第106話 神様は、物語で顔を持つ
金色に光った水差しは、翌朝にはただの水差しへ戻っていた。
魔力を測っても異常なし。中の水も普通。レオルが念のため成分まで調べたが、変なものは出てこなかった。
「持って帰って飾る?」
ナギが聞く。
「やめて。新しい御神体みたいになるから」
何となくありがたそうだから飾る。人が拝む。由来が付く。毎年何か供える。
今まで分かったことを考えると、それだけで本当に何かが始まりかねない。
セヴァンも同意して、水差しは他の食器と混ぜて保管することになった。番号だけ振る。特別な名前は付けない。
名前を付けない。
その言葉で、俺は一つ引っかかった。
「名前が神につながるならさ」
資料を整理していたレオルへ聞く。
「名前を忘れても、話だけ残ってたらどうなるんだ?」
ヒムカの祭守がまさにそうだった。
神名は消えていた。それでも、祭壇の配置や供え物の形は残っていた。
レオルが筆を止める。
「神格そのものではなく、性質だけが残る可能性か?」
「そう。たとえば名前は分からないけど、『太陽に関係する女神がいた』って話だけ覚えてるとか」
サヨの顔が少し強張った。
俺も具体的な名は言わない。
フィアが横から口を挟む。
「商品ならあるよ」
「商品?」
「名前を忘れても、『東の港で売ってた酸っぱい魚の調味料』って特徴を覚えてれば探せるでしょ。逆に名前だけ知ってても、何なのか知らなきゃ買わない」
なるほど。
神様を商品扱いするのはどうかと思うが。
分かりやすい。
「つまり、名前が住所で」
俺が言う。
「物語が顔写真みたいなもの?」
レオルが嫌そうな顔をした。
「例えは雑だが、考え方としては使える」
褒められたことにする。
そこで次の調査が決まった。
ただし今回は、いきなり新しい話を作らない。
根室に保存されていた東方資料から、神名だけ削られた古い説話を探す。
すると。
見つかった。
九十年前の整理で「民間寓話」と分類され、危険指定を免れていた短い話だった。
東の国。
高きところを治める女。
光。
田畑。
機織り。
そして、洞窟のような場所へ隠れたことで世界が暗くなる。
俺は読んだ瞬間に分かった。
かなり変形している。
細部も違う。
でも。
元になった話は。
たぶん。
知っている。
「名前は?」
エルナが聞く。
「書いてない」
サヨも読み込む。
「私の家にも、よく似た断片があります。ただ……順序が違います」
そこが大事だった。
同じ神の話だったとしても。
百年以上残る間に。
形が変わっている。
まず、その説話を誰にも読み聞かせず、紙のまま測定する。
反応なし。
次。
意味を知らない人に音読してもらう。
微弱。
次。
内容を理解した人が、自分の言葉で別の人へ話す。
少し上がった。
「上がるんだ」
フィアが測定石を見る。
「名前、一回も出てないのに」
さらに興味深かったのは。
話した人によって。
反応の出方が違ったことだ。
レオルが読むと、淡い白。
サヨが語ると、少し金色。
ナギが語ると。
なぜか赤みが混じった。
「なんで私だけ違うの?」
「話し方じゃない?」
俺が聞く。
「どんなふうに考えた?」
ナギは腕を組んだ。
「だって、この女の人、引きこもったせいで周りが困ったんでしょ?」
「まあ……」
「だったら周りも悪いじゃん。そこまで追い詰めたんじゃないの?」
俺は固まった。
前世で知っていた神話。
俺はずっと。
「太陽神が隠れて世界が暗くなった話」
として覚えていた。
ナギは。
「一人の女が追い詰められて閉じこもった話」
として受け取った。
同じ物語。
なのに。
見えている人物像が違う。
レオルが、測定石と記録を交互に見た。
「認識内容によって、神性反応の性質が変化している可能性がある」
「ちょっと待って」
俺は嫌な予感がした。
「じゃあ、人がどう覚えてるかで」
口の中が乾く。
「神様の方も変わる?」
誰もすぐに答えなかった。
それは。
かなり怖い。
忘れられれば遠ざかる。
名前を呼べば近づく。
食事や祭りで意味を共有すれば強くなる。
さらに。
人間がどんな物語として覚えているかで。
神の「形」まで変わる?
