第21話 七歳、初めて村を出る
村を出る朝は、思っていたより静かだった。まだ太陽は山の向こうに隠れていて、東の空だけが薄紫色に染まり始めている。吐いた息は白く、馬の鼻からも同じように白い息が漏れていた。ハーゲンの馬車へ荷物を積み込む音だけが、冷えた朝の空気に妙によく響く。
俺は家の前に立ち、もう何度目になるか分からない荷物の確認をしていた。着替え。母さんが用意してくれた黒麦パン。燻製肉と乾燥茸。それから腰に下げた包丁。
剣ではない。七歳児が初めて村の外へ持っていく相棒が包丁というのも、我ながらどうかと思う。でも、俺にとっては剣よりずっと大事だった。
「おにーちゃん」
服の裾を引っ張られ、振り向く。リナがこちらを見上げていた。いつもなら朝から騒がしい妹が、今日は妙に静かだ。口をきゅっと結んでいるのを見れば、泣くのを我慢しているのはすぐに分かった。
「ほんとにいっちゃうの?」
「町を見に行くだけだよ。ずっといなくなるわけじゃない」
「いつかえる?」
「うーん……五回くらい寝たらかな」
本当は往復を含めれば、もう少しかかるかもしれない。それでも三歳のリナに七日だの八日だの説明しても余計に不安にさせるだけだ。
リナは小さな指を一本ずつ折りながら数えようとしたが、三本目くらいで分からなくなったらしい。眉間に皺を寄せたあと、とうとう俺の服をぎゅっと掴んだ。
「ながい……」
その一言が、思っていたより深く胸へ刺さった。
前世でも、俺には妹がいた。
両親は優しかったが、家計にはいつも余裕がなかった。二人とも遅くまで働いていたから、放課後になれば俺が妹を迎えに行き、夕飯を作って、宿題を見てやった。もちろん、毎日楽しかったわけじゃない。「今日は自分でやってくれよ」と面倒に思った日だってある。
でも、そんな日常が突然終わるなんて考えたこともなかった。
あの日もそうだ。
いつものように夕飯を作っていた。特売の鶏むね肉を切って、妹が帰ってくる時間を気にしていた。それだけだった。
事故に遭った記憶もない。死んだ記憶もない。
次に覚えているのは、知らない女の人に抱かれて、自分が赤ん坊になっていたこと。
だから俺にとって前世の妹は、死んだ人ではない。今でも、どこかで夕飯を待っているような感覚が残っている。
「……お兄ちゃん?」
リナの声で我に返った。
俺はしゃがんで、今の妹と目線を合わせる。
「帰ってきたら、すっごく美味いもの作るから」
「ほんと?」
「ほんと。町には、この村にない食べ物がいっぱいあるらしいしな」
さっきまで曇っていた顔が、ほんの少し明るくなる。
「おみやげ?」
「結局そこかよ」
思わず笑ってしまった。
俺は小指を差し出す。
「約束」
リナは首を傾げた。
「なに?」
「ああ……これは、俺が前にいたところの約束の仕方」
「ニホン?」
心臓が小さく跳ねた。
あの日以来、家族に対して日本という名前を完全に隠すことはやめた。遠い国。今はもうどこにも存在しないらしい国。俺自身、それ以上うまく説明できない。
「そう。日本」
リナは嬉しそうに自分の小指を絡ませた。
「やくそく!」
「おう」
立ち上がると、今度は母さんが俺の襟元を直し始めた。
「ハーゲンさんから離れちゃ駄目よ。知らない人についていかないこと。暗くなったら一人で出歩かない。それから、魔法も勝手に変な使い方をしない」
「分かってるって」
「あなたの『分かってる』ほど信用できない言葉はありません」
ひどい。
隣では父さんが腕を組みながら笑っていた。
「まあ、こいつは一度くらい村の外で痛い目を見た方がいい」
「父さん?」
「ただし、生きて帰ってこられる程度にな」
父さんの大きな手が俺の頭へ置かれた。ごつごつしている。薪を割り、畑を耕し、家族を養うために働き続けてきた手だ。
その温かさに、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
俺はこの世界へ生まれたばかりの頃、父さんも母さんも「転生先の家族」としか考えていなかった。前世の家族が本物で、こちらは二度目の人生で与えられた新しい家族。どこかでそんな線を引いていた。
でも、七年も一緒に暮らせば、そんな区別はできなくなる。
父さんが笑えば嬉しい。母さんに怒られればへこむ。リナが泣けば心配になる。
間違いなく、家族だった。
だからこそ怖い。
もし前世の日本へ帰る方法が見つかったら。
父さんや母さん、リナを置いていくのか?
逆にここへ残るなら、前世の父さんと母さん、妹のことを諦めるのか?
今の俺には、どちらも選べない。
「レン君! そろそろ出発しますよ!」
ハーゲンの声が聞こえた。
俺はそこで考えるのをやめた。答えの出ないことを延々考えるのは性に合わない。それに、たぶん俺は昔からそうだった。考えるより先に動いて、後になって困る。
悪い癖だとは分かっている。
分かってはいるが、すぐには治りそうにない。
「じゃあ、行ってくる!」
馬車へ乗り込む。
「おにーちゃん!」
リナが全力で手を振る。
「おみやげ忘れないでー!」
「分かったって!」
俺も笑って手を振り返した。
馬車がゆっくり動き始める。家が遠ざかり、バルクさんの工房が小さくなり、共同燻製小屋も、壊れた神殿も少しずつ視界の端へ流れていった。
七年間。
俺にとって、この村が世界のほとんどすべてだった。
料理を始めた場所。
リナが初めて「美味しい」と笑った場所。
魔法でかまどを作った場所。
日本という国が、この世界には存在しないと知った場所。
やがて村全体が山の陰へ隠れる。
俺はしばらく後ろを見ていた。
でも、いつまでも見ているわけにはいかない。
前を向く。
一本の街道が、遠くまで続いていた。
その先には、俺の知らない世界がある。
知らない食材。
知らない料理。
知らない魔法。
そして、日本が消えた理由につながる何か。
不安がないわけじゃない。
むしろ、かなりある。
でも。
それ以上に。
「……楽しみだな」
思わず声が漏れた。
御者台に座っていたハーゲンが振り返る。
「まだ何も見えていませんよ、レン君」
「え?」
「あなたが暮らしていた村など、この世界全体から見れば、点にもならないほど小さい」
ハーゲンはいつもの商人らしい笑顔を浮かべた。
「ようこそ。広い世界へ」
胸が高鳴った。
俺は腰の包丁へ触れる。
この世界で俺がどこまで行けるのか。
料理で何ができるのか。
まだ何も分からない。
だからこそ、知りたい。
――そしてこの時の俺は、まだ知らなかった。
村を出たこの旅で初めて。
俺の料理を「美味しい」と言わない人間と出会うことを。
その出会いが、料理人としての俺を大きく変えることになることを。




