第110話 神様は、噂でも増える
コハク村を出て王都へ戻る途中、俺はずっと一つのことを考えていた。
あの白い狐に、名前をつけなくてよかったと思う。
ただ同時に。
俺が名前を言わなかったところで、いつか誰かが気づく可能性はある。
赤い門。
狐。
米。
揚げた豆腐。
昔の資料を知っている人間が見れば、俺と同じ連想をするかもしれない。
そして一人が名前を言う。
隣の人へ伝える。
さらにその隣へ。
神様は。
そうやって戻ることもあるんじゃないか。
「噂みたいに?」
馬車の中で話すと、フィアが言った。
「そう。誰かが一人で百人に教えなくてもいい。一人が二人に話して、その二人がまた別の人に話したら、どんどん増える」
レオルが紙を出した。
「増え方を考えたいのか?」
「正確な計算は分からないけど、広がり方なら」
前世で聞いた感染症や情報拡散の話を思い出す。
一人から何人へ伝わるか。
どこで止まるか。
人が集まる場所はどこか。
俺は専門家じゃない。でも、全員へ直接伝える必要がなくても、条件次第で情報は一気に広がる。その考え方くらいなら使える。
フィアがすぐ反応した。
「市場だ」
「やっぱり?」
「あと宿。港。大きな食堂。人が入れ替わる場所ほど話が外へ出る」
ナギも加わる。
「祭りも。年に一回でも、近くの村から人来るよ」
レオルが地図へ点を打ち始めた。
市場。
港。
街道宿。
祭礼地。
学院。
大きな神殿。
俺は地図を見て。
少し嫌な気分になった。
「これ、旧神話災害対策局も分かってたんじゃないか?」
王都へ戻ると、すぐセヴァンに聞いた。
彼は少し黙った後、通常書庫ではなく、管理資料の棚から一冊の薄い冊子を出した。
**『口伝拡散警戒要領』**
あった。
「……やっぱり」
九十年も前。
ヴァル・ヘイムたちは。
神名が書物だけから広がるのではないと理解していた。
文書には、危険な神名が見つかった場合の対処が細かく書かれていた。
石碑を封じる。
祭具を移す。
古い歌詞を改める。
そこまでは分かる。
でも。
その先。
**『市場、宿場、船着場における口頭伝播を警戒せよ。』**
俺たちは顔を見合わせた。
フィアが小さく言う。
「同じだ」
もっと読む。
**『一名が知る名は記録なり。十名が知る名は噂なり。百名が同じ物語と共に語る時、それは再び信仰となり得る。』**
ぞくっとした。
「数そのものに魔術的な境界があるわけではありません」
セヴァンが言う。
「当時の目安でしょう」
「でも考え方は同じ」
レオルが答えた。
一人の記憶。
複数人の噂。
大勢が共有する物語。
そして。
習慣。
祭り。
文化。
段階がある。
神様は突然復活するんじゃない。
人間の中で。
少しずつ。
濃くなる。
さらに文書には、過去の失敗例があった。
山間の小さな集落。
最初は。
一人の老人だけが古い神名を覚えていた。
何も起きなかった。
その老人が酒場で話した。
五人ほどが覚えた。
まだ何もない。
数か月後。
面白い昔話として旅商人が別の村へ持っていった。
そこで子供向けの歌になった。
さらに半年。
三つの村へ広がる。
そして。
収穫祭で、その歌が歌われた。
神格反応。
発生。
「祭りで急に?」
ナギが聞く。
「急に見えるだけだと思う」
俺は答えた。
老人。
酒場。
旅商人。
子供の歌。
三つの村。
そこまでに。
何度も根を伸ばしていた。
最後に。
祭りで一気につながった。
レオルが地図を広げる。
「なら、危険度を見る時に人数だけ数えても駄目だ」
「つながり方だよ」
俺は言う。
「同じ百人でも、一つの村に百人いるのと、十の街道町に十人ずついるのでは意味が違う」
フィアの目が鋭くなった。
「後者の方が広げやすい」
「うん」
彼女はすぐ、商会で使う物流図を持ってこさせた。
街道。
水路。
宿。
市場。
週市。
季節市。
人の流れ。
そこへ。
旧資料で見つかった日本由来らしい習慣の分布を重ねる。
すると。
見えた。
「……これ」
サヨが指す。
東方由来の習慣は。
ばらばらに残っているわけじゃない。
昔の日ノ本交易路。
そこに沿って。
帯みたいに残っている。
港から。
宿場へ。
市場へ。
内陸へ。
料理。
言葉。
門。
祭り。
何十年。
何百年。
人の移動と一緒に。
流れている。
「文化の道だ」
俺は呟いた。
国が消えても。
貿易路が消えても。
一度渡ったものは。
人間が運ぶ。
俺がコハク村で名前を言わなくても。
どこか別の村には、まだ名前そのものが残っているかもしれない。
そして。
道が再びつながれば。
離れていた断片同士も。
出会う。
その時。
神は。
もっとはっきりした形を取り戻す。
セヴァンが表情を曇らせた。
「だから、旧対策局は交易路単位で資料を処理したのでしょう」
「村ごとじゃなく?」
「はい。危険な記憶が人の流れに乗るなら、人の流れを見なければならない」
フィアが資料を読む。
「でも完全には止められてない」
その通りだった。
むすび。
ミソ。
米。
祭守。
コハク村の習慣。
残っている。
なぜ?
