第23話 初めての町は、匂いが多すぎる
交易都市ベルク。
遠くから見た時には巨大な石壁と無数の屋根に圧倒されたが、近づけば近づくほど、その大きさが現実味を帯びてきた。
街道は町へ近づくにつれて広くなり、行き交う馬車の数も一気に増えている。野菜を山積みにした荷車、樽を運ぶ商人、武器を腰に下げた旅人。中には俺が見たことのない毛並みの獣に荷物を引かせている者までいた。
俺は馬車の荷台から身を乗り出し、右を見て、左を見て、また右を見る。
「レン君、落ちますよ」
「分かってる」
「先ほどから身体の半分ほど外に出ていますが」
「大丈夫だって」
「あなたの大丈夫は信用していません」
第21話で母さんにも似たようなことを言われた気がする。
それでも大人しく座っていられるわけがなかった。七年間、俺が知っていた人間社会といえば、生まれ育った村だけだったのだ。そこでは知らない顔を見つける方が難しかった。
それが今は、目に入る人間のほぼ全員が知らない人だ。
「すげえな……」
「ベルクはこの地方ではかなり大きな交易都市ですからね。北から来る品も、南から来る品も、一度ここへ集まります」
「じゃあ食材も?」
「そこですか」
そこだろ。
むしろ他に何がある。
やがて馬車は町の門へ到着した。
石造りの門は、俺が想像していたよりはるかに大きかった。父さんが何人縦に並んでも届きそうにない高さがあり、その左右には槍を持った兵士が立っている。
門の前には町へ入ろうとする人間の列ができていた。
俺たちもその最後尾につく。
待っている間、俺は昨日見た二羽の鴉を探した。
町の中央には、ここからでも銀色の聖樹が見えている。だが、その周囲に黒い影はなかった。
「……いない」
「何がです?」
「鴉。昨日、聖樹の周りを飛んでただろ?」
ハーゲンが少し考えてから首を振った。
「見ていませんね」
「二羽いたよ」
「鴉など珍しくもありませんよ」
そうなのかもしれない。
ただ、俺にはどうしても引っかかった。
村の神殿で見た三本足の鴉。
日本書紀。
天照大御神。
そして昨日の二羽。
全部が関係していると決めつけるのは早い。でも、日本という国がこの世界から消えている以上、気になるものを「偶然」で片づける気にはなれなかった。
いずれ調べよう。
そう心の中へ留め、俺たちの順番を待った。
簡単な検査を受け、ハーゲンが通行税を支払う。
そして。
馬車が門をくぐった。
「うわ……」
思わず声が漏れた。
建物。
人。
馬車。
店。
村とは何もかもが違う。
大通りの両側には二階、三階建ての建物が隙間なく並び、その一階部分には様々な店が入っている。通りには露店まで出ていて、商人たちの声があちこちから飛んでくる。
「新鮮なラグ肉だよ!」
「南方産の布だ! 今なら安いぞ!」
「果実酒! 一杯銅貨二枚!」
声が多い。
音が多い。
人が多い。
そして。
「……くさっ」
俺は鼻をつまんだ。
ハーゲンが吹き出した。
「初めて都市へ来た人間の感想がそれですか」
「いや、だって本当に臭い!」
馬の臭い。人の汗。煙。革。焼いた肉。香辛料。それから、たぶん道端に捨てられた生ゴミ。
いろんな匂いが混ざりすぎている。
村だって家畜はいたし、決して清潔な場所ではない。でも人口密度が違いすぎる。
しかも大通りを一本外れた路地を見ると、道路の脇に汚れた水が流れていた。
「下水ないの?」
「ゲスイ?」
「いや……何でもない」
そうか。
料理だけじゃない。
衛生環境も前世とは全然違う。
俺は無意識に口元を押さえた。
食中毒。
寄生虫。
感染症。
前世なら当たり前だった「水道の水をそのまま飲める」ということが、この世界ではどれだけ異常なことだったのか。七歳になって、ようやく本当の意味で理解した気がする。
俺が急に黙ったので、ハーゲンが不思議そうにこちらを見る。
「どうしました?」
「……生で食べるの、気をつけようと思って」
「突然どうしたのです」
かなり重要な決意だ。
商会へ荷物を届けたあと、ハーゲンが宿の手続きをしている間だけ市場を見てもいいことになった。
ただし。
「私から離れない」
「はい」
「勝手に物を食べない」
「はい」
「知らない店の厨房へ入らない」
「……はい」
「今、間がありましたね?」
「気のせい」
信用がない。
とはいえ市場へ入った瞬間、そんな不満は全部吹き飛んだ。
「何これ!?」
目の前の店に、銀色に輝く魚が並んでいた。
魚。
魚だ。
川魚なら村でも何度か食べた。でも、こいつは明らかに違う。身体は平たく、銀色の鱗が光っている。
「これ海の魚?」
店主が笑った。
「よく分かったな、坊主。今朝届いたばかりだ」
海。
ある。
当然と言えば当然だが、実際に海産物を目の前にすると興奮が違う。
「生で食える?」
「腹壊したいならな」
ですよね。
「焼いたら? 煮たら? 脂多い? 骨は?」
「レン君」
襟を掴まれた。
「次へ行きますよ」
「まだ聞きたいことが!」
「市場はここだけではありません」
その言葉通りだった。
次は巨大な赤い甲殻類。
その隣には青い茸。
さらに黄色い根菜。
見たことのない乾燥葉。
瓶詰めされた油。
赤、黒、黄色、茶色。様々な粉末を並べた香辛料屋まである。
駄目だ。
楽しすぎる。
一つ食材を見るたびに、頭の中で勝手に料理が始まる。
あの魚は塩焼き。いや、脂があるなら煮付けもいい。赤い甲殻類は焼くだけでも絶対美味い。殻から出汁を取ればスープにもできる。青い茸は……さすがにちょっと怖いから、まず毒がないか確認だな。
