。それでも鴉は答えるように首を傾けると、大きく翼を広げた。
朝焼けの空へ舞い上がり、建物の上を越えていく。
向かった先は、東だった。
俺はその姿が見えなくなるまで窓辺から動けなかった。
東を目指せ。
米は門である。
東穀が採れるのも東。
ハーゲンが教えてくれたヒムカも東。
そして、日本神話と結びついた八咫烏まで、俺に東へ行けと言っている。
これまで別々に散らばっていたものが、少しずつ一本の線でつながり始めていた。
俺は手の中の紙を見た後、厨房の鍋へ視線を戻した。
そこからはまだ、七年ぶりに感じた故郷によく似た匂いが漂っている。
日本へ近づくために必要なのは、強い剣でも、とんでもない魔法でもないのかもしれない。
少なくとも、今の俺に示されている道はずっと同じだった。
食材を探し、美味しくする方法を考え、誰かに食べてもらう。そして、その料理と一緒に、忘れられたものをもう一度誰かの記憶へ残していく。
それが本当に日本へ続いているのかは、まだ分からない。
それでも、次に向かうべき方角だけは分かった。
東だ。




