『第四話:沢口の泥濘、全軍激突』
一、夜気の戦慄と全軍襲来
運命の夜は、月すらも雲に隠れる漆黒の闇に包まれていた。
沢口村を囲む泥濘の地は、宮本捨蔵の冷徹な差配のもと、着実に敵を嵌めるための「泥の罠」へと作り変えられていた。百姓たちは飢えと寝不足に耐えながら泥を掘り、鍬を引く筋肉をそのまま竹槍を繰り出す力へと変えていた。だが、村を満たしているのは勝ち戦への期待などではなく、張り詰めた死の気配だった。
毎日、村の境界にある物見の木に登り、目を血走らせて見張りを続けていた百姓のひとりが、夜気の異変に気がついた。遠く山裾の闇の向こうから、不気味な地鳴りのような音が這うように近づいてくる。それは、秋雨の泥濘をものともしない、獣の軍勢の足音だった。
「来ただ……奴ら、本当に来ただぁッ!」
見張りの掠れた叫びが村に響き渡った瞬間、沢口村の空気は完全に凍りついた。
闇の向こうから現れたのは、首領・首切り喜平治率いる『野晒毒虫一味』の総がかりであった。黒市で買い付けた大量の抜身の刀をぎらつかせ、選りすぐりの軍馬五頭が泥を蹴り上げている。その後ろに続くのは、あの汚れた仙薬を吸い、黒目の開ききった徒歩の雑兵三十人。阿片によって痛覚も恐ろしさも麻痺させた狂気の群れが、村を根こそぎ圧殺せんとして殺到してきたのだ。
「各々、場を離れるな! 敵を乾いた細道へ誘い込め!」
捨蔵の地響きのような怒声が防壁を駆け巡った。
薬で頭の芯まで狂った雑兵どもが、よだれを垂らしながら抜身の刀を振り回して突撃してくる。先頭を駆ける五頭の騎馬が、捨蔵の狙い通り、あえて走りやすく残された一本の細道へと突入してきた。
「今だ! 竹槍を出せ! 声を上げろ!」
百姓たちが一斉に壕の影から姿を現し、長い竹槍の穂先を突き出して怒号を上げた。馬隊は突き出された無数の竹槍に驚き、本能的に横の開けた泥地へと逃れようと脚を踏み出す。
猛烈な速度で突っ込んできた三頭の軍馬が、その自重とともに一瞬にして首まで泥濘へと沈み込んだ。一見するとただの水溜りに見えたその場所こそ、深く掘り下げられた「人工の底なし沼」であった。脚を完全に取られ、馬共々泥の中に転倒した鎧武者どもが、泥水をすするようにもがき始める。
「やったべ! 罠に嵌まっただ!」
二、泥濘の大混戦
しかし、戦場は思惑通りには進まない。
薬で痛みを忘れた残りの雑兵どもは、仲間が泥に沈むのも構わず、泥炭地を恐れぬ『足半』の足運びで、罠の隙間を縫うようにして村の中へと強行突破してきた。
「防壁が破られた! 敵が、敵が横から入ってくるだ!」
「ひいいっ! 助けてくれ!」
不意の横合いからの強襲に、百姓たちの腰は一瞬にして抜けた。底なし沼を迂回した雑兵どもが、抜身の刀を振り下ろし、右往往左往する百姓たちを容赦なく切り刻んでいく。仕掛けの一部が外れたことと、予想を上回る敵の凶暴さに、戦場は一瞬にして敵味方が入り乱れる大混戦へと叩き落とされた。
「引くな! 槍を並べて突き出せ!」
「おのれ百姓風情が、細切れにしてやるわ!」
激しい怒号と悲鳴、肉を断つ不気味な音が闇の中で交錯する。阿片で狂った雑兵は、竹槍で腹を突き抜かれてもなお歪んだ笑みを浮かべたまま刀を振り下ろし、農民たちの首を撥ね飛ばしていった。ひとり、またひとりと、毎日ともに泥を掘った農民たちが血の海に沈んでいく。
三、赤鬼の復讐
その大混乱の中、殺気立つ泥濘を獣のように突き進む二人の漢がいた。「天秤の三次」と、はるを目の前で失い、魂魄を完全に引き裂かれて鬼となった与作である。
「はるの……はるの命を、よくも、よくもォォォッ!!」