「ハーゲン」
「買いませんよ」
「まだ何も言ってない!」
「顔を見れば分かります」
くそ。
商人相手に顔へ出るのはまずいかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていた時だった。
俺の足が止まった。
穀物屋。
大きな木箱がいくつも並んでいる。
麦。
豆。
雑穀。
その中に。
見覚えのある粒があった。
淡い褐色。
細長い。
第20話でハーゲンが村へ持ってきたものと同じ。
「これ!」
俺は木箱へ駆け寄った。
店主が驚いてこちらを見る。
「何だ坊主。東穀が珍しいのか?」
「東穀?」
「東の端で採れる穀物だよ。水で煮て食う」
一粒つまんで見る。
やっぱり。
米に似ている。
完全に同じじゃない。
でも。
「人気ある?」
俺が聞くと、店主は苦笑した。
「いや。あんまり売れんな」
「なんで?」
「べたべたするんだよ。煮ると鍋にくっつくし、腹持ちはいいが麦の方が食いやすい」
べたべた。
俺の口元が緩んだ。
それ。
俺にとっては欠点じゃないかもしれない。
「一袋ください!」
「銀貨一枚」
笑顔が消えた。
「高っ!」
「東の果てから運んでるんだぞ」
「半袋」
「売らん」
「四分の一」
「量り売りはしてない」
世知辛い。
俺は財布を見る。
足りない。
そしてハーゲンを見る。
目が合う。
「駄目です」
「まだ何も言ってない」
「貸しませんよ」
「絶対返すから!」
「七歳児に金を貸す商人がどこにいるのです」
「ここに!」
「いません」
最終的に、借りた。
しかも利子付きで。
大人って汚い。
でも、袋を抱えた瞬間、そんなことはどうでもよくなった。これで試せるのだ。
炊飯。
前世で何千回と食べた白い飯。もちろん、これが本当に米と同じものだとは限らない。水分量も火の入れ方も分からないし、そもそも炊いたところで俺の知っている米とはまったく違う食感になる可能性だってある。
だからこそ試したい。
失敗したら、またやればいい。水の量を変えて、火加減を変えて、それでも駄目なら別の調理法を考える。
料理なんて、昔からその繰り返しだった。
俺が袋を抱えながらニヤニヤしていると、市場の奥から突然、大きな怒鳴り声が聞こえた。
「ふざけんな!」
周囲を歩いていた人間が一斉に振り返る。
「今度は何です?」
ハーゲンが嫌そうな顔をした。
俺も声のした方を見る。市場の一角に人だかりができていて、その中心に一人の少年が立っていた。
俺より少し年上だろう。十歳か十一歳くらい。赤茶色の髪は無造作に伸び、両腕の袖を肘までまくっている。服のところどころには黒い汚れがついていた。
そして、少年の目の前には肉料理らしきものが載った皿が置かれている。
「こんなもん、料理じゃねえ!」
露店の店主らしい大柄な男が怒鳴った。
少年も負けていない。
「肉をそのまま焦がして出してる奴に言われたくねえよ!」
おお。
すごい喧嘩だ。
何があったのかは分からないが、少年の言葉で周囲から笑い声が起こる。当然、店主の顔はさらに赤くなった。
普段なら関わらない方がいい。
……たぶん。
いや、俺の場合、結局首を突っ込む気もする。
それでも、この時の俺が足を止めた理由は喧嘩そのものではなかった。
ふいに風が吹いた。
市場に漂う無数の匂いを巻き込みながら、人混みの間を抜けてこちらへ流れてくる。その中に、俺の鼻が一つの香りを捉えた。
肉の焼ける匂い。
そこへ香草の青い香りと、果実らしい甘酸っぱさが混ざっている。さらにその奥には、何かをわざと焦がしたような香ばしい匂いまであった。
「……ん?」
俺は無意識に鼻を動かした。
違う。
さっきまで市場で何度も嗅いだ、ただ肉を火へ放り込んで焼いただけの匂いとは明らかに違う。
あの皿には意図がある。
肉を焼いて終わりではなく、「どうすればもっと美味しくなるか」を誰かが考えた痕跡がある。
そう気づいた瞬間、周囲の喧騒が少し遠くなったような気がした。
「レン君?」
ハーゲンに呼ばれたが、俺は答えなかった。
視線が少年の前に置かれた皿から離れない。
村では俺が料理を始めてから、いろいろなことを試してきた。火加減を変えた。肉の下処理をした。出汁を取った。燻製も作った。
みんな喜んでくれた。
でも、それはいつも俺が教える側だった。
父さんも母さんも、村のみんなも、俺が作ったものを驚きながら食べてくれた。それが嬉しかったし、自分の知識が誰かの役に立つことも誇らしかった。
だけど――少しだけ寂しかったのかもしれない。
料理について本気で話せる相手がいなかった。
どうしてその火加減にしたのか。
なぜその食材を合わせたのか。
もっと美味しくするにはどうすればいいのか。
そんなことで意見をぶつけ合える人間が、この世界にもいるのだろうかと、どこかで思っていた。
俺は東穀の袋を抱え直し、人だかりへ一歩近づいた。
赤茶色の髪の少年は、まだ店主と怒鳴り合っている。
名前も知らない。
どんな料理を作るのかも知らない。
そもそも本当に美味いのかすら分からない。
それでも、皿から漂ってくる香りだけで一つだけ分かることがあった。
こいつは、ただ腹を満たすために肉を焼いたんじゃない。
美味いものを作ろうとした。
俺と同じだ。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
村を出て初めて。
俺は、自分以外の「料理を作ろうとしている人間」と出会った。