「でも、それなら」
エルナが言った。
「神話が地方ごとに違う理由にも説明がつくかもしれません」
神が先か。
物語が先か。
鶏と卵だ。
本当にあった出来事を人間が語り継ぎ。
語り継ぐうちに変わり。
変わった物語が。
逆に神へ返っていく。
神もまた。
人の記憶によって変わる。
俺は思わず頭を抱えた。
「神様、思ったより人間依存じゃん……」
「その言い方は不敬では?」
サヨが言う。
「でも事実じゃない?」
ナギが言う。
サヨが黙った。
その日の実験はそこで止めた。
理由は。
結果が十分に怖かったからだ。
でも。
俺にはもう一つ。
試したいことがあった。
危険なものじゃない。
料理だ。
夕食。
同じ白米。
同じ焼き魚。
同じミソ汁。
ただし。
食べる前に。
俺は一つだけ話をした。
「昔、海の向こうに国があった。そこでも、たぶんこんな飯を食べてた」
神様の話はしない。
戦争も。
消失も。
ただ。
親がいて。
子供がいて。
仕事から帰って。
同じ卓を囲んだ。
そんな普通の人たちの話。
「俺が知ってる家では、兄貴が飯を作ることもあった」
自分のことだ。
でも。
そこまでは言わない。
「上手くできない日もあった。でも、妹は美味しいって言った」
フィアが俺を見る。
サヨは視線を伏せた。
「その兄貴、たぶん後から気づいたんだ。妹が気を遣ったんだって」
少し笑う。
「だから、次はちゃんと美味しくしようって思った」
ただ。
それだけの話。
俺は手を合わせる。
「いただきます」
みんなも続いた。
測定石が。
淡く光った。
白でも。
赤でもない。
金色。
でも。
昨日ほど強くない。
俺は少し安心した。
そして。
一口。
米を食べる。
その瞬間。
胸の奥に。
何かが触れた。
声ではない。
映像でもない。
ただ。
懐かしい。
日向の匂い。
夏の日差し。
神社の石段。
祖父の背中。
そして。
ほんの一瞬。
女の人が。
笑ったような気がした。
顔は見えない。
名前も。
呼んでいない。
それでも。
誰なのか。
俺は知っている気がした。
次の瞬間。
頭の中へ。
とても静かな言葉が落ちた。
**『そうではなかった』**
俺の箸が止まる。
「レン?」
フィアが気づく。
「今……」
続き。
**『けれど、それでもよい』**
それだけ。
気配が消えた。
俺はしばらく動けなかった。
そうではなかった。
でも。
それでもいい。
つまり。
俺たちが覚えている神話は。
本当の出来事と。
違う?
それなのに。
神自身が。
違う形で覚えられることを。
受け入れている?
俺は金色の測定石を見る。
一つ。
分かった気がする。
文化を残すって。
昔の形を。
一文字も変えず保存することじゃない。
人から人へ渡る。
途中で少し変わる。
新しい意味が加わる。
それでも。
完全に忘れられなければ。
つながっている。
ヒムカのミソが。
俺の知っている味噌と違っても。
むすびが。
前世のものと少し違っても。
それでよかったように。
もしかすると。
神様だって。
同じなのかもしれない。
ただし。
そこまで考えて。
俺は根室で見た記録を思い出した。
日本側の神々も。
世界をかけて戦った。
全員が。
「それでもよい」
と言える神ばかりだったとは。
到底思えなかった。




