第111話 神様の根は、人間の側にある
王都の大食堂にミソ汁が出るようになってから、十日もしないうちだった。
俺たちのところへ、妙な報告が届いた。
**「東方の食事を食べて古い言葉を唱えると、幸運を授かる」**
最初に聞いた時。
俺は頭を抱えた。
「誰だよ、そんなこと言い出したの」
「商売人」
フィアが答えた。
やっぱりか。
王都西市場の食堂。
最近、白米とミソ汁を出し始めた店らしい。
そこまではいい。
問題は。
店主が客を集めるために、
**『失われた東方の神々へ通じる食事』**
と宣伝し始めたことだった。
しかも。
食べる前には。
「いただきます」
と全員で唱える。
すると運が良くなる、と。
「俺、そんな効能つけた覚えないんだけど」
「料理はレンの許可を取らないと広めちゃいけないの?」
フィアに聞かれる。
「そこじゃない」
料理は好きに広めていい。
むしろ広がってほしい。
でも。
神様に効く健康食品みたいにするな。
いや健康食品でもない。
何なんだ。
俺たちは、その日の昼に店へ向かった。
西市場は相変わらず人が多い。
肉。
布。
香辛料。
薬草。
魔石。
屋台。
荷車。
客引き。
その一角だけ。
妙な行列ができていた。
看板には。
**『東方の幸運飯』**
とある。
嫌な予感しかしない。
「人気あるね」
ナギが感心している。
「感心するな」
「でも商売としては上手いよ」
フィアまで。
商人側へ行くな。
店へ入る。
料理そのものは。
普通だった。
白米。
豆入りのミソ汁。
焼き魚。
漬物。
むしろ結構うまい。
店主も料理人としては真面目らしく、ミソの扱いも悪くない。
俺がミソ汁を飲んでいると。
奥の席へ十人ほどの客が座った。
店員が声を上げる。
「では皆さん! 古い東方の作法にならいまして!」
全員が手を合わせる。
俺の背筋が伸びた。
「せーの!」
「いただきます!」
ピシッ。
レオルの懐に入っていた測定石が鳴った。
全員。
固まる。
俺とサヨ。
レオル。
フィア。
ナギ。
それから同行していたエルナ。
誰も。
何も言わない。
測定石だけが。
淡く。
光っている。
しかも。
一度で終わらない。
別の卓。
「いただきます!」
光が。
少し強くなる。
さらに。
店へ入ってきた新しい客。
「ここで食うと商売運上がるらしいぞ」
「俺は恋愛運って聞いた」
「東の神様が願い聞いてくれるんだろ?」
駄目だ。
俺は立ち上がった。
「店主さん!」
厨房の奥から、四十くらいの男が出てくる。
「はい?」
「この宣伝、誰から聞きました?」
「宣伝?」
「東方の神様に通じて、幸運が来るってやつ」
男は少し得意そうに笑った。
「最初は旅商人ですよ。東の方では食事の前にこの言葉を唱えると聞きましてね。それに、最近は王都でも古い東方文化が話題でしょう?」
そこへ。
店主自身が少し足した。
「だったら、昔の神様に感謝する言葉なんじゃないかと」
さらに客が。
「神様に感謝するなら、お願いも聞いてもらえる」
と解釈した。
別の客が。
「食べると運が良くなる」
と広めた。
誰かが勝手に。
商売運。
恋愛運。
病気平癒。
どんどん付け足した。
これ。
完全に。
噂が神様の形を作り始めている。
「レオル」
「上がっている」
小声。
「日本系統?」
「複数が混ざっているように見える」
もっと悪い。
特定の一柱へつながっていない。
客たちがそれぞれ勝手な「東方の神様」を想像しているから。
複数の根が。
同時に引っ張られている?
サヨも顔色が悪い。
「このまま人数が増えれば、何が応じるか分かりません」
止める。
でも。
どうやって?
店を閉めさせる?
「いただきます」を禁止する?
