第22話 街道飯は、やっぱりまずい
村の姿が完全に見えなくなってから、俺はしばらく馬車の後ろを眺めていた。
別に、今さら寂しくなったわけじゃない。たった数日の旅だ。父さんも母さんもリナも、帰ればいつも通り家にいる。それなのに、山の向こうへ村が消えてしまうと、胸の奥に小さな穴が開いたような感覚が残った。
前世では、こんな風に家を離れることなんてほとんどなかった。旅行に行くような余裕もなかったし、休日は買い物や家事で終わることが多かった。だからだろうか。寂しさとは別に、胸の奥にはどうしようもない高揚感があった。
街道は山と森の間を縫うように続いている。村の周囲とは違う種類の木が生え、時折、見たことのない鳥が枝から枝へ飛び移る。遠くには雪をかぶった山脈が見え、その手前には広大な草原が広がっていた。
ゲームやアニメなら何度も見た景色だ。でも、本物は違う。風は冷たいし、馬車は揺れる。尻も痛い。それでも、画面の向こうでは絶対に感じられなかった土や草の匂いがする。
「すげえ……」
気づけば、何度目か分からない感嘆の声が漏れていた。
「先ほどからそればかりですね」
御者台のハーゲンが笑う。
「だって初めてなんだから仕方ないだろ」
「昨日まで山を見たことがなかったわけでもないでしょう」
「違うんだよ。村から見る山と、村が見えない場所から見る山は」
言ってから、自分でも妙な説明だと思った。けれど、ハーゲンは笑わなかった。
「なるほど。確かにそうかもしれませんね」
そう言って前を向く。俺も再び景色へ目をやった。
広い世界。
以前ハーゲンが言った言葉を思い出す。この道の先に何があるのか。知らない食材はあるだろうか。村では手に入らなかった香辛料もあるかもしれない。海があるなら魚介類も欲しい。牛乳に似たものが普通に売られているなら、バターやチーズだって作れるかもしれない。
「レン君」
「ん?」
「今、何を考えています?」
「料理」
「でしょうね」
即答された。
「なんで分かった」
「顔に出ています」
「どんな顔だよ」
「商人が金貨の山を見つけた時と同じ顔です」
それは相当だな。でも否定できない。俺にとって未知の食材は、それくらい価値がある。
そんなことを考えながら馬車に揺られていたが、旅というものは当然、景色を眺めているだけでは終わらない。
昼を少し過ぎた頃、俺たちは街道沿いにある小さな休憩所へ入った。石と木で造られた簡素な建物で、軒先には何頭かの馬が繋がれている。中には旅人や商人らしい人々が十人ほどいて、酒を飲んだり、何かを食べたりしていた。
そして俺は、ここで旅の現実を知ることになる。
「……硬っ」
出されたパンを一口噛んだ瞬間、顎に鈍い衝撃が走った。もう一度噛んでみるが、やっぱり硬い。とにかく硬い。
「これ、パンだよな?」
「何に見えるのです?」
「建材」
「食べ物です」
ハーゲンは平然と同じパンを噛んでいる。
信じられない。前世で食べたフランスパンだって、ここまで硬くなかった。これなら魔物に襲われても武器として使えるんじゃないだろうか。
俺がパンを睨んでいると、ハーゲンが木椀を指した。
「旅人用の保存パンですよ。そのまま食べるものではありません。スープへ浸すのです」
「なるほど」
それなら話は変わる。
目の前には豆と干し肉が入った薄茶色のスープがある。俺はパンを浸し、十分に汁を吸わせてから口へ運んだ。
確かに柔らかくなった。
だが。
「…………」
今度は別の問題が発生した。
味がない。
いや、正確には味はある。塩だ。
猛烈に塩辛い干し肉の味と、豆の味と、水。それぞれは確かに存在している。でも、料理として一つになっていない。
「どうしました?」
「いや……」
俺はもう一口食べてみる。
