第102話 神様の名前を、書くだけにした
根室で見つけたヴァル・ヘイムの記録。
**『東方の名を呼べば、敗れた神々は戻る。戻れば、勝者もまた目を覚ます。』**
その一文を読んでから、俺たちは日本の神々について調べ始めた。
ただし。
最初に決めたことがある。
「名前は、なるべく口に出さない」
俺が言うと、ナギが変な顔をした。
「調べるのに?」
「祭りで痛い目見たから」
「それはそう」
反論なし。
悲しい。
でも本当に重要だった。
今までの記録を見る限り、神格反応にはいくつかの要素がある。
名前。
供え物。
祭祀の形。
それを複数人が共有すること。
どれがどれだけ効くのか、まだ分からない。
だから一度に全部やらない。
まず。
**書くだけ。**
読むのは俺とサヨ。
ただし声には出さない。
供物も置かない。
世界樹系の魔力測定具を置き、エルナが異常の有無を見る。
学院へいた頃なら、
「名前を書くだけで何か起きるわけないだろ」
と笑っていたかもしれない。
今は笑えない。
場所は大神殿の研究室ではなく、史料庁の独立実験室になった。
理由は単純。
「神殿で日本神の名前を試すの、なんか怖い」
俺が言ったからだ。
セヴァンにも、
「珍しく妥当な判断です」
と褒められた。
最近、褒められ方がおかしい。
机の上。
紙。
筆。
測定石。
そして俺。
サヨ。
エルナ。
レオル。
フィア。
ナギ。
セヴァン。
観察者が多い。
「緊張するな……」
「名前書くだけでしょ?」
ナギが言う。
「そう思って石を一個動かした結果を思い出して」
「納得した」
俺は筆を取った。
最初に選ぶ名前は決まっている。
昔。
村の地下で見つけた石板。
そこに刻まれていた。
俺が前世から知っていた、もっとも大きな名の一つ。
紙へ書く。
一文字ずつ。
**天照大御神。**
書き終える。
何も起きない。
測定石。
変化なし。
エルナの祭司章も光らない。
「……普通だ」
ナギが言った。
「普通が一番いい」
五分。
十分。
何もない。
レオルが記録する。
「文字のみでは、少なくとも即時反応なし」
次。
サヨが、自分の家に残っていた祭祀記録の中から、神名ではない古い呼称を書く。
何もない。
さらに。
八咫烏。
俺が書く。
ちょっと緊張する。
あいつは実際に何度も出ている。
でも。
何も起きない。
「本当にただの文字なら平気なのかも」
フィアが言う。
俺も少し安心しかけた。
そこで。
サヨが紙を見て、ぽつりと呟いた。
「……やたがらす」
全員が止まった。
サヨ自身も。
口を押さえる。
「すみません!」
測定石。
一秒。
二秒。
三秒。
ピシ。
小さな音。
机の端に置いていた水の表面が。
揺れた。
風はない。
レオルの顔が変わる。
「魔力上昇。微弱」
エルナが祭司章を見る。
「世界樹側は反応なし」
俺は紙を見る。
八咫烏。
文字だけの時は、何もなかった。
声にした瞬間。
反応。
「じゃあ、名前を知るだけじゃなく」
俺が言う。
「呼ぶこと自体に意味がある?」
セヴァンが記録する。
「可能性は高まりました」
まだ断定しない。
でも。
嫌なほど分かりやすい。
しばらく待つ。
反応は消える。
何も出てこない。
黒い鳥も。
声も。
俺は息を吐いた。
「一回なら大丈夫そう」
レオルが睨む。
「その言い方やめろ」
学習している。
次の試験。
今度は名前を声に出すが。
誰もその神について考えないようにする。
無茶な条件だ。
「考えるなって言われたら余計考えるよ」
フィアが言う。
その通り。
だから代わりに。
知らない言葉として発音する人を使う。
ナギ。
彼女は日本神話をほとんど知らない。
紙に書かれた八咫烏の読みだけを教える。
意味は説明しない。
「ヤタガラス?」
測定石。
わずかに反応。
でも。
サヨが言った時より弱い。
俺たちは顔を見合わせる。
「意味を知ってる方が強い?」
エルナが言う。
ここで。
俺の背中がぞくっとした。
名前。
音だけじゃない。
その名前が何を指すのか。
その存在を知っているか。
思い浮かべているか。
そこも関係する?
さらに。
今度は俺。
俺は八咫烏を知っている。
神話も。
三本足の姿も。
実際に会っている。
でも。
声には出さない。
紙を見るだけ。
測定石。
ほぼ反応なし。
つまり。
知っているだけでは弱い。
名前を口にする。
意味を知っている。
その二つが重なると。
強くなる。
「認識と呼称」
レオルが呟く。
「神格への接続条件かもしれない」
セヴァンが頷く。
「旧災害対策局の『名を呼ぶな』という命令にも合理性が出ます」
胸が重い。
エルナが昔聞いた声。
**『まだ――名を呼ぶな』**
あれは。
単なる警告じゃなかった。
本当に。
名前を呼ぶだけで。
神へ道がつながるから?
「じゃあ」
ナギが言う。
「みんなで呼んだらどうなるの?」
全員が彼女を見る。
「やらないよ?」
「分かってる!」
心臓に悪い。
でも。
そこが次の問題だ。
一人。
二人。
十人。
百人。
名前を知る人間が増えたら。
神は強くなる?
俺は学院で「いただきます」が広がっていった時のことを思い出す。
最初は俺一人。
家族。
村。
学都。
今では。
俺がいなくても言う人がいる。
もし。
それも。
神々に力を与えているのなら。
俺は。
すでに相当なことをやっている。
「レン」
フィアが俺を見る。
「また一人で悪い方向に考えてる」
「分かる?」
「顔で」
俺は苦笑した。
「俺が広めたもののせいで、神が戻ってるなら」
「でも、戻ること自体が悪いって決まってない」
「戦争になったら?」
フィアはすぐには答えなかった。
「だから今、調べてるんでしょ」
正しい。
俺は紙を見る。
天照大御神。
八咫烏。
ただの文字。
でも。
人が意味を持って呼んだ瞬間。
それは。
ただの音じゃなくなる。
昼過ぎ。
実験を終える。
最後に全員で結果を整理した。
文字だけ。
弱い。
音だけ。
弱い。
名前と意味を結びつけて呼ぶ。
強くなる。
そして。
まだ試していない。
供え物。
祈り。
集団。
それらが加われば。
もっと強くなる可能性がある。
俺は紙の一番下へ書いた。
**『神は、名前だけでは帰らない。だが、人がその名を意味とともに呼ぶ時、道が開く。』**
書いて。
少し手が止まる。
前世。
神様の名前なんて、普通に口にしていた。
神社。
昔話。
漫画。
アニメ。
授業。
誰も。
そのたびに本当に神様が近づいてくるなんて思わない。
でも。
もし。
あの世界でも。
本当はそうだったのなら?
人が忘れるほど。
神は遠くなり。
人が語るほど。
近くなる。
だったら。
日本の神々が弱ったのは。
敵に負ける前から。
俺たちが。
少しずつ。
忘れていたから?
その考えは。
日本を消した神への怒りとは別の痛みを。
胸の中に残した。
そして。
夕方。
実験室を出ようとした時。
窓の外。
王都の屋根の上に。
黒い鳥が一羽。
止まっていた。
三本の脚。
呼んでしまったから。
来たのか。
それとも。
最初から見ていたのか。
八咫烏は。
俺を見て。
一度だけ。
頭を下げた。
そして。
飛び去った。
今度は。
何も言わなかった。




