『第三話:人買いの黒市と、汚れた仙薬』
一、沢口村の裏の顔
親友・孫六の生首が石地蔵の足元に晒された、あの凄惨な夜襲から一ヶ月の月日が流れていた。
沢口村を囲む泥炭地は、宮本捨蔵の冷徹な差配のもと、着実に敵を嵌めるための「泥の罠」へと作り変えられつつあった。百姓たちは飢えと戦いながら、泥鍬を振るって隠し田の畔を削り、底なしの泥濘を広げる地道な土木普請に耐えた。日々、肥桶を担ぎ、泥を掻き出すことで鍛え上げられた農民たちの肉体は、捨蔵の課した「竹槍の一突き」をひたすらに繰り返す無骨な力へと転化していった。
だが、与作の心には一刻の猶予もなかった。夜襲の夜に野晒毒虫一味の弟・拾によって拉致された妻、はるの安否が気が気でなかったからである。毎日、泥を掘り返しながらも、与作の脳裏にははるの悲鳴が、引き裂かれた衣の切れ端の感触が、狂おしいほどにこびりついて離れなかった。
そんなある夜、長百姓・茂兵衛のあばら家に、周辺の領境を徘徊していた密偵の男が飛び込んできた。男がもたらした情報は、与作の五臓六腑を激しくかき乱すものだった。野晒の一味が、沢口村から拉致した女たちを、近いうちに国境の原野で行われる「人買い」の手へと引き渡すというのである。
「……行く。今すぐ行く。はるが、売られちまう」
与作は立ち上がり、狂ったように竹槍を掴もうとした。それを、囲炉裏の前に座る茂兵衛が、低く濁った声で制した。
「待て、与作。お前ひとりで行って、何ができる。野晒の奴らが総がかりで群れる場所に飛び込めば、はるの手を握る前に孫六と同じ首にされるだけだ」
「じゃあ、黙って見てろってんのかッ! 孫六は首を撥ねられて、あそこに転がったんだぞ! はるまであいつらに取られて……売られちまったら、おらは、おらはこれから何を糧にして生きていきゃあいいんだッ!」
与作は血の涙を流さんばかりに叫び、茂兵衛の着物の胸元に掴みかかった。その様子を壁際で静かに見つめていた捨蔵は、ただ黙って、囲炉裏の火を見つめている。
茂兵衛はキセルをくゆらせたまま、深く長い皴の刻まれた顔を歪めた。そして、与作の必死の形相と、孫六を失った村の絶望の限界を見据え、ついに重い口を開いた。これまでお上にも、あるいは与作のような若い百姓たちにも決して明かしてこなかった、沢口村の「本当の生き残り方」を明かす決意をしたのだ。
「……与作。おらたちの村は、ただお上に怯えて隠し田を作っていたわけじゃねえ。生き残るため、その密造米を、お上の法の届かねえ国境の原野の『黒市』へと密かに運び、武器や情報に変えてきた。その裏の流通を、命懸けで担ってきた村出身の荒くれ者たちがいる」
茂兵衛の口から語られた村の裏の顔。それは、日常的に他藩のゴロツキや悪僧どもと、血で血を洗う利権争いを演じてきた連中が外の世界にいるという事実だった。
「その黒市へ通じる隠し道を知り、今もそこで生きている漢たちがいる。そいつらの力を借りるしかねえ」
茂兵衛の言葉を聞き、それまで沈黙を守っていた捨蔵が、ようやくゆっくりと顔を上げた。竹笠の奥の昏い眼光が、茂兵衛を見据える。
「……なるほど。お上の目を盗んで闇米を運ぶ隠し道があるなら、人買いの市へ潜入する隙はあるな。野晒の根城へ直接攻め込むのは無理だが、無法者が集まる黒市の中なら、こちらの出方次第で敵の裏をかける」
捨蔵の言葉に、茂兵衛は深く頷いた。
「お侍様の言う通りだ。与作、お前が江戸へ行って本物のつわものを連れてきたように、今度はお前が村の裏の牙を叩き起こしてくる番だ」
