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『第二話:鬼の巣窟、泥濘の要塞』

一、 泥溝の軍議と戦鬼の智慧


ザァザァと地を穿つ秋雨は、夜が更けてもなお勢いを増すばかりだった。


江戸から沢口村へ戻った与作、あるいは前金の白米三升と引き換えに、使い込まれた業物、同田貫『無骨』を帯に差した浪人・宮本捨蔵を迎え、長百姓・茂兵衛のあばら家で緊急の軍議が開かれた。


室内を照らすのは、油の尽きかけた灯火が放つ、風に揺れる薄暗い光だけである。集まった男たちの顔は、誰もが恐怖と焦燥で土気色に変色していた。外を叩く激しい雨音が、あばら家の隙間から冷たい風とともに吹き込み、室内の緊迫した沈黙をいっそう重く沈み込ませる。押し殺した息遣いの中、男たちがこれまでに周辺の大名領の境界や、殺された荷運びの残した痕跡から必死に集めてきた断片的な恐怖の噂を、震える声で互いに吐き出し始めた。


「奴ら、ただの野盗じゃねえ……」


最初に口を開いたのは、村の境界を見張っていた若い農民だった。その肩は雨と恐怖で激しく震えている。


「隣村の奴が、山を降りてくる奴らを遠目に見たんだ。どいつもこいつも、血痕まみれの腹当を素肌に直接紐で縛って、動きやすそうな裁着袴を穿いてたって話だ。身軽だが、ありゃ完全に戦い慣れた者の格好だべ」


「ああ、荷運びの死体が転がってた周りの足跡も、ありゃ妙だったな」


別の男が、己の泥まみれの拳を握り締めながら言葉を継いだ。


「普通の草履(ぞうり)の足跡(あしあと)じゃねえ。泥地でも絶対に滑らねえように、爪先と踵(かかと)を剥き出しにした戦(いくさ)用の『足半(あしなか)』の編み目だった。氾濫を繰り返すこの泥炭地を、奴らは何の苦もなく走り回れるってことだ。陣中の泥水をすすってきた、筋金入りの人殺しだ……」


村人たちが口々に怯えを伝播させていく。あばら家の中に、目に見えぬ死の影が濃くなっていく。その時、与作の幼馴染みであり一番の親友でもある若き農民、孫六が、己の顔を両手で覆い、裏返った声を絞り出した。


「首領(かしら)の喜平治って漢は、戦場で人間の解体ばかりをやってきた元足軽大将で、人の心を持たねえ怪物だって噂だ。奴の腰にあるのは、罪人の首を撥ねるためだけに打たれた、不吉極まりねえ大太刀『さらし首獄門刀』。肉を断ち、骨を砕くことしか考えてねえ、分厚くて重てえ業物(わざもの)だそうだ。そんな刀で狙われたら、おらたちの首なんて大根みてえに一太刀で飛ばされちまう!」


「ああ……それに、おぞましいのは首領(かしら)だけじゃねえんだ……」


座の奥にどっしりと腰掛けていた長百姓の茂兵衛が、苦虫を噛み潰したような顔で煙管を持ち替えた。深く刻まれた皴の奥にある濁った眼が、不気味に揺れる灯火を反射している。


「喜平治の猟犬、覆面の双子……捨(すて)と拾(ひろい)だ。どこぞの郷村で『畜生腹』と忌み嫌われ、生きたまま間引かれた双子だって噂だ。宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)にも載らねえ、生まれ落ちた時からお上(かみ)の法に捨てられた『帳外(ちょうがい)』の化け物どもだ……」


「百姓を……骨の髄まで、呪うていやがるんだ」


別の年配の百姓がガタガタと膝を震わせ、祈るように両手を合わせた。


「あやつらは人間(ひと)じゃねえ、自分たちをゴミのように捨てた田舎への呪いだけで動いとる鬼だ。兄の捨が長刀『撫で斬り』をぶん回せば、おらたちの身体なんぞ一太刀で両断されておしまいだ。ほして弟の拾は、鋸みてえに刃の欠けた野太刀『餓鬼切』と薄汚ねえ早縄を使いよって、若いおなごを容赦なく拐(さらう)っていく……。おらたちの身代をすべて剥ぎ取って、村ごと根減り(絶滅)に殺し尽くす気なんじゃ……!」


