第103話 神様は、白い飯を覚えている
八咫烏の名前を呼ぶ実験から三日後。
俺たちは、次の段階へ進むことになった。
今度は名前ではない。
**食べ物。**
「本当にやるんですか?」
エルナが、机の上の白米を見つめている。
「怖いならやめる」
俺が言うと、彼女は首を振った。
「怖いから、条件を決めてやるんです」
強くなったな。
村で出会った頃のエルナは、世界樹の教えに疑問を持つこと自体を怖がっていた。
今は違う。
怖い。
でも調べる。
それは俺たち全員、同じだった。
今回の実験は、王都の外れにある史料庁管理の小さな研究棟で行う。
大神殿から離す。
人も増やさない。
神名も口にしない。
祭祀用具も使わない。
用意したのは、ヒムカから持ってきた米だけ。
それを普通に炊く。
「つまり昼飯?」
ナギが聞く。
「最初はね」
「研究費で昼飯食べてない?」
「必要経費」
フィアが帳簿を見る。
「米代はノルン商会持ちだけど」
「すみません」
研究は世知辛い。
炊飯そのものは、もう難しくない。
水を量る。
米を洗う。
吸水させる。
火を入れる。
沸いたら弱める。
蒸らす。
学院で温度を測り始めた頃なら、俺は全部数字にしたがった。
でも米は面白い。
品種。
乾燥具合。
新米か古米か。
鍋。
水。
数字だけでは足りない。
蓋から漏れる蒸気の匂いも見る。
音も聞く。
ナギが横から覗いている。
「火、もう少し弱くない?」
「この米だとこっち」
「ヒムカならもっと早く落とす」
「こっちの水、少し硬いんだよ」
「……分かるようになったね」
褒められた。
ちょっと嬉しい。
炊き上がる。
蓋を開ける。
白い湯気が立つ。
その瞬間。
測定石は。
動かない。
「反応なし」
レオルが記録する。
当然といえば当然だ。
ヒムカでは毎日米を炊いている。
それだけで神格反応が起きるなら、とっくに毎朝大騒ぎになっている。
次。
茶碗へ盛る。
普通に食卓へ置く。
反応なし。
俺が食べる。
「いただき――」
全員が俺を見る。
止めた。
「あぶな」
習慣って怖い。
今日は言葉を混ぜない。
黙って一口。
反応なし。
ナギも食べる。
フィアも。
何もない。
「米そのものが神を呼ぶわけではない」
エルナが書く。
「少なくとも食べるだけならね」
次。
同じ飯を。
一皿だけ。
誰も食べない場所へ置く。
ただ置くだけ。
反応なし。
そして。
サヨが聞いた。
「では、供え物として置きますか?」
空気が少し張る。
ここからだ。
でも。
日本の作法を完全には再現しない。
祭壇は作らない。
神名も書かない。
俺が知っている神饌の配置もしない。
ただ。
「これは、誰かへ差し出す食事だ」
と。
意味だけを持たせる。
問題は。
誰へ?
「名前のない相手でいいのかな」
フィアが言う。
「神様って思った時点で何か変わる?」
レオルが紙へ条件を書く。
食物。
供与意識。
神名なし。
具体的神格の想起なし。
俺は小さな器に白米を盛った。
箸を置かない。
塩も。
酒も。
米だけ。
それを机の中央へ置く。
手は合わせない。
俺は。
心の中だけで思った。
これは。
誰かへ渡す飯だ。
測定石。
変化なし。
五秒。
十秒。
三十秒。
「何も――」
ピ。
レオルが止まる。
「微弱上昇」
全員が息を止めた。
「俺、名前考えてないよ」
「分かってる」
「特定の神様も」
「今は喋らない」
怒られた。
測定石の数値は。
本当に微弱だった。
八咫烏の名をサヨが呼んだ時より弱い。
だが。
ゼロではない。
「ただ食べ物を置いた時は反応しなかった」
フィアが整理する。
「『誰かへ差し出す』と思ってから出た」
「偶然の揺れの可能性もある」
レオルが言う。
そこで繰り返した。
一回目。
反応。
二回目。
反応なし。
三回目。
弱く反応。
ばらつく。
俺は頭を掻いた。
「分からん」
「いい研究結果ね」
エルナが言った。
「分からないことが分かった」
学院で先生に似たことを言われた気がする。
次は。
少し条件を強くする。
「食べてもらう相手を、具体的に想像する」
ただし。
神ではない。
フィアに頼む。
「誰か一人思い浮かべて」
「誰でも?」
「うん。その人に食べてほしいと思って置く」
フィアは少し考え。
飯を置いた。
測定石。
反応なし。
「誰?」
俺が聞く。
「言わない」
「なんで?」
「条件に関係ないでしょ」
ナギがこっちを見て笑った。
なんだ。
気になる。
でも研究中だ。
次。
俺。
誰か一人。
最初に浮かんだのは。
リナだった。
今の妹。
村にいる。
白米を初めて食べた時、目を丸くしておかわりを要求した。
あいつに。
食べさせるつもりで。
小さな器へ飯を盛る。
反応なし。
普通だ。
次。
別の人。
前世の妹。
顔を思い浮かべる。
朝。
眠そうな顔。
俺が作った飯。
失敗した料理にも。
「美味しいよ」
と言ってくれた。
胸が痛くなる。
白飯を置く。
その瞬間。
測定石が。
跳ねた。
「レン」
レオルの声。
俺は動けなかった。
数値は。
さっきより明らかに高い。
「何を考えた?」
答えられない。
フィアたちには。
まだ。
でも。
サヨだけが。
俺の顔を見て。
気づいたらしい。
「……故郷の方ですか」
小さな声。
俺は頷いた。
レオルは詳しく聞かなかった。
代わりに記録する。
**強い記憶を伴う供与意識で反応増加。**
俺は。
紙を見た。
「食べ物じゃないのかもしれない」
「どういう意味?」
エルナが聞く。
「米だからじゃない」
俺は前世の妹へ置いた飯を見る。
「その食べ物に、何を重ねてるか」
思い出。
人。
家族。
故郷。
感謝。
祈り。
それが。
神格へつながる?