ミソ汁を出すなと言う?
一瞬。
そこまで考えて。
寒くなった。
ヴァル・ヘイムと同じだ。
危ない。
だから封じる。
名前を消す。
祭りを止める。
食文化ごと薄める。
それなら確実かもしれない。
でも。
俺は。
その答えを選びたくない。
「フィア」
「何?」
「この店、一番混むのいつ?」
「今から昼の鐘まで」
「じゃあ、その前に店主さん借りる」
「借りる?」
「宣伝、直す」
店主は当然嫌がった。
「いやいや、せっかく客が増えてるんですよ!」
分かる。
商売だ。
だから。
神様が危険だからやめろ。
だけでは納得しない。
俺は店の料理を指した。
「このミソ汁、美味しいです」
「そ、そうでしょう?」
「でも、このままだと料理じゃなくて『願いが叶う薬』を売ってることになる」
男の顔が変わった。
「違います。ちゃんと料理を――」
「分かってます。だから勿体ない」
そこへフィアが入る。
「それに、願いが叶わなかった客はどうすると思います?」
店主が黙る。
「幸運になるって聞いて食べた。何も起きなかった。なら?」
「……店が嘘をついた、と」
「逆に偶然良いことが起きた人は、『もっと効かせる方法』を勝手に作り始める」
俺も続ける。
「米を二杯食えば二倍とか」
ナギが言う。
「ミソ濃くしたら強くなるとか」
レオルまで。
「一日十回唱える者も出るだろう」
怖い方向だけ全員頭が回る。
店主の顔から血の気が引いていく。
「じゃあ……やめろと?」
「違います」
俺は答えた。
「飯は出してください。言葉も使っていい」
店主が目を瞬く。
「ただ」
俺は店内を見る。
「意味をちゃんと伝えたい」
その日。
昼の鐘の少し前。
店の看板が一枚増えた。
俺が書いた。
正確には。
俺が文を考えて。
フィアに短く直され。
レオルに誤解を潰され。
ナギに「固すぎ」と言われ。
最終的に店主が書いた。
**『いただきます――食材を育てた人、運んだ人、作った人、そして食べ物そのものへ感謝して、食事を始める東方由来の言葉です。幸運を約束する呪文ではありません。』**
長い。
でも。
今はこれでいい。
次の客が来る。
席へ座る。
店員も。
昨日までとは違う説明をする。
「昔の東方の食事から伝わった言葉だそうです。神様へのお願いというより、食べられることへの感謝だとか」
客たちが顔を見合わせる。
一人が笑う。
「じゃあ恋愛運は?」
店主が答えた。
「自分で頑張ってください」
店内が笑った。
いい。
それでいい。
料理が届く。
白米。
ミソ汁。
焼き魚。
みんなが手を合わせる。
「いただきます」
測定石。
光る。
俺の身体が緊張する。
でも。
さっきより。
弱い。
もう一卓。
「いただきます」
また光る。
弱い。
ゼロにはならない。
日本につながる言葉なのだから。
何かは残る。
でも。
さっきまでの。
複数の何かが我先に手を伸ばしてくるような、不安定な揺れがない。
「意味を変えたら」
エルナが呟く。
「反応まで変わった」
違う。
正確には。
意味を戻したわけでもない。
前世の「いただきます」にだって、唯一絶対の意味なんかなかった。
命への感謝。
作った人への感謝。
神仏との関係。
ただの食事の挨拶。
家庭や人によって違った。
俺たちは今。
この世界で。
危険なく受け渡せる意味を。
みんなで作った。
それだけだ。
昼の混雑が終わる頃。
測定石は。
安定していた。
何も降りてこない。
誰も倒れない。
そして。
ミソ汁は。
普通に売り切れた。
「……店、閉めなくてよかった」
俺が言う。
フィアが少し笑った。
「むしろ明日、もっと客来るんじゃない?」
「なんで?」
「『幸運は自分で頑張れ』って言う店主、面白かったから」
文化は。
本当に。