恐怖とともに吐き出された断片的な情報が、ひとつの凄惨な実像となって、あばら家の中に立ち込めた絶望の澱をいっそう色濃くした。誰もがその圧倒的な凶悪さに声を失い、ただ頭を抱えて震えるしかなかった。


その時、それまで壁に背を預け、ただ黙って百姓たちの話を聞いていた宮本捨蔵が、ずしりと重い脚を踏み出した。


丸太のような太い腕が動き、座の真ん中へ、泥のついた絵図面を無造作に広げる。捨蔵が深く被っていた竹笠を脱ぎ捨てると、そこには泰平の世で糊口をしのぐ笠売りの姿はなかった。太い首筋の刀創をぎらつかせ、修羅場くぐりの戦鬼としての冷徹な知略が、その双眸に宿っていた。


「奴らの強みは馬の脚と、その駆ける速さ、それから足半(あしなか)に任せた泥の上での確かな足運びだ。ならば、その脚をへし折ればいい。この沢口の周りは、水が溢れるたびに肥えた泥となる行き所のない底なし沼だな。ならば、村の土をくり抜き、地形そのものを奴らを搦(から)め捕る泥の檻に普請(工事)する」


捨蔵の低く地響きのような声が、あばら家の空気を一瞬で支配した。


捨蔵は図面の一点を、節くれ立った太い指で強く指し示した。


「奴らの馬隊を、あえて走りやすいと見える乾いた細道へと誘い込む。その行き止まりを、左右から挟み込んだ『袋小路の屠殺場(とさつば)』にするのさ。道の脇にはな、一見ただの泥水に見えるが、一度(ひとたび)足を踏み入れれば二度と這い上がれぬ人工の底なし沼を深く穿つ。百姓がまともに戦うなどと考えなくていい。竹槍を構え、声を枯らして喚き、馬を脅してその泥沼へ叩き込め。獣が足を取られ、甲冑の重みで無様に落馬し、泥水をすする木偶に成り下がれば――そこから先は、俺の刀が始末する」


敵の服装、装備、および心理的な特徴までも瞬時に噛み砕き、そのすべてを逆手に取った冷酷無比にして緻密な軍略。


百姓たちは息を呑み、捨蔵の顔を見つめた。お上の法にも頼れず、ただ毟り取られるのを待つだけだと思っていた自分たちに、この戦鬼は戦う術を示したのだ。これなら勝てるかもしれない。絶望の室内に、かすかな希望の灯火が揺らめいた。


――だが、その瞬間だった。


ザァッ、と激しい雨音を力任せに切り裂くように、村の入り口の方から見張りの若者の悲鳴が夜気を引き裂いた。


「う、動いた! 奴ら、本当に来やがったぁッ!」


満月の夜を待たず。まだ防衛の備えどころか、百姓たちの統率すら始まっていない、最悪の間合いだった。野晒一味の第一陣――徒歩の雑兵十人、兵糧を奪うための馬二頭による凶悪な夜襲が、軍議の最中を突いて始まったのである。


二、 未熟なる初陣


「狼狽えるな! 」


捨蔵の地響きのような怒声があばら家を震わせ、男たちの腰を無理やり立たせた。引き抜かれた同田貫『無骨』の鈍い銀光が、薄暗い室内で怪しく閃く。捨蔵は戸を蹴り開け、凄ましき雨が叩きつける闇の中へと真っ先に飛び出していった。


外は文字通りの混迷だった。闇の中から、ドタドタと不揃いな蹄の音と、下卑た勝ち鬨が響いてくる。一味の雑兵どもは、抜身の刀を翻し、百姓たちのあばら家へ次々と火を放とうと松明を掲げて迫っていた。それは、村の出方と力を測るための、冷酷な夜襲であった。


