『第一話:血の道標と戦鬼』
一、 境界の情念
ザァッ、と地を穿つ音が闇を引き裂いた。
泥水のような秋雨が、国境のぬかるみを叩いていた。ドスドスと地面を泥に変えてゆく重い雨足が、夜の闇を凶暴に塗り潰し、男たちの皮膚を冷たく刺す。その執拗な雨音そのものが、逃げ場のない緊迫感を煽り立てていた。
関ヶ原や大坂の陣から星霜が移り、天下は徳川の世となっていた。江戸の街には泰平という名の生温かい泥がたまりはじめていたが、それは同時に、お上の冷徹な「法と検地」という巨大な歯車が、戦国の残滓をすり潰してゆく息苦しい時代の始まりでもあった。
だが、二つの大名領が不気味に錯綜するこの山深い国境の袋小路に、その村はあった。
尾根を一つ越えれば別の大名領、谷を一つ挟めばまた別の大名の支配地。支配権の境界線が互い違いに入り組み、双方の藩の役人が領地侵犯を恐れて容易に踏み込めない、公権力の空白地帯。陽光も、お上の法も届かないその場所に、検地帳に載らぬ「帳外」の隠し田があった。氾濫を繰り返す無主の泥炭地を、百姓たちが特殊な泥鍬と執念だけで切り拓いた、血の滲むような新田である。
ひとたびお上に知られれば、年貢の重課に留まらず、最低限の自衛のために隠し持った戦国期の槍や刀の不法所持までが露見する。そうなれば、藩境の曖昧な縄張りを隠れ蓑にしていた罰として、五人組の連座により、女子供を含めた村ごと磔か釜茹での死罪を免れない。お上の冷徹な法による圧殺を拒むならば、秘密を守り抜くしかない。それが、この袋小路の宿命を背負った『沢口村』だった。
激しい雨音を切り裂くように、短い悲鳴が上がった。
「ひどいもんだ。人間の首が、大根のように転がっていやがる」
村の入り口にある、石地蔵の足元にそれはあった。集まった村の連中が、激しい雨音に声をかき消されぬよう、押し殺した声で息を呑む。投げ込まれた首は、村の荷運びだった。肌は土気色に乾き、恐怖に見開かれた眼球が固まっている。割れた口の奥には、血に汚れた紙片が強引にねじ込まれていた。若者が竹べらで引き抜いた紙片に、墨文字が滲んでいた。
『野晒毒虫一味』
その文字が、村の空気を凍らせた。雨の冷たさとは違う、死の匂いがそこにあった。大坂の陣から二十年近く。改易で主家を失って都市を追われ、人身売買や武器密売の闇に手を染めて野盗化した、凶悪無比の戦国崩れである。その手紙の中身は簡潔だった。
――次の満月の夜までに、米十石と、若い女子を三名差し出せ。さもなくば、村を一人残らず屠殺し、峠の道沿いに生首の道標を築く。
交渉の余地はなし。逆らえば皆殺し、従えば冬を越せずに飢え死に。大名領が錯綜しているがゆえに、どちらの藩の公権力も「関わりなし」として動いてはくれない。その身動きの取れぬ足元を見透かすように、山から吹き下ろす野伏共の容赦ない暴力が、いま村を貪り尽くそうとしていた。激しい秋雨の音だけが、重く冷たい沈黙を刻み続けていた。
二、 泥溝の軍議
その夜、長百姓・茂兵衛のあばら家で軍議が開かれた。
室内の灯火は暗く、深い皴の刻まれた茂兵衛の横顔を不気味に浮かび上がらせている。老人はただ黙って煙管をくゆらせていた。
「このまま女も食い物も奪われてみろ、俺たちは冬を越せずに飢え死にするだけだ。どうにかしねえと!」
声を荒らげたのは、若き農民、与作だった。血が混じるような必死さが、その眼をぎらつかせていた。
「どうにかするて、どうするだ。相手はあの喜平治の一味だぞ」
別の男が怒鳴り返した。顔は恐怖で土気色に変色している。
「三十頭からの馬隊だ。奴らが馬で突っ込んできたら、俺たちが竹槍構えたところで、一瞬で踏みつぶされてなぶり殺しにされるのが関の山だ!」
男たちは頭を抱え、議論は堂々巡りを繰り返した。百姓は戦の専門家ではない。誰もが境界線の狭間で恐怖にすくみ、あばら家の中は絶望の澱が溜まっていった。