思った通りには広がらない。
その日の午後。
史料庁へ戻ると。
セヴァンが一冊の古い研究書を机へ置いた。
表紙。
**『神格根系仮説』**
著者。
ヴァル・ヘイム。
俺は嫌な予感と一緒に開く。
中には。
今日まで俺たちが一つずつ確かめてきたものが。
九十年前の言葉で。
整理されていた。
**第一根――名。**
神を指し示すもの。
**第二根――物語。**
神が何者であるかを人へ残すもの。
**第三根――土地。**
その神と特定の場所を結ぶもの。
**第四根――供物。**
食や物を通じて、人と神の関係を反復するもの。
**第五根――祭祀。**
複数の人間が同じ意味を共有し、周期的に再確認するもの。
そして。
欄外。
後から書き加えられたらしい。
**第六根――習慣。**
その意味すら失われた後も、人の暮らしに残り続けるもの。
俺はコハク村を思い出した。
狐。
最初の飯。
赤い門。
そのままだ。
さらに。
最後。
**第七根――伝播。**
人より人へ。
土地より土地へ。
根そのものを運ぶ働き。
料理。
商売。
旅。
結婚。
歌。
教育。
物語。
「……全部」
俺は呟いた。
全部。
俺たちが見つけてきた。
ヴァル・ヘイムも。
同じところまで。
辿り着いていた。
そして。
最後の頁。
彼の結論。
**『神の根は、神の側にはない。』**
次。
**『人の側にある。』**
俺は。
息を止めた。
**『ゆえに神を殺すには、人の記憶を傷つけねばならぬ。』**
その下。
一度。
文章が消されている。
書き直した跡。
最終的に残されたのは。
**『それを救済とは呼ばぬ。』**
ヴァル・ヘイム。
この人は。
やっぱり。
途中で変わったんだ。
日本の神が戻れば危険。
だから封じた。
でも。
完全に消すためには。
人間の文化を。
生活を。
記憶を。
壊すしかないと気づいた。
そして。
そこまでは。
やらなかった。
だから。
残った。
今日。
俺たちがミソ汁を禁止しなかったように。
「神様が戻るのを止める方法はある」
俺は言った。
「全部忘れさせればいい」
誰も答えない。
「でも、それはやらない」
サヨが頷く。
エルナも。
レオルも。
フィアも。
そして。
セヴァンも。
少し遅れて。
頷いた。
俺は研究書を閉じた。
神々が帰る。
その仕組みは。
もうかなり分かった。
名前。
物語。
土地。
食事。
祭り。
習慣。
人と人のつながり。
つまり。
文化そのもの。
でも。
一つだけ。
まだ。
おかしい。
こんなに人間の記憶に依存する神々が。
どうやって。
国土そのものを。
世界から消せた?
神が世界へ触れるには。
人間の側に根が必要なはずだ。
なのに。
世界樹側の神々は。
世界そのものを作り替えるほどの力を持っていた。
その力は。
どこから来た?
俺がその疑問を口にすると。
エルナが。
ゆっくり顔を上げた。
「レン」
「何?」
「世界樹の古い教義に」
少し迷って。
言った。
「ミズガルドは、神々が新しく作った世界ではない、という記述があります」
俺は固まった。
「……どういう意味?」
エルナも。
答えを知らない顔をしていた。
「正確には」
彼女は言う。
**「世界樹が、人の世界を『織り直した』と書かれています」**
織り直した。
作った。
ではなく。
俺の中で。
何かが。
大きくずれた。
もし。
この世界が。
最初から別の異世界ではなく。
何かを。
作り直したものだとしたら。
俺が。
どうしてここへ生まれたのか。
日本が。
なぜ地図から消えているのか。
そして。
なぜ。
世界樹の下に。
日本の痕跡が。
こんなにも残っているのか。
その答えは。
神様ではなく。
**この世界そのもの**
にあるのかもしれなかった。