翌朝、まだ夜明けたばかりの深い霧の中を、与作と捨蔵は村を出発した。目指すは、どの大名の公権力も及ばない、国境の荒れ野。そこは、戦国が終わって行き場を失った野伏や浪人が蠢く、命の最も軽い無法地帯であった。
二、国境の再会と二人の漢
国境の原野へ続く深い隠し道を歩むうち、霧の向こうから不気味な熱気と、獣のような人間の咆咆が聞こえてきた。そこが、沢口村の闇米が運び込まれてきた「黒市」だった。
立ち並ぶ粗末な小屋、怪しげな濁酒を売る露店、抜身の刀をぶら下げた浪人、博徒、派手な着物を乱暴に着崩したかぶき者、影のように潜む密売人、そして念仏の代わりに呪詛を吐く悪僧。公儀の法が一切通用しないその空間は、まさに泰平の世の底に溜まった、濁った泥水のようであった。
与作はその異様な熱気と、剥き出しの暴力の気配に圧倒されながらも、はるの手がかりを求めて目をぎらつかせた。だが、あまりの混沌を前に、どこから手をつけていいか足がすくむ。
その時、横を歩く捨蔵が不意に足を止め、竹笠の奥から、闇市の一角にある荷揚げ場を鋭く見据えた。
「与作。沢口村の闇米は、どのような俵で運ばれる」
「え、ええと、水分を含みやすい泥炭地の米だから、湿気を吸わねえように、茅をきつく綯った特有の太い縄で、十文字に力任せに縛るのが村のやり方だべ……それが、どうしただ?」
「あそこを見ろ。大八車から蔵へ運び込まれている米俵だ」
捨蔵が顎で示した先には、荒くれ者たちに混ざり、手際よく米俵を長屋蔵へと運び込んでいる数人の男たちがいた。その俵にかけられた縄の結び目は、まさに与作が毎日村で見ている、あの無骨で太い「沢口村の結び」そのものであった。さらに、運び込まれる俵の底からは、泥炭地特有の、ドス黒く発酵した泥の臭いが微かに立ち上っている。
「あ……! あれ、村の米だべ! ということは、あそこにいるのは……!」
与作が息を呑んだ瞬間、米俵を二俵同時に、軽々と両肩へ担ぎ上げた一人の見上げるような大男が、周囲を警戒するように振り返った。全身に数々の小競り合いで刻まれた傷跡があり、その腕は丸太のように太い。与作が子供の頃、よく泥遊びや力比べで遊んでくれ、数年前に村を出て闇の流通へ身を投じた年上の男――鉄槌の作兵衛であった。
「作兵衛、兄貴……!」
与作が思わず声を漏らし、駆け寄ろうとした。だがその瞬間、大八車の影から、音もなく一人の細身の漢が滑り出るように現れ、捨蔵たちの前に立ち塞がった。肩に頑強な天秤棒を担ぎ、無表情な、しかし底の知れない冷たい目をぎらつかせている。彼もまた、沢口村の出身であり、黒市で行商人として密売品を売り捌きてきた仕事人――天秤の三次だった。
三次は、霧の中から近づいてくる捨蔵の圧倒的な殺気をいち早く察知し、懐の獲物へと視線を落としつつ、天秤棒のからくりに手をかけていた。しかし、その霧の向こうに、見紛うはずもないなじみの顔を捉える。
三次の口角が、ふっと和らぐように上がった。その顔に浮かんだのは、かつて沢口村でともに過ごした幼馴染へ向ける、懐かしげな笑みであった。
「おいおい、泥の匂いをプンプンさせた百姓が、こんな掃き溜めに何の御用だ。お上に隠し田でも取り上げられて、物乞いにでも来たかい」
声音には親しげな響きさえ混じっていた。
しかし、その目は一切笑っていなかった。声音とは裏腹に、三次の双眸は細く据えられ、与作の背後に立つ捨蔵の姿を凝視している。腰に帯びた同田貫『無骨』の柄、そこへ置かれた指のわずかな角度、あるいは泥を踏みしめる足の踏み込み。その一挙手一投足を、寸分違わず観察し、間合いを測り続けていた。いつでも天秤棒の仕込み刃を弾き飛ばせるよう、指の力は微塵も抜かれていない。
