第109話 その神様に、俺が名前をつけていいのか
翌朝。
昨日、白い狐が消えた赤い門の前には、何も残っていなかった。
足跡もない。魔力反応も、レオルの測定石が拾えるほどではない。ただ、門の向こうに置かれた最初の一椀だけが空になっていた。
「狐が食べたのかな」
ナギが覗き込む。
「普通の狐かもしれない」
「尻尾光ってたけど?」
「光る普通の狐が、この世界に絶対いないとは言い切れない」
「レンが急に慎重になりすぎて面倒」
ひどい。
でも、慎重になる理由はあった。
昨夜、俺はあの白い狐を見た瞬間、一つの名前を思い浮かべていた。
赤い門。
米。
狐。
油で揚げた豆腐。
豊作。
前世の日本人なら、同じ名前を連想する人は多いと思う。
だからこそ。
口に出せなかった。
名前は道になる。
意味を知った人間が呼べば、神へ届く。
しかもこの村には、名前以外の道がもう揃っている。
ここで俺が一言。
「その神様は○○だ」
と言ってしまったら。
何が起きる?
昨日まで「昔からこうするもの」だった習慣が、一夜で特定の神への信仰へ変わるかもしれない。
俺は、それをする権利があるのか。
朝飯の後、村で一番年長だという老婆に話を聞いた。
八十を越えているらしいが、背筋は曲がっていても声は強い。
「赤い門? わしの爺さんの頃にもあったよ」
「その時から、誰のための門か分からなかった?」
「知らんなあ」
「狐は?」
「田んぼの鼠を食うから追うな、とは言われた」
実用的だった。
神聖だからではない。
鼠を食うから。
「最初の米を外へ置くのは?」
「先の人に食べてもらう」
「その『先の人』って?」
老婆は笑った。
「だから知らんよ」
強い。
百年以上残っているのに、説明がほぼ全部なくなっている。
でも。
なくなっていない。
サヨが尋ねる。
「昔、この村に神殿や祭壇があったという話は?」
「神殿はないな。小屋ならあった」
全員の顔が上がった。
「どこに?」
老婆が指したのは。
村外れ。
田んぼと林の境目だった。
行ってみると、小屋はもうなかった。
あるのは基礎石だけ。
四角く並んだ石。
中央に一つ。
そして。
少し離れて。
壊れた石柱。
俺たちは触らずに調べた。
レオルが寸法を測る。
サヨが石の配置を写す。
フィアは、昔の村道と現在の道の違いを村人から聞いていた。
ナギは。
なぜか近くの畑のおじさんと稲の話をしている。
「ここの田んぼ、水抜くの早くない?」
「この辺は土が重いからな。ずっと張ってると根が弱る」
「去年は?」
「雨が多かったからもっと早く落とした」
また俺より詳しい人がいる。
当然だけど。
農業は。
料理人が米を見ただけで分かるほど簡単じゃない。
俺が石を見ていると、フィアが戻ってきた。
「面白いこと分かった」
「何?」
「昔、この場所は村の中心じゃなかった」
古い水路。
田んぼ。
道。
それを村人の記憶からつなぐ。
フィアが地面へ簡単な図を描く。
「ここ、昔は田んぼへ入る道の分岐だったみたい。つまり小屋は、村を守る場所というより」
「田んぼを見る場所?」
「たぶん」
サヨが石の配置を見て言った。
「豊穣に関わる祭祀だった可能性は高いですね」
でも。
まだ。
名前はない。
しばらくして。
石柱の裏側に。
レオルが削られた跡を見つけた。
文字があった。
意図的に消されている。
九十年前?
根のない樹?
一瞬そう思ったが。
「違う」
セヴァンから借りた削除事例の写しと比べたレオルが言う。
「工具痕が新しい。せいぜい五十年ほど前だ」
「じゃあ旧神話災害対策局じゃない?」
「少なくとも最初の削除ではない」
村人に聞く。
すると。
意外な答えが返ってきた。
「ああ、それなら爺さんたちが削ったらしいぞ」
「なんで!?」
思わず声が大きくなった。
農家のおじさんが肩をすくめる。
「何て書いてあるか誰も読めなくなってたから、子供が真似して変な字を書くと縁起が悪いって」
そんな理由?