「お、おらの家が燃されるだ!」


「ひっ、刀、刀を持った奴が来る!」


受けて立つ構えも、竹槍の正しい構え方すらもまだ未熟な段階の百姓たちは、実戦の圧倒的な暴力に直面し、ただ恐怖に身をすくませて右往走右往するばかりだった。


だが、与作だけは違った。すぐ裏手のあばら家には、腹の大きな妻・はるが隠れている。ここで退けば、妻も、まだ見ぬ我が子も理不尽に殺される。その狂おしいほどの使命感が、与作の恐怖を塗りつぶした。


「うおおおおおっ! こっちさ来るなっ!」


与作は泥水を激しく蹴り上げ、未熟な手つきで竹槍を構え、目の前の雑兵へと突進した。一味の雑兵は、素肌に腹当を巻いた薄汚い身体を揺らし、与作のへっぴり腰の突進を鼻で笑った。


「ばぁかめ、百姓が大人しく首を差し出せ!」


雑兵が刀を大きく振り下ろしようとした瞬間、与作のすぐ背後から、鼓膜を震わせる捨蔵の冷徹な指揮が飛んだ。


「突くな、引け! 毎日鍬を引くように、体重を後ろへ預けて引き突け!」


その声が、与作の身体に染み付いた百姓としての本能を呼び覚ました。与作は力任せに前へ突っ込むのをやめ、足場を固めてぐっと体勢を後ろへ引いた。


その瞬間、与作を斬ろうと踏み込んだ雑兵が、激しい秋雨でぬかるんだ泥に足を取られ、前のめりに体勢を崩した。そこへ、引いた反動を利用した与作の竹槍が、鋭く突き出される。


グサッ、という鈍い感触とともに、尖らせた竹の穂先が雑兵の喉笛へ深く突き刺さった。


「ガ、あ……ッ!」


雑兵は血の泡を吐き、恐怖に見開かれた眼球を凝固させながら、泥水の中へと崩れ落ちた。ブシュッ、と生温かい血が雨の中に吹き飛ぶ。


「与作、本当に突きやがった!」


泥の向こうから叫んだのは孫六だった。孫六もまた、震える手で竹槍を握り締め、必死に声を張り上げて別の雑兵を牽制していた。与作の突きが決まったのを見て、孫六の顔に一瞬の安堵が走る。


「怯むな! 槍を並べろ! 泥の深みへ追い込め!」


捨蔵の容赦ない怒声が百姓たちの背中を押す。


捨蔵自身は、馬に乗って村を蹂躙しようとした雑兵の元へ一瞬で肉薄していた。馬が泥に足をもたつかせた瞬間、同田貫『無骨』が牙を剥く。凄まじい力で放たれた一撃は、雑兵の脚を馬ごと叩き斬り、さらに落馬したもう一人の首を一瞬で撥ね飛ばした。


戦鬼の圧倒的な強さと、死に物狂いになった百姓たちの竹槍の数に圧され、足元の泥濘に手を焼いたのぶせりどもは、予想外の抵抗に小さく呻いた。


「おい、この泥じゃ埒が明かねえ! 一度引くぞ!」


頭領格の雑兵が叫び、たまらず刃を引いた。一味の第一陣は、闇の向こうへと撤退していく。


「おらたちの勝ちだ……追い返しただ!」


孫六が声を上げ、与作の肩を叩こうと駆け寄った。辛うじて初陣を凌ぎ切ったのだと、誰もが胸をなでおろしかけた。だが、それは勝利などではなかった。彼らは、野晒毒虫一味の本当の恐ろしさを、まだ何も知らなかったのだ。