「三次、兄貴……! 作兵衛兄貴もいるべ……!」
与作が涙混じりに声をあげる。
作兵衛は担いでいた俵を地面へどさりと下ろすると、大きな手で自分の分厚い首の後ろをがりがりと掻いた。口を半開きにして首を傾げるその仕草は、一見するとただの腑抜けた大男に見える。
「あん? 与作じゃねえか。なんだ、そこの強面のお侍に捕まって、身代金でも要求されてんのか? おらぁ今、一文も持ってねえぞ」
作兵衛はへらへらと締まりのない笑みを浮かべ、のそりと歩み寄る。
だが、その肉体は寸分の隙もなく連動していた。巨躯をごく自然に与作の前へと割り込ませ、捨蔵の一振りが届かぬ死角を完全に塞ぐ。笑い声で場の空気を弛緩させながらも、大木のような足腰はいつでも地を蹴り、敵の懐へ飛び込める姿勢を崩していない。三次の視線が伝える危急を察したからこそ、作兵衛もまた、一触即発の気配のなかで最も確実に与作を庇える位置を奪いにいったのだ。
捨蔵の目が、竹笠の奥でわずかに細くなった。目の前に立つ二人の漢が、ただの闇市の悪党ではないことを、その肉体の構えだけで見抜いていた。
与作は堪えきれず、これまでに村で起きた悲劇を、野晒の夜襲を、捨蔵が仲間であること、親友の孫六が生首にされたことを、そして妻のはるが拐われたことを、一気にまくし立てた。話を聞くうちに、作兵衛の顔から締まりのない笑みが完全に消え失せた。「……孫六が死んだ? あの、いつもおらの後ろを付いて回ってた小僧が、首を撥ねられたってのか」
作兵衛は低く呟き、拳を固く握りしめた。激昂して怒号を上げることはない。ただ、丸太のような腕の血管を怒りで引き千切れんばかりに怒張させていた。
「野晒のクソ虫どもが、随分とでかい面をして歩いてると思えば……おらたちの土を、そこまで踏みにじりやがったか。いいぜ。故郷がなくなっちまったら、おらたちの闇米を買い叩く場所もなくなっちまうからな。商売にならねえ」
作兵衛はわざとらしく鼻を鳴らし、帳簿の上の損得を口にしたが、その目は完全に据わっていた。
三次はふんと笑い、天秤棒を肩の上で軽く転がした。
「そりゃそうだ。野晒の連中、最近この市で妙に刀を買い漁ってやがる。……与作、お前さんの可愛い嫁さんも、おそらくその買い付け先の廃倉庫に転がされてる檻の中だ。あいつら、女を人買いに流して、その金でさらに獲物を揃える気さ。あのお調子者どもに、これ以上縄張りを広げられちゃ、おらの天秤の釣り合いが取れねえんでね」
三次はいつものように突き放すような口調を崩さなかったが、その指先は、天秤棒に仕込まれた出歯包丁のバネをいつでも弾けるよう、肉に食い込むほど固く強張っている。
「宮本だ」
捨蔵が竹笠の奥から、二人を冷徹に見据える。
「お前たちが、茂兵衛の言っていた『牙』か。仕事が早くて助かる。野晒の身動きはどうだ。女たちの檻がどこか、案内できるか」
三次は捨蔵の『無骨』からようやく目を離すと、ふっと薄い笑みを漏らした。
「いい太刀を持ってるな、お侍。お仲間だってんなら話は早ぇ。……場所なら、おらの網に引っかかってる。足手まといになんなよ。付いてきな」
作兵衛は巨大な鉄槌を容赦なく肩に担ぎ直し、三次は天秤棒を小さく揺らした。こうして、与作と捨蔵に、黒市を生き抜いてきた二人のつわものが加わり、一行は一味が潜む闇の深淵へと足を踏み込んだ。
三、狂気の仙薬と戦支度の実態