与作は泥まみれになりながら、奪った刀を狂ったように振り回し、野伏の肉を引き裂いて進んだ。その姿は、百姓のそれではなく、妻を目の前で自害に追い込まれた怨念だけで動く肉食獣のようであった。
その血生臭い視線の先、ついにあの覆面の漢たちが姿を現した。喜平治の猟犬――『捨』と『拾』である。
覆面の奥から、鼻を鳴らす不気味な息遣いが聞こえた。はるを人買いの檻へと繋ぎ、自害せざるを得ぬ地獄へ叩き落とした張本人、弟の『拾』である。その横には、長刀『撫で斬り刀』を静かに構える兄の『捨』が冷酷な目をぎらつかせていた。
「お前らだけは……お前らだけは、八つ裂きにしても足りねえッ!」
与作の叫びとともに、沢口の裏の牙と、復讐の鬼による、双子との死闘が幕を開けた。
弟の拾が鋸刃の野太刀『餓鬼切』を大上段に振りかざし、狂ったように与作へと襲いかかった。拾の放った野太刀の一撃が、与作の左肩から胸元へと深く喰い込んだ。肉が裂け、大量の血が噴き出す。はるの後を追わせるかのような、容赦のない一撃であった。
しかし、今の与作はただの人間ではなかった。はるを失った絶望と、世界への呪い、そして孫六の仇を討つという圧倒的な怨念が、彼の肉体を無理やり立たせていた。
「……お前たちを地獄へ連れていくまでは、死ねねぇ……!」
与作は口から血を吐きながらも、怨念と執念だけでその場に踏みとどまった。
その時、混戦の中で暴れていた軍馬の蹄が、激しく泥を撥ね上げた。黒い泥水が拾の顔面へと容赦なく叩きつけられる。ほんの一瞬、拾のぎらついた目が、ねっとりとした泥によって遮られ、視界が完全に晦んだ。
拾が動揺したその一瞬の隙を、復讐の鬼が見逃すはずがなかった。与作は全身の血を燃やし尽くすような咆哮とともに、残された右腕で刀を渾身の力で真横に振り抜いた。肉を断つ湿った音が闇に響く。与作の放った怨念の一撃は、拾の太い首筋を正確に捉え、横一文字に両断していた。
首を失った拾の胴体が、泥濘の上でバタバタと無様に暴れ狂った後、その巨体がどさりと前のめりに倒れ込む。それと全く同時に、一歩遅れて転がった拾の生首が、泥の中にボトリと落ちた。
「拾ッ!? ……この百姓のクソガキがぁッ!」
弟の死を目の当たりにし、兄の『捨』が初めて取り乱して絶叫した。捨は長刀『撫で斬り刀』を狂ったように振り回し、手負いの与作の首を撥ねんと猛然と突進してくる。
その瞬間、三次の「首引き早縄」が、闇を裂いてシュルルと生き物のように端を唸らせた。突進する捨の細い首筋へ瞬時に縄が巻き付く。三次は天秤棒を支点に縄を全身の力で引き絞り、捨の身体を泥濘へと強引にねじ伏せて、その自由を完全に奪い去った。
「が、はっ……放せ、土民が……!」
「今だ、与作ッ! 喉笛を掻き切れ!」
三次の鋭い声が飛ぶ。
与作は左肩から血を流しながらも、一歩、また一歩と修羅の足取りで歩み寄った。完全に動きを止められ、泥水をすすりながら絶望に見開かれる捨の目を、与作は上から冷酷に見下ろした。
「弟が待ってる地獄に、おまえもいけ」
与作は無銘の刀を逆手に握り直すと、捨の喉笛へと容赦なく突き立て、そのまま力任せに横へと掻き切った。
喉の動脈から凄まじい勢いで噴き出した黒赤い血の雨が、至近距離にいた与作の顔面へと容赦なく浴びせかけられた。喉を断たれた捨は、激しく血の泡を吹きながら、弟の死体の横へと折り重なるように倒れ込んだ。はるを汚し、孫六を殺した二人の「猟犬」は、こうして泥の底へと完全に屠られた。
どさりと静かになった敵を見つめる与作の顔は、あまりにも異様だった。噴き出した大量の返り血によって、髪から顎の先まで、顔の皮一枚が完全に赤黒い血の膜でべっとりと覆い尽くされている。だが、その血塗られた顔の中で、二つの目だけが爛々と、狂気のように大きく見開かれていた。