三、 引き際の牙


「へへっ、しくじった奴らは放っておけ」


低く、ねっとりとした不気味な声が、引き上げる雑兵たちの足音とは異なる方向から響いた。


村の騒乱の真っただ中、引き際のどさくさに紛れて、影のように村の奥へと深く侵入していた漢がいた。


頭に汚れた手拭いを巻き、覆面の間から百姓への激しい憎悪に満ちた目をぎらつかせる漢。野晒毒虫一味の首領・喜平治に飼われた双子の片割れ、拾(ひろい)である。


左腕にだけ鉄板入りの無骨な小手を装着し、腰には鋸のように刃こぼれした不気味な野太刀『餓鬼切』を帯びている。だが、いまその手に握られていたのは、刀ではなかった。太い油縄で編まれた、不気味に蠢く捕縛縄である。


「いやあああ! 誰か、誰か助けてっ!」


あばら家の陰から、引きずり出される女の悲鳴が上がった。与作の心臓が、恐怖で跳ね上がった。


「はるっ!」


与作が狂ったように叫び、泥水を撥ねて駆け出したときには、すでにすべてが遅かった。


シュルル、と雨音を割って放たれた捕縛縄が、逃げ惑うはるの細い足首に、まるで意志を持つ生き物のように正確に絡みついた。


「いやぁぁ! 与作! 与作、助けてぇ!」


「ひっ、かかった。泥を這いつくばってろ」


覆面の奥で、拾(ひろい)が下卑た笑みを浮かべた。自分たちをゴミのように捨てた農村の、その平穏を徹底的に破壊することに、至上の喜びを感じている歪んだ笑いだった。


拾(ひろい)は百姓への深い怨念が籠もった凄ましき腕力で縄を一気にたぐり寄せ、腹の大きなはるを容赦なく泥の中に引きずり倒した。


「はるを離せ! この人でなしっ!」


与作を庇うようにして、孫六が竹槍を構え、拾(ひろい)へと突き進んだ。


「土を掘るしか能のねえ百姓風情が、調子に乗るな」


拾(ひろい)の目が冷酷に細まる。孫六の突きを左腕の鉄板小手でいとも容易く弾き飛ばすと、手首を鋭く返した。シュッ、と放たれたもう一本の縄が、今度は孫六の首筋と両腕を瞬く間に絡め取った。


「が、はっ……与作、逃げろっ、早く……!」


孫六は激しく抵抗したが、拾(ひろい)の容赦ない力で泥の中に引き倒され、引きずられていく。


拾(ひろい)の背後の闇から、待機していた二頭の馬隊が躍り出た。拾(ひろい)は手際よくはるの身体を掴み上げると、暴れる彼女を無造作に馬の背へと放り込み、さらに縄で縛り上げた孫六や、逃げ遅れた村の若い女数人を、猟犬が獲物を絡め取るような手慣れた縄術で次々と拉致していった。


「はる! 孫六! 待てぇっ! 」


与作は泥水に顔を突っ込みながら、必死に彼らの足跡を追いかけ、手を伸ばした。だが、馬隊の激しい蹄の音は、はると孫六たちの悲痛な叫び声とともに、激しい秋雨の音の向こうへと瞬く間に遠ざかっていく。


残されたのは、冷たい雨に打たれて黒く煙るあばら家の焼け跡と、はるが引き裂かれた際に残していった、泥に汚れた衣の切れ端だけだった。与作はそれを血の滲む手で握り締め、泥水をすすりながら絶叫した。


四、 要塞の完成と生首の道標


「すぐに追うべ! 今すぐ奴らの根城(ねじろ)さ殴り込むんだ!今行かねえと……はるも、孫六も、みんななぶり殺されちまうッ!」


翌朝、与作は両目から血涙を流し、狂乱状態で捨蔵の胸元に掴みかかろうとした。その爪が、捨蔵の木綿の単衣を打ち裂く。


だが、捨蔵の鋳鉄のような太い腕が、意気消沈する与作の身体を冷酷に突き放した。与作は泥の中に仰向けにひっくり返る。


「今行けば全滅だ。奴らは必ずまた来る。次に来るときは、三十頭の本隊、および首領の喜平治と、あの長刀を操る双子の兄、捨(すて)が揃ってやってくる。今の状態で向かえば、お前たちは戦う前に全員がなぶり殺しにされる」