まずい、というほどではない。腹は膨れるし、旅の途中で保存できる食材を使うなら合理的でもある。それでも――もったいない。その感情が一番近かった。
肉から旨味が出ている。豆にも甘味がある。少し工夫するだけで、もっと美味くなるはずなのに。
俺は三口目を食べたところで匙を置いた。
「ハーゲン」
「嫌な予感がしますね」
「厨房借りていい?」
「やはり」
ハーゲンが深いため息を吐いた。
「まだ食事を始めて数分ですよ」
「三口も我慢した」
「それを我慢と言うのですか?」
言う。俺にとっては。
休憩所の主人へ頼み込み、厨房を見せてもらった。食材は予想通り多くない。干し肉。豆。人参に似た白い根菜。それから香りの強い野草が数種類。
でも、十分だ。
まず干し肉を薄く切って水へ浸す。旅用の肉は保存のため塩が強い。このまま煮れば、当然汁まで塩辛くなる。
俺が肉を取り出した後の水を残していると、主人が不思議そうに覗き込んだ。
「その水、捨てないのか?」
「使います」
「肉を洗った水だぞ?」
なるほど。そういう認識なのか。
「ちょっと飲んでみて」
「は?」
「いいから」
主人は露骨に嫌そうな顔をしたが、少量を匙ですくった。
「……しょっぱいな」
「他には?」
「他?」
主人はもう一口、今度は考えながら飲んだ。
「ああ……肉の味もするな」
「それを使う」
肉から水へ移った味。出汁。
もちろん、こんな簡単なものを日本料理の出汁と同列に語るつもりはない。でも、「食材から出た味を捨てずに利用する」という発想だけでも、料理はかなり変わる。
鍋へ少量の獣脂を落とし、細かく刻んだ根菜を炒める。ジュウッ、と心地よい音が響き、水分が飛ぶにつれて甘い香りが立ち始めた。
「煮ないのか?」
「後で煮る。でも先に炒める」
「何のために?」
「美味くするため」
「説明になってないぞ」
確かに。
俺自身、前世では「こうした方が美味しい」と経験で覚えたことも多い。科学的に全部説明しろと言われたら困る。
でも、それでいいと思っている。料理は理屈だけじゃない。音や匂い、色の変化。そういうものを見ていれば、食材の方から今どうしてほしいのかを教えてくれる。
炒めた根菜へ豆と肉を加え、さっきの水を注ぐ。香草は匂いを確認しながら少量だけ入れた。
ぐつぐつと煮立ってきたところで火を弱める。
「そんな弱い火でいいのか?」
「いい。急がないから」
しばらくすると、旅人たちが一人、また一人と厨房を覗き始めた。どうやら匂いにつられたらしい。
俺は少しだけ嬉しくなった。
料理を作っている時、この瞬間が好きだ。まだ完成していないのに、誰かが匂いを嗅いで「何を作っているんだろう」と興味を持ってくれる。その期待を裏切りたくないと思うから、自然と手にも力が入る。
味を見る。
塩はもう十分。豆は柔らかくなり、根菜からはしっかりと甘味が出ている。
「よし」
完成だ。
主人へ一杯渡すと、男は恐る恐る口へ運んだ。二口目を飲む頃には、その眉がはっきりと上がっている。
「……同じ材料だよな?」
「ほぼ」
「何を入れた?」
「だから同じだって」
そのやり取りを聞いていた旅人が声を上げた。
「俺にも一杯くれ!」
「いや、俺の店じゃないから!」
結局、なぜか俺が作ったスープがその日の追加商品になった。
「うまい!」
「さっきの汁よりずっといいな」
「この野菜、こんなに甘かったのか?」
あちこちから声が上がる。
嬉しい。
やっぱり、誰かが美味そうに食べる顔を見るのは好きだ。
ただ、その光景を眺めながら、俺はふと気づいた。
村ではもう、俺の料理を疑う人間は少ない。弱火、出汁、下処理。最初は変なことをする子供だと思われていた。でも七年も続けていれば、それが少しずつ当たり前になっていく。