茂兵衛は動かなかった。煙管の灰を、トントンと静かに盆に落す。その乾いた音が、男たちの口を噤ませた。長百姓は深く濁った眼で与作をじっと見つめ、それから小さく首を横に振った。お上にも頼れず、村単独の力では抗えぬという、冷徹な無言の肯定だった。
与作は唇を噛み切り、座を蹴るようにして身を乗り出した。
「おら、江戸へ行って、本物のつわものを連れてくる。金も、村の米も、あるだけ出す!」
誰も止めなかった。与作はそのまま闇の雨の中へと飛び出していった。
三、 江戸の底、笠売りの漢
土砂降りの雨が、江戸の盛り場を白く煙らせていた。
与作は泥に塗れ、何日も江戸の八百八町、貧民窟を這いずり回っていた。足の裏の肉が裂けて血が滲んでも、歩みを止めることはできなかった。背中には、村の窮状を救うためのわずかな路銀と、汗と雨を吸ってずっしりと重い、米の入った小さな布袋を必死に背負い続けていた。
「頼む、戦を知ってるお侍はいねえか。修羅場くぐった、腕の立つ浪人を探してるんでさ」
悪僧の集まる博賭場、闇商人がたむろする河原、場末の怪しげな酒場。与作はなりふり構わず頭を下げ、冷たい視線と罵声を浴びながら、江戸の暗がりに転がる情報を貪り集めた。路銀はとっくに底をつき、握りしめた村の通行証だけが手元に残っていた。
神田の場末。三日三晩、這いずり回った果てに、闇の口入屋から得た名が、ひとつだけあった。
与作は泥水を蹴り、異臭の漂うどぶ川沿いの路地へ踏み込んだ。ひさしが腐り落ちかけた、長屋の狭間である。吹き付ける雨交じりの風の向こうから、規則正しい音が聞こえてきた。
シュ、シュ、と乾いた、しかし重い音が、雨音を割って響いている。
音を頼りに泥濘を歩むと、ひときわ暗い軒下へ突き当たった。そこに、その漢はいた。冷え切った長屋の軒先。目の粗い竹笠を並べ、黙々と竹を削り、糊を引く大柄な漢がいた。
丸太のような太い腕、盛り上がった背中の筋肉が木綿の単衣を押し上げている。太い首筋には、かつて深く刻まれた刀創が不気味に傷跡をなぞっていた。
元・戦国武者――。
宮本捨蔵。
泰平の世において仕官の道もなく、内職で糊口をしのぐ浪人だった。だが、その身幅の厚い体躯は鋳鉄のようだった。与作はその鉄のような佇まいに気圧され、濡れた笠を脱いで、深く頭を下げた。
「お侍様、突然お騒がせして、お許しくだせえ。……おら、国境の沢口村から来た、与作と申す百姓です。お侍様の……お侍様のそのお強い腕を頼って、この江戸の底まで這入ってきました」
捨蔵は手を止めない。削り出される竹の音だけが響く。与作はごくりと唾を呑み、言葉を絞り出した。
「おらの村に、生首が落されました。口に米を詰められて、地蔵の足元に転がってた。手紙には『野晒毒虫一味』と書いてありました。次の満月までに、米と、女子を三名差し出せと。逆らえば村を一人残らず屠殺するって、そう書いてあった。おらの妻は、いま腹に子供がいるだ。このままじゃ、みんな殺されちまう」
そこまで一気にまくし立てると、与作は泥水に膝を突き、その場に頭を擦りつけた。
「野晒毒虫をぶっ潰してくれたら、奴らの宝はみんな山分けにします。金も、米も、望むもんは何でも出す。頼むです、お侍様、おらの村を助けてくだせえ……!」
捨蔵は竹を削る手を止めず、ただ黙って聞いていた。竹笠の奥にある双眸は昏かった。
「断る」
低く、地響きのような声だった。
「俺は刃を捨てた。平時の世で、わざわざ死地に赴く理由は今の俺にはない。」
冷徹な拒絶だった。与作はなおも食い下がろうとしたが、捨蔵の放つ殺気に圧され、それ以上は言葉にならなかった。与作は肩を落とし、場末の安宿へと引き上げていった。
四、 無言の契り