「じゃあ、このまま見殺しにしろってえだか! はるの腹には、おらの子供がいるんだぞ! 孫六だって、おらを助けようとして……! お前はおらの米を食っておきながら、ただ見てるだけじゃねえかッ!」


与作の絶望の叫びに、捨蔵は反論しなかった。ただ、竹笠の奥の昏い双眸で、泥まみれの若者を見下ろし、低く言った。


「村を城にしろ、と言っている。奴らを確実に殺す檻を作るんだ。それが、あの女たちや友を救う唯一の道だ」


捨蔵は動揺し、今にも崩壊しそうになっている村の連中をその圧倒的な覇気と力でねじ伏せ、前夜の軍議で発案した大がかりな土木工事をただちに開始させた。すぐにでもはるや孫六を助けに行きたい。その狂いそうな心を、百姓たちは死に物狂いで抑え込み、鍬と泥鍬を握り締めた。


それから数週間、沢口村は不気味な要塞へと変貌を遂げていった。


氾濫を繰り返す無主の泥炭地。百姓たちは捨蔵の容赦ない指揮のもと、指の皮が剥け、爪から血を流しながら土を掘り進めた。一見するとただの水溜りに見えるが、一歩足を踏み入れれば自重で底なしに沈み込み、二度と這い上がれない人工の底なし沼が、村を囲むように幾重にも配置されていく。敵の馬隊が本能的に選びたくなる、乾いて走りやすそうな細い一本道だけをあえて残し、その先を、周囲を深い泥の壁で遮断した袋小路の屠殺場へと誘導する完璧な構え。数週間から一ヶ月近くにおよぶ過酷な土木工事の末、沢口村の地形そのものが、巨大な殺人装置へと作り変えられた。


同時に、百姓たちの戦闘訓練も血の滲むような厳しさを極めた。連日、捨蔵の怒声が泥濘に響き渡る。


「お前たちが奴らを殺す必要はないと言ったはずだ! 怯えて腰を抜かす暇があるなら、声を限りに叫び、長い竹槍を突き出して馬の目を晦ませ。奴らを底なし沼へ追い込め!」


農民たちが日々繰り返してきた鍬を引く身体の動きが、捨蔵の指導によって、敵の体勢を崩して喉笛を穿つ「引き突き」の技へと形を変えていく。ただ毟り取られるだけだった弱者たちが、戦鬼の手によって、静かに牙を研ぎ澄ませていった。


普請(工事)の開始から一ヶ月が経とうとしていたある朝。ようやく執拗な秋雨が上がり、冷たい朝霧が立ち込める村の入り口だった。石地蔵の足元に、それが並べられていた。


拉致され、野晒一味の根城でなぶり殺された五人の村の男たちの生首だった。


地蔵の台座を取り囲むように、泥の中に五つの頭部が不揃いに突き立てられている。どれも髪を掴んで引き回された形跡があり、泥と乾いた血にまみれて黒く凝固していた。


一人の首は、両耳が根元から削ぎ落とされ、切り口に群がった羽虫が朝霧の中で不気味に羽音を立てている。また一人の首は、拷問の凄惨さを物語るように、全ての歯が叩き折られて割れた唇から剥き出しになり、裂けた顎がだらしなく垂れ下がっていた。眼球を抉り取られて黒い空洞となった眼窩からは、冷たい朝露が涙のように滴り落ち、泥水を汚している。


そしてその凄惨な五つの生首の最前列、ひときわ大きく見開かれた眼球を凝固させて転がっているのが、あの顔であった。かつて与作とともに笑い、ともに泥にまみれ、夜襲の夜には与作を庇って縄に倒れた、親友・孫六の生首であった。