作兵衛と三次に案内され、市の一角にある泥に塗れた廃倉庫の周囲に辿り着いた。そこは野晒一味の雑兵どもがたむろする、黒市の中でもひときわ澱んだ一画であった。与作たちは物陰に身を潜め、一味の不気味な企みをその目に焼き付けることとなった。
「……あ、あ、カッカッ……。美味え、美味えなぁ……」
倉庫の軒先で、血痕まみれの腹当を巻いた野晒の雑兵が、黒目の開ききった目を虚空に向け、不気味な紫色の煙を煙管から吹き出していた。
男は引きつった歪んだ笑みを浮かべたまま、自身の腕の生傷を爪で激しく掻きむしっている。赤黒い血が滲んでいるにもかかわらず、痛みを全く感じていない様子で、ただ狂ったように息を繰り返していた。
彼らが貪っていたのは、密貿易によって黒市に流れ込んだ阿片に、痛覚を狂わせる毒草の汁を混ぜ込んだ「汚れた仙薬」であった。その煙を吸うことで、雑兵どもは五臓六腑を薬毒に侵され、体中を微かに震わせながらも、戦場での恐ろしさを完全に忘れ、異常な凶暴さを内に溜め込んでいたのである。
「……薬狂いか。骨が折れるな」
捨蔵が竹笠の奥から、冷徹にその光景を見据える。
「恐れを忘れた奴原は、痛みが分からぬ。手足を一本落としたところで止まらんぞ。突っ込んできたら、まともに受けるな。首を落とすか、腹を深く断つしかねえ」
「それだけじゃねえよ、お侍さん。あいつらの狙いは、その薬で狂うことだけじゃねえ」
三次が低い声で言い、倉庫の中に積み上げられた荷に目を向けた。
倉庫の中では、人買いの商人と一味の雑兵たちが、不気味な金銀のやり取りを行っていた。そして、その対価として一味が買い付けていたのは、尋常ならざる量の抜身の刀であった。
一味は、沢口村が泥の防壁を構えつつあることをどこかで察知していた。それに対し、次の襲撃の際には、一味のすべての野伏を投入し、新しく買い付けた大量の獲物をもって、村を根こそぎ圧殺しようと戦支度を進めていたのだ。
「あの刀の数……本気で村を平らげる気だべ」
作兵衛が奥歯を鳴らした。
与作は、そんな武器の数など目に入っていなかった。彼の目は、倉庫のさらに奥、大車の上に据え付けられた大きな木製の「檻」に釘付けになっていた。檻の中には、何人もの若い女たちが、生気を失った泥人形のように転がっている。
「はる……?」
与作の口から、掠れた声が漏れた。檻の最前列で、襤褸のような衣を纏い、痩せ細った身体で震えている女。それは間違いなく、与作が命に代えても守ると誓った妻、はるであった。
「はる! はるッ!」
与作の堪忍袋の緒が切れた。制止する作兵衛の腕を振り切り、与作は物陰から叫びながら飛び出した。
「あ? なんだ、百姓のガキがどこから入り込みやがった!」
気づいた野晒の雑兵三人が、阿片でぎらついた目を向け、一斉に刀を抜いて与作へ襲いかかった。
だが、その刃が剥き出しの与作の肉に届くより早く、作兵衛の巨躯が物陰から恐るべき速さで躍り出た。作兵衛は名乗ることもなく、ただ腹の底から獣のような咆咆を上げると、抱え持った巨大な鉄槌を容赦なく横に薙いだ。ゴキリ、という湿った骨砕の音が廃倉庫に響き渡る。まともに鉄塊を胸に受けた雑兵のひとりは、胸骨を完全に陥没させ、木の葉のように壁へと吹き飛ばされた。壁に激突した男は、口からどっと黒い血を吐き出し、そのまま動かなくなった。
同時に、三次の天秤棒が鋭く回転した。カチャリと音がした瞬間、天秤棒の両端から研ぎ澄まされた出歯包丁の刃が飛び出し、もう一人の雑兵の喉笛を正確に切り裂いた。さらに三次は手首を返すと、腰の「首引き早縄」を放ち、逃げようとした三人目の雑兵の首に一瞬で縄を絡ませた。