セヴァンは答えなかった。
代わりに。
文書の最後の頁を開いた。
ヴァル・ヘイムの手書き。
**『根を断つには、人の往来を断たねばならぬ。』**
次。
**『人の往来を断つには、暮らしを壊さねばならぬ。』**
そして。
その下。
筆圧が。
少しだけ強い。
**『そこまでして守る世界を、守ったと言えるのか。』**
俺は。
その一文から目を離せなかった。
ヴァル・ヘイムは。
最初から全部を平然と消していたわけじゃない。
途中で。
気づいた?
神を戻さないために文化を消す。
文化を消すために人の交流まで止める。
交流を止めれば。
商売が死ぬ。
婚姻が減る。
技術が渡らない。
食べ物も。
物語も。
人も。
動かなくなる。
それは。
世界を守るために。
人間の世界を殺すことになる。
フィアが、しばらくしてから言った。
「商売を止めれば、噂も止まる」
「うん」
「でも、薬も止まる。食料も止まる。困ってる村へ物が届かなくなる」
レオルも言う。
「知識もな」
俺は。
学院で作った記録の仕組みを思い出した。
一か所だけに置かない。
複数人で持つ。
別々の場所へ写す。
消そうとする側から見れば。
最悪だ。
でも。
文化を生かす側から見れば。
最高にしぶとい。
そこで。
俺はようやく気づいた。
「俺が今までやってきたこと」
みんなが見る。
「神様を戻す方法としても、最悪なくらい相性いい」
料理を教える。
レシピを書く。
店へ渡す。
学院で共有する。
商人が運ぶ。
安くして広げる。
誰でも再現できるようにする。
俺は。
文化を。
広がりやすく。
消えにくく。
ずっと改良してきた。
自分では。
ただ料理を残したかった。
便利にしたかった。
誰か一人しか作れないものにしたくなかった。
でも。
神々から見れば。
俺は。
道を舗装していた。
フィアが。
俺の顔を見て言う。
「今さら全部やめる?」
答えは。
すぐ出た。
「やめない」
怖い。
神が戻る。
戦争が起きるかもしれない。
それでも。
人間同士が知識を共有することまで。
止めるのは違う。
ヴァル・ヘイムも。
たぶん。
そこへ辿り着いた。
「じゃあ、何を止める?」
サヨが聞いた。
俺は少し考える。
「知らずに危険なものを復元すること」
祭壇を勝手に直した俺みたいに。
「それと?」
「神様だからって、全部言うこと聞くこと」
危険な神はいる。
「それから」
俺は地図を見る。
人の道。
文化の道。
神へつながる道。
「知ること自体は、止めない」
隠すだけでは。
また誰かが偶然見つける。
知らないまま再現する。
それが一番危ない。
だったら。
知って。
危険も。
使い方も。
残した方がいい。
その日の夕食。
俺たちは史料庁の大食堂で食べた。
いつの間にか。
食堂の片隅に。
ミソを使った豆汁が出るようになっていた。
「誰が教えたの?」
俺が驚くと。
料理人が言う。
「東から来た職員が作っててな。美味かったから教えてもらった」
「その人は?」
「商人の宿で覚えたって」
俺はフィアを見る。
フィアも俺を見る。
もう。
分からない。
どこから。
誰へ。
どう伝わったのか。
でも。
汁は。
ここにある。
俺は一口飲んだ。
少し塩辛い。
俺ならもう少し薄くする。
でも。
これは。
俺のミソ汁じゃない。
この食堂の味だ。
それでいい。
たぶん。
文化って。
そういうものだ。
誰か一人が。
握っていられるものじゃない。
そして。
神様も。
人間が文化を渡し合う速度までは。
止められない。
俺は。
少しだけ笑った。
神々の戦争より。
人間の口コミの方が。
案外。
ずっとしぶといのかもしれなかった。