孫六の頭部は、首筋の皮をむしり取るようにして、錆びた刃で何度も何度も抉り斬られていた。苦痛のあまり舌を噛み切ったのだろう、紫に変色した舌の端が、血の泡とともに固まった唇の隙間から不気味に飛び出している。生前のみずみずしさは見る影もなく、肌は土気色を通り越してドス黒く腐敗し始めており、死の直前の恐怖がそのまま表情の歪みとなって凍りついていた。


これ見よがしに築かれた、凄惨極まる「五つの生首の道標」。


一味からの、容赦のない宣戦布告であった。


「ひっ……あ、あ……」


与作の喉から、ひび割れた呼吸が漏れた。足の力が抜け、泥の中に膝から崩れ落ちる。石地蔵の足元に転がっているのは、親友の首から上だけだった。現実が頭を拒絶していた。触れてはいけないものを見るように、与作の手が小刻みに震える。恐る恐る伸ばした指先が、孫六の冷え切った頬に触れた。生気が完全に失われたその肌の冷たさが指を伝った瞬間、与作はびくりと身体を跳ね上げた。


「孫、六……お前、なんで、こんなところで……」


ぽつり、と漏れたのは、行き場のない戸惑いだった。抱きしめることすらできない。身体がないのだ。与作は泥まみれの親友の髪を狂ったように掴み、その頭部を己の胸へと抱き寄せた。首の断面から滴る乾いた血が、与作の衣を黒く汚していく。


「なんでだ……」


抱きしめた首に、己の涙が止めどなくこぼれ落ちる。


「……なんでおらたちが、こんな目に遭わなきゃならねえんだ」


声が次第に太くなり、震えが怒りの熱へと変貌していく。与作は空いた片手で泥を強く掴み、爪が剥がれんばかりに黒い土を食い込ませた。


「おらたちは、ただ真面目に土を耕して……飯を食って、静かに生きてえだけだったんだ。汗水垂らして、泥にまみれて、ただ生きてえだけだったのに……!」


抱きしめた親友の頭部が、与作の涙で濡れていく。その無慈悲な死が、与作の肚の底に燻っていた理不尽への呪いを爆発させた。


「なのに、なんでだッ!」


与作は孫六の首を抱いたまま、天を仰ぎ、血の涙を流しながら絶叫した。


「なんで野伏にはるを奪われ、お上に米を毟り取られ……孫六までこんな姿にされなきゃならねえんだ! ……この世は、なんでこんなに理不尽なんだッ!!」


胸を掻きむしるような、魂の絶叫だった。お上の過酷な年貢に怯え、帳外の隠し田を作り、今度は野伏の圧倒的な暴力に蹂躙される。ただ生きようとする弱者が、なぜこれほどまでに踏みにじられ、すべてを奪われなければならないのか。


その慟哭を、宮本捨蔵はただ静かに見つめていた。泥の中に座り込む与作の姿を見つめる捨蔵の竹笠の奥、かつて平時の世の生温かい泥に埋もれ、笠を編みながら死にかけていた戦鬼の眼に、昏く、凄ましき闘志が完全に灯った。


捨蔵は無言のまま、ゆっくりと帯から同田貫を引き抜いた。錆びひとつなく磨き上げられた武骨な刀身が、立ち込める朝霧の中で冷たく、妖しく閃く。かつて戦場で幾千の命を奪ってきた業物が、再び血を求めて鳴いているようだった。


「おぬしの思い、しかと受け取った」


捨蔵は、孫六の首を抱いて泣き叫ぶ与作の肩を、その大きな手で強く、厳かに叩いた。その手の重みは、これまでの笠売りの頼りなさではなく、すべてを背負って修羅場に立つ武者の重みだった。


「――この刀で答えよう」


その地響きのような誓いとともに、戦鬼の牙が完全に剥かれた。決戦を前に、沢口村の空気は、ただの恐怖から、血を求める戦慄へと変わっていった。理不尽な略奪者どもを泥の底へと引きずり下ろすための、戦鬼の戦いが、いま幕を開けようとしていた。

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