溢れ出る血の涙と怨念に濡れ、ぎらぎらと光を放つその眼球の佇まいは、もはやこの世の理の外側にあった。それはもはや人間の顔ではなく、地獄から怨敵を呪い殺すために現れた「赤鬼」そのものであった。
四、首切り喜平治、登場
だが、村の悲劇はまだ終わっていなかった。
一味の最後尾から、ひときわ巨大な猛馬に乗った漢が、ゆっくりと泥濘を進んできた。首領、首切り喜平治である。
冷徹な眼光が、激戦の場を見下ろしている。奴の手には、罪人の首を刎ねるためだけに打たれた不吉な大太刀『さらし首獄門刀』が握られていた。
「無駄な真似を」
喜平治が低く呟いた瞬間、猛馬が爆発的な速度で駆け出した。底なし沼の罠を避ける確かな手綱さばき。喜平治は大太刀を軽々と振り回し、防戦しようとした農民たちの首を、まるで大根を収穫するかのように次々と切り取っていった。抜身の刃が閃くたびに、生首が宙を舞い、泥の中に転がっていく。
その圧倒的な蹂躙の前に、血塗れの大男が音もなく立ちはだかった。鉄槌の作兵衛である。
作兵衛は全身に何本もの刀傷を受け、溢れる血で襤褸を黒く染めながらも、その丸太のような腕で巨大な鉄槌をただ静かに下段に構えていた。その顔には、先ほどまでの締まりのない笑みは微塵もない。
「……おい、首切り。おらたちの泥を踏むには、ちと、その馬は上等すぎるな」
作兵衛は低く、地鳴りのような声で呟いた。次の瞬間、喜平治の『さらし首獄門刀』が作兵衛の胸元を深く切り裂く。骨が鳴る。しかし、作兵衛の足腰は微動だにしなかった。初めから己の命を勘定に入れていない、重い肉塊の佇まいがそこにあった。
作兵衛は肉が断たれる痛みに眉一つ動かさず、ただ、その太い腕の全力を鉄槌へと込めた。己の命を引き換えにする、ただ一撃のためだけに。
――骨の砕ける鈍い音が響き、猛馬が悲鳴を上げて前方に大転倒した。
作兵衛の鉄槌は、狂いなく馬の膝を粉砕していた。その凄まじい衝撃により、絶対的な首領であった喜平治の身体が、馬の背から宙へと放り出され、泥濘の中へと激しく落馬した。。
「がはっ……!」
落馬の衝撃で息を詰まらせながらも、喜平治はすぐに大太刀を杖代わりにし、泥の中から立ち上がった。己の軍勢が崩されかけた怒りを込め、喜平治が馬の誘導された先――『袋小路の屠殺場』の方へと鋭い目をやり、睨みつけた。
だが、喜平治の動きが止まった。
その袋小路の突き当たり、立ち込める土煙と雨の名残の霧の向こうに、ひとりの漢が静かに佇んでいた。深く被った竹笠。盛り上がった鋳鉄のような背中。修羅のごとき圧倒的な威圧感を放ちながら、そこに立っていたのは、宮本捨蔵であった。
五、戦鬼の一騎打ち
一瞬、戦場のすべての音が消え去り、時が止まったかのような錯覚が二人を包み込んだ。
立ち上がった喜平治は、不気味な歪みを浮かべ、大太刀を低く構えた。目の前にいる漢が、泰平の世の百姓などではなく、自分と同類か、それ以上の「戦場の怪物」であることを本能で察知したのだ。
「……誰だ、てめぇは」
「宮本捨蔵。――お前を地獄へ送るものの名だ」
捨蔵の声は、どこまでも低く、冷徹だった。
喜平治が、泥濘を蹴って相手へと向かって走り出した。
「ぬかせ!」
捨蔵は向かってくる相手を冷酷ににらみ、被っていた竹笠をばっと投げ捨てた。
その瞬間、捨蔵の体勢が異様に変化する。半身に構え、自らの重心を泥濘の寸前まで深く斜めに沈み込ませた。自らの命すら省みず、ただ前方の敵を屠るためだけに死角へと滑り込む、捨蔵必殺の構え――『帰り不帰の傾き』である。
二度と人の世には戻らぬ覚悟の戦鬼の佇まいに、喜平治の目に一瞬の戦慄が走った。