捨蔵は削った竹をまとめ、長屋の庵へと戻った。
薄暗い部屋の真ん中には、小さな膳が置かれていた。大根の切れ端が浮いた薄い粥と、出がらしの番茶。それが夕飯のすべてだった。病弱な妻の志乃が、痩せ細った身体で、甲斐甲斐しく飯の用意をしていた。紐結びの内職のせいで、その指先は赤く荒れ果て、爪の端からは血が滲んでいる。
「お帰りなさいませ、貴方」
志乃はいつものように微笑んだ。貧苦のなかにあっても、その佇まいには武家の娘としての凛とした気品が失われてはいなかった。
捨蔵は何も言わなかった。膳の前に座った。粥を口に運ぶ。味のしない、水のような飯だった。
志乃の細い首筋、折れそうな手首を見る。このままでは、遠からずこの妻を飢え殺すことになる。かつて戦場で幾千の敵を屠ったこの腕がありながら、泰平の世の片隅で、ただ笠を編んで妻の命が削れてゆくのを眺めている。その事実が、捨蔵の肚の底を激しく抉った。一度でいい。志乃に、濁りのない白い米を腹一杯食わせてやりたい。
捨蔵は箸を置いた。立ち上がり、埃を被っていた、同田貫――『無骨』と忌まれた、あの業物を掴んで帯に差した。
「貴方……?」
志乃が小さく声を漏らす。捨蔵は振り返らず、ただ一言だけ言った。
「仕事を仕入れてくる。少し、出てまいる」
土砂降りの雨の中、捨蔵は迷わず歩いた。与作が身を寄せる安宿の戸を、無造作に押し開ける。部屋の隅で膝を抱えていた与作が、驚愕して顔を跳ね上げた。捨蔵はその前に、ずしりと太い脚を踏み出した。
「昼の話、引き受けよう」
地響きのような声に、与作は息を呑んだ。
「ただし、前金に米を三升だ。今すぐここに用意しろ」
使い込まれた業物を、再び血の海へと引き摺り下ろす。それが、つわものが下した決断だった。
その言葉を待っていたかのように、与作は震える手で、背負い続けていた泥塗れの布袋をほどいた。
「米なら、ここにありますだ!命がけで背負ってきた三升の白米でさ。お侍様、これで、これで受けてくだせえ……!」
与作が必死に差し出したその袋には、百姓たちの血と汗の染み込んだ、確かに三升の真っ白な米が詰まっていた。
翌朝、その米が捨蔵の庵の土釜で炊き上がった。真っ白な湯気が、冷え切った部屋を柔らかく包み込んでいく。捨蔵は土釜を見つめたまま、低く言った。
「国境の村へ行く。野伏共を叩き潰す仕事だ」
命を売る、血生臭い死地への旅路。
志乃は、否定も肯定もしなかった。ただ静かに、夫の背中を見つめ、小さく頷いた。夫が己のために再び戦鬼へ戻ることを、その宿命を、ただ無言で肚に収めた。
小さな膳を挟んで、二人は向かい合って座った。茶碗に盛られた、きらきらと光る白米。二人が一緒になってから、このような上等な米を食えることなど、ただの一度もなかった。
二人は、何も言わなかった。箸を動かし、米を口に運ぶ。
ハフ、ハフ、と米を噛み砕く音だけが、静かな部屋に小さく響く。言葉など必要なかった。それは互いの命を分かつ儀式であり、魂の交歓であった。静かに頷き、白米を噛みしめる。それだけで、互いの情愛と覚悟のすべてが、痛いほどの熱量で身体の芯へと染み渡っていった。
まだ東の空が白みきらぬ内、江戸は深い霧に包み込まれていた。捨蔵は『無骨』を帯に差し、己が編んだ竹笠を深く被った。家を出る間際、志乃が夫の衣服の裾を、そっと、しかし強く掴んだ。指先が微かに震えている。
「生きて帰ってください。必ず」
涙を堪え、絞り出すような声だった。
捨蔵は振り返らず、足裏でしっかりと大地を踏みしめた。武骨な顎を少しだけ引いて、不器用に微笑む。
「大丈夫だ。貧乏人の笠売りには、三途の川の渡り賃すらない。六文銭を持たぬ男を、閻魔も引き取りはすまいよ。行ってまいる」
それだけを言い残し、つわものは霧の向こうの死地へと静かに歩み出した。