神話弾圧でも。
秘密組織でも。
ない。
意味が分からなくなったから。
消した。
文化って。
こういう消え方もするのか。
誰かに奪われなくても。
意味が届かなくなれば。
普通に薄れていく。
その日の昼。
村の人たちが俺たちへ飯を出してくれた。
米。
豆腐。
山菜。
川魚。
例の揚げ豆腐もある。
老婆が俺の隣へ座った。
そして。
唐突に聞いた。
「お前さん、知ってるんだろ?」
箸が止まる。
「何を?」
「あの門のこと」
俺は答えられなかった。
「昨日から見てりゃ分かる。門見た時、お前さんだけ顔が違った」
鋭い。
年寄りを侮ってはいけない。
「昔の国のことを調べてるんだろ?」
「……はい」
「じゃあ、あそこにいたのは何の神様だ?」
空気が変わった。
フィアも。
サヨも。
レオルも。
黙った。
俺が言えば。
名前が戻る。
たった一言で。
この村の人たちは。
明日から最初の米を置く時。
その名前を思うかもしれない。
赤い門を見るたび。
狐を見るたび。
揚げ豆腐を食べるたび。
意味が結びつく。
神への根が。
一気に太くなる。
昔の俺なら。
嬉しくて教えていたかもしれない。
日本が残っていた。
神様も残っていた。
なら名前を取り戻そう。
でも今は。
それが。
怖い。
「似た神様を」
俺は慎重に言った。
「俺は知っています」
老婆が目を細める。
「同じじゃないのか?」
「分かりません」
正直に答えた。
「赤い門も、狐も、米も。俺が知ってるものと似てます。でも、この村で百年以上続いてきたものが、俺の知ってる神様と完全に同じだって証拠はない」
老婆は黙って聞く。
「それに」
俺は続けた。
「名前を教えたら、たぶん……今までと同じではいられません」
村人たちも聞いている。
変な話だと思われるかもしれない。
それでも。
「今は、誰か分からない『先の人』に最初の飯を置いてる。でも名前が分かったら、その神様のために置くようになる。やることが同じでも、意味が変わる」
サヨが静かに頷いた。
俺は老婆を見る。
「だから、俺が勝手に決めたくないんです」
長い沈黙。
そして。
老婆は。
揚げ豆腐を一つ食べた。
「じゃあ、分かるまで今まで通りでいい」
軽い。
「いいんですか?」
「百年分からなかったんだろ。あと一年や二年増えて何が変わる」
強い。
本当に。
俺よりずっと強い。
ナギが笑いを堪えている。
フィアも。
「何だよ」
「レン、神様の名前を取り戻す旅してたのに」
「うん」
「今は、名前を戻さない方を選ぶんだね」
そうだった。
でも。
矛盾しているとは思わなかった。
取り戻すことと。
急いで元へ戻すことは。
違う。
夕方。
俺たちはもう一度赤い門へ行った。
白い狐は。
いなかった。
俺は門の前で。
何も言わない。
名前も。
知っている神話も。
ただ。
村の田んぼを見る。
稲が揺れている。
人が働いている。
子供が走っている。
夕飯の煙が。
家々から上がっている。
ここには。
もう。
この村の百年がある。
もし。
昔の日本から何かが流れ着いていたとしても。
今は。
それだけじゃない。
ヒムカの土地で。
ヒムカの人たちが。
自分たちのやり方で残した。
その時間まで無視して。
「本当はこうだった」
と俺が上書きするのは。
違う。
日本を取り戻す。
その言葉の意味が。
少しずつ。
変わってきていた。
消えたものを。
昔と同じ形に戻すことじゃない。
今まで残った形も。
その途中で変わったものも。
全部含めて。
つなぎ直す。
たぶん。
その方が。
ずっと難しい。
帰ろうとした時。
赤い門の向こう。
一瞬だけ。
白い尾が見えた。
俺は止まる。
狐は。
こちらを振り向かない。
ただ。
田んぼの方へ歩いていく。
そして。
頭の奥へ。
ほんの小さな声が落ちた。
**『それでよい』**
俺は目を見開いた。
声の主が。
俺の知っている神なのか。
この村で別の形になった何かなのか。
まだ。
分からない。
だから。
名前は呼ばなかった。
ただ。
「またな」
それだけ言った。
白い尾は一度だけ揺れて。
青い稲の中へ。
消えていった。