「が、はっ……!」
三次が縄をたぐり寄せ、倉庫の梁へと放り投げると、雑兵の身体は宙に吊り上げられ、数秒ののちに息が絶えて動かなくなった。一瞬にして三人の雑兵を屠る、人殺しの手練れどもが放つ容赦のない業。捨蔵は抜刀することすらなく、その鮮やかな手並みを静かに見届けていた。
「与作、今のうちに檻へ行け!」
作兵衛の声に押され、与作は檻の木格子へと掴みかかった。
四、「鬼」
「はる! はる、おらだ! 与作だ! 助けに来ただよ!」
与作は木格子を激しく叩き、叫んだ。
だが、檻の中からの返答はなかった。はるは、ゆっくりと顔を上げたが、その双眸には光が一切なかった。
彼女が無理やり飲まされ、吸わされ続けていた粗悪な薬物は、人間の心と肉体を内側からドロドロに腐らせる。一度これに侵されれば、強烈な心地よさと引き換えに全ての覚えと思案を失い、赤子のように従順になる。野伏どもは、拉致した女たちの刃向かう力を奪い、効率よく慰みものとして飼い慣らすために、この薬を四六時中与え続けていたのだ。
薬がもたらすのは、うつつの心地よさだけではない。効き目が切れるたびに訪れる身の内の苦しみは、この世のあらゆる拷問を凌駕する。骨の芯を無数の蟲が食い破るような激痛、体中の穴という穴から吹き出す粘ついた汗、激しい吐瀉と失禁。その地獄から逃れたい一心で、女たちは自ら野伏どもの足元を這い回り、薬を求めて泥を舐めた。
はるの細い腕には、皮膚の下を這う「幻の蟲」をむしり取ろうとして、自らの爪で肉を抉った生々しい傷跡が幾筋も走り、凝固した血と膿で汚れ果てていた。衣服の破れから覗く肌の無数の痣、そして股ぐらを伝う乾いた血痕が、彼女が恐ろしさを感じる心すら奪われた状態で、どれほど非道に蹂躙され尽くしてきたかを物語っている。息は細く不規則で、その口元からは、ただ薬を乞うような締まりのない涎が垂れていた。もはや、目の前で格子を揺らす男が誰であるかなど、彼女の壊れた頭には届いていなかった。
「あ、あ……あ……」
与作の喉から、言葉にならない悲鳴が漏れた。最愛の妻は、生きながらにして、中身をすべて引き裂かれ、汚泥を詰め込まれた「肉の器」に変えられていたのだ。
しかしその時、はるの体内で恐るべき気血の反動が起きた。与作が狂ったように叫ぶ「己の名」と、檻を叩く激しい鉄の音が、混濁した頭の芯へ力任せに冷水を浴びせたのだ。
折しも、前回の投与から時が経ち、体内の薬毒が急激に薄れる境目であった。全身の筋が一斉に裏返るような薬切れの激痛と、夫の絶叫という二つの強烈な衝撃が、彼女の正気を無理やり呼び覚ました。死の瀬戸際で最後の命の灯火を振り絞り、急速に冷徹な現実がはるの内に戻っていく。
薬毒の霧が劇的に晴れ、はるは一瞬だけ、その正気を取り戻した。
だが、それは救いなどではなかった。正気に戻るということは、己がこれまでに受けた数々の凄惨な仕打ちを、ひとつ残らず克明に思い知らされるという、凄絶な地獄の始まりに過ぎなかった。獣どもの慰みものへと成り果て、泥にまみれて這いつくばっていた我が身の現実。二度と元の平穏な日々には戻れぬという圧倒的な絶望と、狂おしいほどの羞恥が、はるの心を容赦なく引き裂いた。
さらに、下腹部の鈍い痛みが、お腹の中にいたはずの小さな命が、過酷な蹂躙の中でとっくに冷たく潰されて流れ出していた事実を、彼女に決定的に突きつけた。
はるの目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ち、泥と膿に汚れた頬を濡らした。