だが、喜平治は勢いを止められない。完全に悪鬼と化し、凄まじい速さで『さらし首獄門刀』を大上段から振り下ろした。戦場で幾千の人間の首を解体してきた、実戦の最高速度。一瞬で捨蔵の首を刈り取らんとする、凶悪極まりない一撃。
だが、捨蔵は退かなかった。迫り来る大太刀の直撃の軌道から、『帰り不帰の傾き』の体捌きをもって一歩斜め前へと果敢に滑り込む。
刀を抜き払いながら、自身の頭上を覆うように同田貫『無骨』の刀身を斜めに掲げた。喜平治の放った業刃を、刀の峰と側面で滑らせるように、その威力を上空へと受け流す。大太刀は空を切り、喜平治の身体は自身の突進の勢いで前のめりに傾いた。
しかし、喜平治もまた地獄を潜り抜けてきた怪物。大上段をいなされながらも強引に足を踏みとどまらせ、獲物の重さを乗せたまま、死に物狂いの二撃目を横一文字に激しく振り回してきたのだ。
捨蔵の『帰り不帰の傾き』は、その猛烈な払いをも見切っていた。横一文字の刃が自らの頭上を通過するその一瞬、捨蔵はさらに深く膝を折り、地面を這うように喜平治の懐の内側へと潜り込んだ。完全に死角に入った捨蔵の右手が、同田貫の柄を捉える。
左手で鞘を後ろへと強く引き絞ると同時に、斜め下から跳ね上げるように一気に引き抜いた。
同田貫・必殺の一閃――『無骨の逆波』。
激しく刀を振り抜いた反動で、喜平治の身体は急に止まれない。自ら進む勢いのまま、逆巻く波のごとく跳ね上がった刃へと、その分厚い腹当を、そして五臓六腑を内臓ごと深く断ち割る刃へと、自らの肉体を滑り込ませる形となった。
「――が、ふっ……!?」
喜平治の動きが完全に止まった。大太刀を握った姿勢のまま、目を見開いた。
「う、うぁ……」
喜平治はよろめいた。血の気が一気になくなり、足元ががくがくと震え始める。その目の前で、捨蔵は刀の血を払うこともせず、静かに、そして一切の慈悲のない冷酷な顔で佇んでいた。
「な、き、貴様っ……」
血の泡を吐きながらよろめく喜平治に対し、捨蔵はゆっくりと同田貫『無骨』の鈍い銀光を突きつけた。
「この刀には、貴様らに理不尽に毟り取られ、殺されていった死人たちの怒りが、これ以上ないほどに詰まっておる。五臓六腑、全身で味わうがいい」
捨蔵は冷酷に告げると、よろめく喜平治の肉体を、無慈悲に何度も何度も斬りつけた。肉を断ち、骨を砕く鈍い音が袋小路に響き渡る。
そして死に物狂いの抵抗を完全にすり潰す最後の一撃――『無骨』が喜平治の太い首筋を強烈に真横に薙いだ。首領の生首が泥の中に転がり、捨蔵はその髪を無造作に掴み上げて天へと高く掲げた。腹の底からの、地響きのような怒声が戦場全体へ轟く。
「野晒毒虫一味の首領、首切り喜平治! ――この宮本捨蔵が打ち取ったぞ!!」
その声は、混戦が続いていた村の各所へと響き渡った。
「首領が……かしらが死んだ!?」
「かしらが、撥ねられたッ! 退け、退けッ!」
大将を討ち取られ、絶対的な恐怖の象徴を失った野党どもは、一瞬にして総崩れとなり、怯え慌てふためいた。そこへ、親友を殺され、女たちを奪われていた農民たちの、溜まりに溜まった怒りが爆発した。
「突けッ! 突けッ! 生かして返すなッ!」「孫六たちを、生首にした野郎どもだッ……! 息の根止めろッ!」「残党狩りじゃ! 一人残らず泥の底へ沈めて殺せッ!」
捨蔵の怒声に導かれるように、百姓たちは長い竹槍を揃え、逃げ惑う雑兵どもを底なし沼へと容赦なく追い込み、次々と突き立てていった。薬の力が切れ、ただの哀れな敗残兵となった野党どもは、怒り狂った農民たちの前に、なすすべなく全員が泥濘の中へと突き殺され、沢口の泥の底へと沈んでいった。
激しい戦いの跡には、ただ、夜明かりの霧と、泥に混ざる大量の血の匂いだけが重く立ち込めていた。