サヨが静かに言う。
「神饌も、ただ食べ物を置くことではありません」
「うん」
「誰に。なぜ。何を差し上げるのか。その意味がある」
名前と似ている。
ただ音を出すだけでは弱い。
意味を知り。
存在を思い。
呼ぶと強くなる。
食事も。
ただ置くだけでは弱い。
意味を込める。
誰かとつながる。
それで。
道が開く?
「じゃあ」
ナギが腕を組む。
「神様って、飯食べて強くなるんじゃなくて」
一度考え。
「人が、その飯で思い出したものを食べてる?」
誰もすぐには答えなかった。
変な言い方。
でも。
妙に近い気がした。
俺の前世で。
神様に食べ物を供える。
誰かの墓前に好きだったものを置く。
仏壇へ飯を供える。
祭りで同じものを食べる。
料理そのものに魔力があるわけじゃない。
そこに。
誰かを思う気持ちがある。
「記憶……」
俺が呟く。
その時だった。
研究室の窓。
コツ。
音。
見る。
黒い鳥。
三本脚。
また。
八咫烏。
でも今回は。
俺たちは名前を呼んでいない。
誰も。
神の名前さえ。
鳥は窓の外から。
机の飯を見る。
前世の妹を思って置いた。
白い飯。
「欲しいの?」
思わず聞いた。
八咫烏は首を傾げた。
そして。
頭の奥へ。
声が届く。
**『供物を欲するのではない』**
俺たち全員。
聞こえたらしい。
サヨが息を呑む。
鳥は続ける。
**『人が、誰を忘れぬか。』**
胸が。
締め付けられる。
**『それが、神の食だ』**
俺は白い飯を見る。
神様は。
米を食べるから戻るんじゃない。
人が。
飯を通じて。
誰かを思い。
物語を思い。
名前を思い出す。
そこに。
神が生きる。
だから。
俺が料理を作るたび。
日本を思い出した。
妹を。
家族を。
祭りを。
神社を。
「いただきます」を。
その一つ一つが。
道になっていた?
八咫烏が羽を広げる。
俺は慌てて聞いた。
「待って!」
鳥が止まる。
「じゃあ、日本の神々が弱ったのは」
喉が乾く。
「俺たちが、忘れたから?」
少しだけ。
沈黙。
そして。
声。
**『忘れられた神は、死なぬ』**
一瞬。
安心しかける。
でも。
続いた。
**『ただ、世界へ触れられなくなる』**
黒い鳥は飛んだ。
王都の空へ。
俺は追わなかった。
机の白米を見る。
冷め始めている。
前世では。
神様が弱っているなんて。
考えもしなかった。
でも。
神社へ行かない。
昔話を知らない。
神様の名前も。
祭りの意味も。
少しずつ忘れる。
それ自体が悪いとは思えない。
人の生活は変わる。
文化も変わる。
ヒムカで学んだ。
でも。
忘れられることを。
神々が怖がっていたとしたら。
その恐怖が。
あの戦争の原因の一つだったとしたら。
俺は。
また一つ。
嫌なところへ近づいている気がした。
そして同時に。
分かったこともある。
神を戻す方法は。
特別な魔法じゃない。
人が。
覚えること。
語ること。
名前を呼ぶこと。
そして。
同じものを食べて。
意味を共有すること。
それだけ。
だからこそ。
恐ろしい。
そして。
たぶん。
ものすごく強い。