外では違う。
俺にとっての当たり前が、誰かにとってはまだ新しい。
その事実に、胸が少し高鳴った。
俺はこの世界で、まだまだ料理ができる。
休憩所を出る前、軒先の露店で見たことのない果実を見つけた。
拳くらいの大きさで、皮は紫色。割ったものを見ると、中は鮮やかな黄色をしている。
「これ何?」
「ラミの実ですね」
ハーゲンが答える。
「食える?」
「もちろん」
一切れもらって口へ運ぶ。
最初に感じたのは強い甘味だった。かなり甘い。果汁も多く、どことなく前世のマンゴーを思い出す。
これは普通に美味い――そう思った次の瞬間。
「っ!? からっ!」
喉と鼻が一気に熱くなった。
周囲から笑い声が上がる。甘いのに辛い。しかも唐辛子とは違って、舌よりも鼻の奥へ抜けるような鋭い刺激がある。
「水! 水!」
ハーゲンが笑いながら水筒を渡してきた。
「知らなかったのですか?」
「知るわけないだろ!」
水を飲み、ようやく息をつく。
それでも俺は、もう一切れ手に取った。
「まだ食べるのですか?」
「確認」
今度はゆっくり噛んでみる。
最初は甘味。次に果実らしい香りが広がり、その後を追うように辛味がやってくる。果汁も多い。
――これ、肉に合うんじゃないか?
特に脂の多い肉。果実の甘味と辛味で脂っぽさを切れれば、かなり面白い味になる気がする。潰して煮詰めればソースにもできそうだ。
「……ソース」
「はい?」
「これ、肉に合わせたら美味いかも」
ハーゲンが呆れた顔をする。
「辛いと泣いていた人間が、もう料理のことを考えているのですか?」
俺は笑った。
「だって面白いじゃん」
そう口にしてから、ふと気づいた。
俺はこの世界へ来てから、どこかで自分が「教える側」だと思っていた。
料理文化の発達していない世界。前世の知識を持っている俺。だから俺が料理を教える。俺が新しい調理法を作り、俺がこの世界の食文化を変えていく。
でも、違うのかもしれない。
俺の知らない食材がある。知らない味がある。なら、俺の知らない料理だってきっとある。
俺はこの世界に料理を教えるだけじゃない。
この世界から、料理を教わることだってできる。
そう思った瞬間、目の前に伸びる街道が、さっきまでよりずっと広く見えた。
夕方。
長い坂道を上り、馬車が丘の頂上へ差しかかったところで、ハーゲンが前方を指差した。
「レン君。見えてきましたよ」
俺は荷台から身を乗り出す。
遠くに巨大な石壁が見えた。
その向こうには、無数の屋根が並んでいる。煙突から煙が立ち上り、何本もの尖塔が夕暮れの空へ伸びていた。村とは比べものにならない。遠くから見ているだけなのに、そこに何千、何万という人間が暮らしていることが伝わってくる。
「……あれが」
「交易都市ベルクです」
胸が高鳴った。
知らない食材。知らない料理。知らない人々。この世界へ転生して七年。ようやく俺は、自分の村の外にある本当の意味での「世界」へ足を踏み入れる。
どんな市場があるんだろう。
どんな料理が食べられているんだろう。
もしかしたら、日本の料理に近いものだって――。
そこまで考えた時だった。
町の中央に、一際高い建物が見えた。
その屋根の上には、夕陽を反射して銀色に輝く巨大な樹が立っている。
聖樹。
そして、その周囲を二羽の黒い鴉がゆっくりと旋回していた。
胸の高鳴りが、一瞬だけ別のものへ変わった。
俺は無意識に腰の包丁へ手を添える。
「……また、鴉か」
風の音に消えてしまいそうな、小さな声だった。
それでも。
二羽のうち一羽が旋回をやめた。
遠すぎて、こちらを見ているはずなどない。
そう思ったのに。
なぜか俺には、その鴉と目が合ったような気がした。