「お……前……さま……」
彼女は、汚された自分を激しく恥じるように、震える手で襤褸をかき集めて身体を隠そうとした。だが、すぐにそれを諦め、夫である与作の顔を、愛おしそうに、そしてすべてを焼き付けるようにじっと見つめた。
はるはもう悟っていた。腑の奥まで薬の毒が染み付いた自分は、仮にここを生き延びても、遠からず薬切れの狂乱の中で己の肉を掻きむしり、野垂れ死ぬだけだと。
はるは悲しく、しかし美しい微笑みを浮かべた。声の出ぬ唇を、ゆっくりと、正確に動かす。
『お前さまといた日々が、私の命のすべてだったよ』
音にはならなかった。だが、与作の耳には、その至高の感謝の言葉が、確かに、痛いほどの熱量を持って鼓膜に響き渡った。
「はる……? 何、言ってるんだ、おら……。待ってろ、今、今この木をへし折るから。今すぐ出す。出すから……一緒に、一緒に村へ帰るべ。」
与作が狂ったように格子を壊そうとした、その瞬間だった。はるは、足元の泥の中に転がっていた、先ほど三次が切り伏せた雑兵の、折れた刀の破片へと鋭く手を伸ばした。
「はる、それ触っちゃダメだ! 離せ! 離してくれ!!」
与作の絶叫が倉庫に響いたが、はるの決意には一瞬の迷いもなかった。再び薬の狂気が戻り、正気を失って獣の群れに身を委ねる恐ろしさから逃れるため、そして夫への愛を純粋なまま終わらせるため、はるは掴んだ錆びた刃の破片を、己の喉元へと、深く、力強く突き立てた。
ブシュッ、と鮮血が檻の隙間から吹き出し、与作の顔と胸を赤く染めた。
はるの口から声は出なかった。ただ、気管の破れた傷口からヒュー、と虚しく空気が漏れる音と、喉の奥からゴボリと血の泡が溢れる音が廃倉庫に響いた。
彼女はそのまま崩れ落ちた。溢れる血に塗れながらも、その瞳は、最期まで与作の姿を捉え続けていた。そして、微かに微笑んだまま、二度と動かなくなった。汚された我が身の恥を雪ぎ、夫への愛を純粋なまま終わらせるための、悲痛すぎる自害であった。
「はる……? おい、はる……目ぇ開ろ、嘘だべ……? 嫌だ、 はる! おらを一人にしないでくれぇ!」
与作は檻にしがみつき、声を失った獣のように、天を仰いで恫哭した。涙はすぐに枯れ果て、その両目からは血が滲み出た。
ただ真面目に土を耕し、愛する人と生きたかった。そのささやかな願いのすべてが、野晒の暴力によって、世界の理不尽によって、これ以上ないほど残酷に粉砕されたのだ。
与作の絶叫が、黒市の澱んだ空気を激しく震わせる。どれほど時間が経っただろうか。やがて与作の泣き声が消えた。ゆっくりと立ち上がった与作の顔には、もう先ほどまでの百姓の弱さは一片も残っていなかった。
その双眸から光が完全に消え去り、底なしの、漆黒の深淵のような憎悪だけが澱んでいた。悲哀の果てに、与作の魂は、敵の肉を喰らい、血をすする目的のためだけに生きる「鬼」へと完全に変質したのである。
与作は無言のまま、地面に転がっていた雑兵の刀を拾い上げた。その手を、作兵衛も三次も、かける言葉を失ってただ見つめることしかできなかった。
捨蔵は一歩前へ出ると、自身の帯にある同田貫『無骨』の鞘を、静かにカチャリと鳴らした。
朝霧が立ち込める国境の原野。悲痛な死の臭いと、狂気の仙薬の煙が混ざり合う中、二人のつわものと、二人の裏の牙、および一人の復讐鬼が、沢口村へ向けて静かに歩み出した。一味の全戦力による村の強襲が迫る中、彼らの胸中に灯ったのは、野晒毒虫一味を一人残らず屠殺するための、凄ましき復讐の炎であった。




